8.資格と条件
「ともかく、ここから離れようか」
地下牢から続く通路を出ると、ヴィンスが呪文を唱えた。
とたんに一瞬で景色が変わり、ふたりのいる場所がどこかの路地に変わっていた。
「さっきの、君が“ヒロイン”って話だけどさ」
周囲を確認してヴィンスはほっと息を吐くと、フィーを下ろした。
靴だけは貴族令嬢用の華奢なもののままだけど、歩くのはほんの少しの距離だ。問題ないだろう。
「君がどんな妄想に囚われてるのかは知らないし、もちろん、ここを舞台にした物語も伝説も数え切れないほどあるよ。
でも、今、君は君の物語を生きているところで、既にできあがった物語の登場人物をなぞってるわけじゃないことは理解してる?」
「どういう意味? わたし、この物語のヒロインで合ってるのよね?」
ヴィンスは少し苛立たしげにガリガリと頭を掻いた。
フィーは慌てて言葉を繋ぐ。
「わたしの前世にはそういうゲームも小説もたくさんあったの。転生したってわかった時、本当に異世界転生ってあるんだって思って、だからこれもそうなんだって……だって、サレ様だってわたしがこの物語のヒロインだって言ったのよ。それに、ソウ様はイケメンでかっこいいし、優しいし、貴族の王子様だったし、ヒロインは王子様と結ばれるのが鉄板で……悪役令嬢だっていたから、わたし……」
「別に、転生とか否定しないけどね」
ヴィンスの言葉に、フィーは安堵とともに顔を上げた。
“前世”で生きていた世界じゃ、前世を覚えてるなんて言ったら頭の病院に連れて行かれるのが関の山だったからだ。
「魂はおおいなる転輪を巡り、次なる生へと向かう……って、大昔に誰か偉い魔術師だか司祭だかが解明してるし、神々だって否定していない。
もちろん、産まれる前の記憶を持ったまま転生するのは珍しいけど、ありえないわけじゃない」
「それじゃ……」
「でも、それとこれとは別だよ」
「別?」
はあ、とヴィンスが溜息を吐く。
実際、転生した者の記録や物語はあちこちに伝わっているし、記憶を残したまま生まれ変わるための“転生”の神術だってあるのだ。
神々の介入があるにしろ無いにしろ、魂が何度も転生を繰り返すのは魔術的にも神学的にも常識だ。
ついでに、魂に強く刻まれた記憶や経験はアケロン河で洗われた後まで消えずに残るという、どこぞの魔術師の研究結果だってある。
フィーに前世の記憶があったとして、別におかしなことではない。
「大前提として、“人は己の人生という物語の主人公である”というのはわかる? 昔の詩人が言ってた言葉なんだけど」
「なんとなく、なら……?」
フィーは不思議そうに首を傾げる。どうやらそこの概念は共有できていそうで、ヴィンスは少し安心した。
「そのうえで、これは俺の吟遊詩人としての考えなんだけどさ――君は“ヒロイン”ってなんだと思う?」
「え?」
さっきの言葉といい、ヴィンスはいったい何が言いたいのか。
フィーは困惑のあまり、不安になってくる。
「“ヒロイン”、すなわち女主人公のことだよね。
世界には数多の物語が存在しているけど、君は、その主人公たちがどうして物語に詠われるほどの存在になったんだと思う?」
「それは、そう産まれたからよ」
なぜそんなことを訊くのかという顔で、フィーは首を傾げた。
ヒロインというのはなるべくしてなるもので、そもそもがそういう星の下に産まれてくるものなのだ。
何かしらの運命を背負って生まれてくるから“ヒロイン”になる――どんな小説でもゲームでも、そう語られているのだから当たり前だ。
けれど――
「違うよ」
あっさりと否定されて、フィーの眉が寄る。
「でも、運命が……」
「運命なんて最初から決まっているわけがない。
神々は人に成すべきことを示すけれど、それを成すかどうか……成し遂げられるかどうかも含めて、その人物次第だ」
「どういうこと?」
「つまり、強い意志と心を持った者が諦めることなく成し遂げて初めて、“それは運命だった”と語られるものなんだよ。
失敗すれば、誰にも気に止められることなく忘れ去られるんだからね。
英雄もヒロインも、皆、結果が作るものだ」
きっぱりと述べるヴィンスに、フィーはさらに困惑する。
ヴィンスの言うような英雄……主人公になれるのだって、そういう恵まれた資質を持って、そういう星の下に産まれたからこそではないのか。
「で、君は自分が主人公だっていうけど、それに足るべく、何を為して何を成し遂げた?」
ヴィンスは微笑みを浮かべてフィーに尋ねた。
何を、と言われてもフィーにはわからない。フィーはサレのサポートの通りに自分を磨いて来ただけだ。
まっすぐフィーを見つめるヴィンスの目は、笑っていない。
「わたし、そんなの知らない……だって、わたしはこの世界のヒロインだって、サレ様が、そう言って……」
「サレか。あの魔女に唆されて、君は勘違いしたと言いたいんだね」
「だって、サレ様は何でも知ってて、わたしのサポートキャラで、サレ様の言うとおりにすれば、何でもわたしの思うとおりに進んで――」
「だから君は、何も考えようとしなかったんだ?」
「だって……」
サポートのアドバイスに従って一番いい選択肢を選ぶのが、ゲームでハッピーエンドを迎えるためのセオリーである。小説だって、ヒロインを助けてくれる、いわばサポート役のキャラがいるものだ。
サポートを無視すれば、フィーのハッピーエンドは叶わない。
いや、叶わないだけならまだいい。万が一バッドエンドなんか迎えてしまったら、目も当てられない。
「君、まだ、この世界が誰かの意思で作られて用意された、君のための何かだと思ってる? 君はこの世界で生きているのに? 俺がこうして話していることも、全部誰かが書き連ねた戯曲か何かの一部だと思ってる?」
わからない。
フィーはこれまでずっと、ここはゲームか何かの世界で、自分も他の人たちも皆、その登場人物だと信じて生きてきたのだから。
「いいかげん自分の頭で考えなよ。何もかもを誰かの言うなりって確かに楽だけどさ……そもそも君って、自分で何かしたことはあるの?」
「自分で……?」
「そう。自分で考えて、自分で行動してだよ。サレの言うことに従うんじゃなくて、自分で悩んで考えて選んだ行動をしてるかって意味だよ」
フィーはぽかんとヴィンスを見つめ返す。
そんなの、普通に……普通……?
「わたし……」
ほら見ろ、とばかりにヴィンスの目が細められた。
呆れられたと感じて、フィーは泣きたくなってくる。
「ストーリーから外れるなんて、考えたことなかったもの。
そんなことして万が一バグっちゃったら、エンディングが迎えられないじゃない。ハッピーエンドが壊れちゃうかもしれないでしょう?
それに、悪役令嬢の魔女が処刑されなかったから、こんな風にわたしが魔女にされちゃったのよ。ストーリーを外れたからバグったってことじゃないの?」
「ばぐとかなんとかよくわからないけど、不測の事態が起こることなんて普通にあることだよ。生きてれば、そこら中不測だらけだ」
「不測の事態なんて、なかったわ」
ヴィンスが小さく溜息を吐く。
「先がどうなるかなんて、誰にもわからないんだよ。
でも、わからないなりに考えて予想を立てて、皆、今より良いところを目指して何かをするんだ。それに、何もかも……先がどうなるかすべてがわかってる人生なんて、本当に楽しいと思う?」
「でも」
「そもそも、ストーリーってなんだよ。君は、この世界で起こることのすべてがストーリーとして定められてるって言うのか? 運命と時の女神ですら、完全に定まった未来など存在しないとおっしゃってるのに?
もしこの先に起こることすべてが既に決まってるなら、人の選択も行動も何もかも全部が無意味ってことになるよね」
「――無意味?」
ヴィンスは無言でフィーの手を引いて、また歩き始めた。
沈黙がずっしりとのし掛かるように重くて、フィーはつい俯いてしまう。
サレが魔女でここが物語の世界じゃないなら、どうしてフィーがヒロインだなんて言ったのだろうか。
前世を思い出した時から、サレはずっとフィーについていろいろなことを教えてくれたのに。“ヒロイン”にふさわしく、可愛らしくきれいで優しい女の子にならなきゃいけないのだと、ずっと、そばで教えてくれたのに。
ソウにはじめて出会う場を整えてくれたのもサレだったのに。
フィーは、いわばこの世界のお姫様だから、ソウのような王子様と結ばれる運命で……そのために、悪役令嬢で魔女であるスイの正体を暴かなきゃいけない。
そう、サレはフィーに教えてくれたのに。
サレこそが魔女だなんて、本当なのか。
――ふと、本当にサレが魔女だったら、スイは魔女なんかじゃなかったのかということに思い至った。
でも、フィーはちゃんと証拠を見つけたのだ。
だから、スイは魔女のはずだ。
……いや、けれどあれはサレの言う通りに集めたものだった。
サレは、今度はフィーを魔女に仕立て上げて、フィーに成り代わってソウの隣にいる。サレが魔女だというのは、やっぱり本当なのか。
それなら、あの証拠は本当の証拠ではなかった?
スイが魔女だというのも冤罪だった?
フィーが集めた偽の証拠のせいで、スイは魔女にでっち上げられた?
――あの地下牢。
半日にも満たないくらい閉じ込められていただけで、あんなに辛かった。
スイは何日も何日も閉じ込められて、しかも尋問までされていたはずだ。
きっと、辛いなんて言葉じゃ表せないくらい、辛かったに違いない。
それは全部フィーのせいなのか。
「――ヴィンス」
ヴィンスに握られていた手をぎゅっと握り返して、フィーは足を止めた。
「スイ様は、わたしのせいで酷い目にあったのね? ソウ様がスイ様は逃げたって言ってたけど、本当は……本当は、死んでしまったんじゃないの?」
「フィー」
「わたしがサレ様に騙されて、嘘の証拠なんか集めて……だから、スイ様は酷いことをされて、せっかく助け出されたのに死んでしまったのね? わたしのせいなのね?」
フィーはあの広場にいたわけではない。
けれど、遠目に見ていても、スイがかなり弱っていたのはわかった。
聖騎士が現れてスイを攫った時は、魔女が逃げてしまったことが怖くて、それだけで頭がいっぱいだった。
でも、スイはあんなに弱っていたのだ。逃げたところで、結局は助からなかったのではないだろうか。
ヴィンスは黙ってフィーを見つめている。
「わたし……わたし、ヒロインに生まれ変わったから、なんでもうまく行くんだと思ってたの。生まれ変わる前のわたしはとっても平凡で、何かすごい才能があるわけでも特別可愛いってわけでもなかったけど、今はすごく可愛くきれいに産まれたし、皆にも可愛いって褒められて――きっと、これがヒロインに転生するってことなんだと思ったの」
そうだ。
あのままヴィンスが来なければ、スイのように自分も死ぬはずだった。魔女は火刑に処すことが決まっているのだと、誰かが話しているのも聞いた。
あのままひとりだったら、数日後には火あぶりにされて、スイのように誰かが助けに来ることもなく、フィーは死んだのだろう。
「ヴィンス、わたしがスイ様を殺したの? わたし、人殺しなの?」
「――全部が君のせいだとは言わない。けれど、君がまったくの無実だとも言わないよ」
「じゃあ、やっぱりわたしのせいでスイ様は死んだのね……わたし、人殺しなんだわ」
フィーは涙をいっぱいに溜めて、ヴィンスを見上げる。
「わたし、どうしたらいいの?」
ヴィンスはしばしじっと見返して……「とりあえず先を急ごうか」と、また、フィーの手を引いた。