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スフィンクスと記念撮影した男たち  作者: 明智龍之介
序章
1/18

1921年4月1日 上海

1921年4月1日 上海


 芥川龍之介はベッドの上で半身を起こしながら、本を読んでいる。顔色は蒼い。

 「もぉ~。先生、大人しく寝てて下さいよ~!」

 林檎を皿に載せて、女性新聞記者の杉山が病室に入ってきて早々に声を上げた。芥川が“ちらっ”と杉山を一瞥する。

 「今、腐るほどの余暇があるのだ。溜まっていた小説を読まなきゃもったいないじゃないか。これはフランスのあの“首飾り事件”で有名なラ・モット夫人が書いた短編集で…。」

 「こ~んな細かい字を読んでたら、治るものも治らないですよ!」

 杉山が腰に手を当てながら怒っている。芥川は肩を竦めてみせた。そして、杉山の手にある林檎を見つめた。意外と綺麗に皮が剥かれている。

 「君は包丁を使えるのか?」

 芥川は不思議そうに杉山を見た。跳ね上がった布団を“ぱんぱん”と叩きながら、杉山が頬を膨らませている。

 「使えますよ、包丁くらい。女子ですから。可憐な女子ですけど、包丁くらいは持てるんですから。それよりも安静にしてて下さいよ、先生!お熱があるんですよ!?分かってますか??」

 まるで子どもをあやすかのような杉山の口調に、芥川は唇の端を歪ませて苦笑した。

 「可憐ねぇ…。まぁそれは置いておいて。自分の身体は自分が一番よく分かっているさ。頭がクラクラするし、全身もダルい。」

 「分かってるんだったら、大人しく寝てなさい!!」

 杉山に一喝されて、芥川は渋々ベッドに横たわった。


 大阪毎日新聞の海外視察員として中国を訪れていた芥川は、上海上陸早々に乾性肋膜炎を患い、入院生活を送るハメになっていた。

 芥川は枕の下で腕を組み、その上に頭を乗せて溜め息をつく。

「あ~あ。せっかくの上海旅行が…。ツイてないなぁ。」

 あれこれと観光スケジュールを組んでいたが、全てスライドさせることになってしまった。大阪毎日には電報を送ってある。“ゆっくり養生せよ”との返信を受け取ったのは、ついこの前のことだ。

「ツイてないのはこっちですよ~!せっかく美味しい上海料理をお腹いっぱい食べようと思ってたのにぃ。」

 杉山が頬を膨らませながら、林檎をサイドテーブルに置いた。林檎の甘酸っぱい匂いが、ほのかに香る。ただ、残念ながら今の私には食欲がない。

 「食べてくればいいじゃないか。杉山君は健康なんだから。」

 芥川が声を掛けると、杉山は少し寂しそうな顔をして芥川を見た。

 「ひとりで食べても美味しくないじゃないですかぁ。やっぱり先生と一緒に食べたいですよ~。」

 杉山の言葉に、芥川は少し頬を赤らめた。

 杉山の言葉が、芥川には妙に嬉しかった。自分は上海料理を食べたいだろうに、それを芥川のことを気遣って遠慮してくれている。その心遣いが、芥川の心を温かくしてくれた。なかなか相手の気持ちを慮って行動したり、考えたりということは出来ることではない。心の底から相手のことを想い、相手のことを好きでいなければ、そういった具体的な行動として表に出すのは難しいものだ。

私は、大きくベッドの上で伸びをした。

 「じゃぁ、杉山君のために早く治そう。治ったら名物の上海蟹でも食べに行こう。」

 「カニですかぁ!うわぁ~楽しみだなぁ~。私、上海料理は初めてなんですよ~。」

 杉山が目をキラキラさせながら微笑んでいる。

 「杉山君…よだれ。」

 杉山は慌てて手の甲でよだれを拭った。それを見て、芥川も笑った。


 「そういえば…。」

 私の口から呟きが漏れた。私は首を伸ばして窓の外を見つめた。窓の向こうには海が見える。決して綺麗な海ではない。灰色に濁った暗い海だ。しかし、その細波の音は非常に繊細で、私の病躯を癒してくれる…そんな感じがした。

 「江戸時代末期に、幕府が使節団を派遣したのを知っているか?」

 芥川の問いかけに、杉山は首を横に振った。

 「シセツダンって、海外に派遣された人達ってことですよね?でもでも、江戸時代って鎖国してたんじ ゃないんですか?自由に外国なんて行けないっていうイメージがありますケド…。」

 杉山の言葉に、芥川は静かに頷いた。

 「そのとおりだよ。だから、歴史に詳しい人間だってこの事実は知らない人が多いだろう。何てったって“忘れ去られた記憶”だからね。」

 「“忘れ去られた記憶”…?」

 杉山が首を傾げた。芥川は杉山の目を真っ直ぐに見つめた。

 「そう。それは幕府にとっては失敗に終わった些細な出来事だった。日本全体から見たって、それは歴史の時間軸の中に埋もれてしまうような出来事で、取り沙汰されるような大した出来事じゃなかった。でも…それに参加した人間にとっては大きな一歩だった。そういう時限の話しがあるのさ。」

 杉山は、サイドテーブルに両手を“ばんっ”と付いた。林檎が皿ごと飛び跳ねる。

 「それ…面白そうじゃないですか!」

 鼻息の荒くなった杉山を、芥川は呆然と見つめていた。

 「…小説にはしないよ、言っとくケド。」

 私の言葉に、杉山はコケる仕草をしてみせた。

 「もぅ!ど~して描かないんですか!!そんな面白そうな話を…。」

 「面白いかどうかなんて君に分かるのか?まだ何も聞いてないじゃないか。」

 「これから聞きますよ。たっぷり時間はあるんですから。」

 杉山の言葉に、芥川は目を“ぱちくり”させた。

 「…話せ、と?」

 私の問いかけに、杉山が高速で頷く。私は辟易した顔をしてみせた。

 「病人なんですケド…ぼく。」

 「腐るほど余暇があるって言ってたじゃないですかぁ。ご自分で仰ってたんですよ。その余暇を有意義に使いましょうよ。」

 杉山が“にこにこ”と微笑んでいる。先ほどまでの前言を撤回する。彼女は芥川のことなど考えてはいない。単に好奇心に揺れ動いているだけだ。

「しょうがないなぁ。少しだけだぞ。」

 そう言って、芥川は大きく溜め息をついた。


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