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スフィンクスと記念撮影した男たち  作者: 明智龍之介
第2章 上海
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1864年1月6日 上海

1864年1月6日 上海


 地獄のような航海を終え、ようやく上海に到着した。ここで船を乗り換えるらしいのだが、まだ新しい船が上海へ着いていないようで、池田達はアストルハウスという下宿で過ごすことになった。

 「やっぱり陸地はいいなぁ!」

 池田が大きく伸びをした。束の間ではあっても、ようやく船酔いに苦しむこともなく、慣れないフランス料理に嘆くこともない生活を送ることができる。河津の顔も自然と綻んでいる。

 「さて、では早速食事にしましょうか。」

 通訳の塩田が皆に声を掛けた。池田達は、ぞろぞろと食堂へと移動して行った。


堀江六五郎と西吉十郎は同じ37歳同士であり、モンジュ号の中で部屋も同室であったということもあり、いつの間にか仲が良くなっていた。今も隣同士に座って食事をしようとしているところである。

西は長崎海軍伝習所にいたことがあるため、西洋文化にはある程度“免疫”がある。そのため、ナイフとフォークを使った食事もお手の物である。一方、昔気質の堀江は“The日本人”であり、“箸がないなら手掴みで食事をする”という頑なさと豪快さを持ち合わせている。全く違う人生を歩んできた2人が、この使節団を通して仲良くなるというのも数奇な運命のひとつと言える。

「さ~食事、食事~!」

西が嬉しそうに手を擦り合わせながら、舌なめずりしている。今日の食事は軍艦生活で食べてきたフランス料理とは違い、日本人にも多少馴染みのある上海料理である。堀江も椅子に座りながら、皿の上に載った料理を眺めて目を輝かせている。

「う~ん、美味そう!食欲をそそる香りだわ~。この香辛料の、汗かきそうな感じがいいなぁ~。うんうん。」

モンジュ号の中でフランス料理に悪戦苦闘し、腹痛と嘔吐に悶絶していた堀江は何処へやら…といった感じである。

西も堀江の言葉に頷きながら、皿の上に載った上海蟹の甲羅に手を伸ばそうとした、その時だった。西の鼻孔に独特の刺激臭が“ツン”と香った。

「ん?…今の何??」

西は辺りを“キョロキョロ”と見渡した。それから、鼻を“くんくん”と鳴らして匂いを嗅いだ。確かに変な匂いがする。しかし、どこから漂ってくるのかが分からない。

「何だろう…この匂い。蟹の生臭さ…いや違う。炒めてあるし、この蟹。…料理じゃないなぁ~。何か…どこかで嗅いだことがあるような匂いなんだけどな~。どこだったかなぁ。…思い出せないなぁ…。」

しきりに首を捻る西。その隣に座っている堀江も、上海蟹の爪を持ったまま変な動きをしている。蟹の爪を口の近くまで持って行っては離し、首を傾げてはまた持っていくという繰り返しである。

「おっかしいなぁ…。」

堀江が呟いた。その声に、西が反応した。

「どうしたの、堀江君?」

堀江は上海蟹を持ったまま、西の方を向いた。蟹の爪を西の顔の方へ向けている。

「何かね、刺激臭がするんだよね…。蟹を食べようとするとさぁ、何か変な異臭がしてさ~。蟹が口の中に入っていかないんだよね~。」

西は目を丸くした。

「えっ!堀江君も?実は私もなんですよ。“ツン”とくる匂いじゃない?」

「そうそう!蟹から匂ってくるのかなぁ…?」

堀江は蟹に鼻を近づけて“くんくん”してみる。鼻の頭に上海蟹のソースが“べとっ”と付いたが、堀江は気にしている様子もない。堀江は、すぐに首を傾げた。

「蟹っていうよりも、この家なのかなぁ…?ナイフやらフォークやら箸やら皿やら何でも匂うような気がする…。」

堀江の言葉に、今度は西が首を傾げた。

「え、そう?」

西も鼻孔を動かす。しかし、自分のナイフからは異臭を感じない…。まさかと思い、西は堀江のナイフに鼻を近づけた。

「あっ!!うっ…!!?」

刺激臭に軽く眩暈がした。西は鼻を抓んで堀江を見た。

「堀江君のナイフ、臭いね。」

「えっ!?やっぱり…。何だよ~このナイフ、ちゃんと洗ってないのかよ…。」

堀江が口を尖らせている。しかし、西は何だか違和感に襲われた。

「いや、ナイフというよりは…手じゃないかな?」

西は恐る恐るといった感じで堀江の手に鼻を近づけた。“ツン”とくる刺激臭…。間違いない。異臭の原因は堀江の手だ。

「うっそぉ!?俺の手が臭いの??」

堀江は哀しそうな顔をしながら、自分の掌を“じっ”と見つめている。

「初めて言われたよぅ…。さっきちゃんとトイレで手も洗ってきたばっかりなのに…。おかしいなぁ…へこむなぁ…。」

堀江の呟きに、西が“ぴくり”と背筋を伸ばした。

「…手を洗った?トイレで??」

西の言葉に、堀江が頷いた。

「うん。洗ったよ。当然でしょう?」

「…トイレのどこで?」

「え?どこって…手水鉢に決まってんじゃん。」

堀江は当然といった様子で答えている。西は目をぱちくりさせながら、静かに言った。


「堀江君。トイレの後に手を洗うという習慣があるのは、日本だけなんだよ。」


西の言葉の意味が、堀江には最初分からなかった。疑問符が浮かんでいる堀江に、西が説明した。

「このアストルハウスは西洋人を一時的に下宿させるための施設のはずだから、トイレに手水鉢はないはずだよ。西洋人はね、トイレの後で手を洗うっていう習慣がないんだから。私が接待したロシアのあのプチャーチンもトイレから出た後、手なんか洗ってなかったから。」

ようやく言葉の意味を理解したのか、堀江は“えっ”と驚きの声を上げた。

「でもでも、立派な壺みたいなものがトイレから出たところの棚の上に置いてあったよ?何か伊万里焼みたいな高級そうな壺が…。ちゃんと中に水も入ってたし。」

西が“ぶるっ”と体を震わせた。そして、大きく頷いてみせた。

「その水さぁ…濁ってなかった?」

西の問い掛けに、堀江は顎を異臭のする掌で擦りながら考えた。

「う~ん…。そう言えば濁ってたかもしんない。まじまじと見たわけじゃないからよく覚えてないけど。」

堀江の言葉を受けて、西が頬を引き攣らせた。そして、少し迷いながら口を開いた。


「それ、おしっこだよ。」


西の言葉に、堀江は“どぅぇ!!”という奇妙な擬音を漏らして仰け反った。

「…何でそんなの置いてあんのさ…。」

「肥料として田畑に蒔くためでしょう、きっと。」

西は“にやにや”しながら堀江を見ている。堀江は“げんなり”したまま手を宙に浮かせている。

「まぁ知らなくてもしょうがないよね~。何と言っても私はあのプチャーチンの接待役をやった人間だからさ~。そういう西洋事情にも詳しいわけで…。」

「…プチャーチンの下り、いま必要?」

堀江が少し“ムッ”とした表情で言った。自分の不幸を笑い、自慢話にすり替えられているように感じたからだ。それでも、西は喋りを止めない。

「関係大ありだよ~。だって私があのプチャーチンと一緒に仕事してなかったらさ~ずっと解決しない問題だったわけで…。」

西が得意げに話しているところに、理髪師の青木が“いそいそ”と食堂の扉を開けて中に入ってきた。

「何か…さっきトイレで手を洗ってきたんだけど、匂うんですよね…。これ、何でですかね?」

青木が首を傾げながら自分の手を恐る恐る嗅いでいる。


被害者は、他にもまだ出そうだ。


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