16.花婿と花嫁
フィーはすぐに母屋に移された。以前使っていた部屋ではなく、ソウの部屋と続きになっている、領主継嗣の妻のための部屋だ。
フィーのための私室と寝室、それから夫婦で使う寝室に続く扉。
それらを眺めて、フィーは小さく溜息を吐く。
カーティスとスイとカシュ……それからヴィンスは屋敷の離れだ。
戦いの神の教会にカーティスが正式に要請した司祭が来るまでは、四人とも町に留まるのだと聞いた。
司祭の赴任はソウとフィーの結婚式のころになるとも。
サレのことがある前、ヴィンスを知る前だったら、きっとソウとの結婚はうれしかった。だって、ソウはずっとフィーの憧れの王子様だったのだから。
ヴィンスは、コトが片付いた今、フィーを気にかけることもない。会いにも来ない。
当たり前だ。全部終わったら家に送り返すと言っていたのだから、フィーとのその後なんて考えたこともなかったんだろう。
だから、これはフィーにとっての妥当な結末なのだ。
分不相応なくらいの良い処遇に違いない。
キノ=トー下位家の当主は、あれからすぐ、まだ幼い末弟に決まった。
傍系から領主家の信が厚い者を側近に迎えて、これからク=バイエ領主家の臣にふさわしい教育を受けながら育てられるという。
父と兄は処刑を免れたものの、ほとんど幽閉に近い状態に置かれることになった。謀叛とか二心とかを疑われたにしては、破格の処遇だ。
それもこれも、フィーが悪魔を追い返した“聖女の再来”だから。
フィーは自分が聖女なんかじゃないと知っている。けれど、皆は聖女だと思ってるから、聖女であるフィーに免じての処遇になったのだ。
窓を開け放して、フィーはぼんやりと外を眺める。
これからは貴族の姫らしく、もう外を走り回ることはない。
このまま町を出ることもなく一生を過ごすんだろう。
どこまでも晴れ渡った青空は、あの日……悪魔と戦った日のようだ。
空の色は同じなのに随分変わってしまった。
フィーは小さく溜息を吐いて、手元を見つめる。このままソウのところに留まってしまっていいのだろうか。
その空から、急にキョキョと鳴き声が聞こえて、フィーは顔を上げた。
いつか見た鳥が、窓枠に舞い降りてきた。
「ええと、ヨタカ、だっけ?」
ヴィンスが臨時の使い魔だと言って使っていた鳥だ。本当なら日暮れ時にならないと出てこないのに、なぜこんなところに。
「お前、まだヴィンスの使い魔をしてるの?」
フィーの言葉を理解しているのかどうなのか、ヨタカはしきりに首を傾げる。とても小鳥とは言い難い大きさの猛禽なのに、その仕草が可愛らしくてフィーはついつい笑ってしまう。
「そうだわ、お菓子を食べる?」
フィーは振り向いて、テーブルの上に置かれた焼き菓子を摘まんでヨタカへと差し出した。ヨタカという鳥が何を食べているのか、フィーはよく知らない。食べたくなければ手を出さないだろう。
「ほら、ナッツが入った焼き菓子よ――それで」
ヴィンスは元気かと訊こうとしてフィーは口を噤んだ。
聞いてどうするのか。
フィーは菓子を齧り始めたヨタカをただじっと見つめた。
「ねえ……もしお前がまだ使い魔をやってるなら、ありがとうって伝えてね。わたし、たぶんまだ、ちゃんとお礼を言えてないから……」
「フィー、どうした」
「ソウ様」
尻すぼみになる言葉に重なるように、声を掛けられた。振り向くと、いつの間にか、すぐそばにソウがいた。
「ええと、鳥が来たから、お菓子をあげてみたのよ」
「ほう? 少し小さいようだが、ヨタカか」
ソウはフィーのすぐ隣まで来るとじっと鳥を見つめる。
そういえば、ソウは、ヴィンスがヨタカを使い魔にしていたことを知っているのだろうか。もしこのヨタカがヴィンスの使い魔だったら、ヴィンスが咎められることになったりはしないだろうか。
「あの……ソウ様」
「フィー」
ソウがふわりと笑った。
頬に触れる手は温かくて、フィーの心臓がどきんと大きく弾む。
「あ、あの、ソウ様?」
「お前は、どうしたかった?」
「え?」
急に何を言い出すんだろう。
フィーは首を傾げてソウを見上げる。どうしたかったと訊かれたところで、フィーの今が変わるわけでもない。それに、訊いてどうするのか。
「いや……いまさらだったな。お前に選択肢などなかったのだから」
困ったように眉尻を下げるフィーに、ソウは小さく笑う。
「だがな……すべてを悪魔の引き起こしたこととしても、皆、治まらなかっただろう。悪魔を呼び寄せたのは誰なのか、何故なのか……ク=バイエ領主家がそのそしりを被るわけにはいかなかった」
「わかってます。それに、お父さまがサレさ……悪魔のことを隠してたのはほんとうだもの。わたし、知ってたのに、それがいけないことだってわかってなくて――ちゃんとわかってたら、よかったのに」
“玄鳥の郷”の領主家が悪魔を呼び出したと伝われば、他領の領主たちが黙っていないだろう。
だから、ク=バイエ領主家はキノ=トー下位家を見逃すわけにはいかなかったし、いかに悪魔の狡猾な謀略であっても、“聖女”フィーが望んでも、これ以上の酌量をキノ=トー下位家に与えることはできなかった。
それに、キノ=トー下位家がサレの存在を隠していたことは事実なのだ。処刑されなかっただけマシというものだろう。
「フィー」
ソウは、ぽんとフィーの頭に手を乗せる。
ほんのりと笑って、「そうだな」と窓の外にちらりと目をやった。
「あの時、天の御使いにフィーを連れて行くと告げられたら、私は諦めるしかなかっただろう」
「ソウ様? そんなこと、御使いが言うわけないわ」
「フィーは聖なる乙女で天からの賜り物だ。いつか天に還るものだろう?」
「ソウ様、何言ってるの? わたし、聖女じゃないのに」
「いや、フィーは聖女だよ。聖女なら、悪魔を討つという役目を果たした以上、天へと還ることが世の理というものだろう。
だが、お前は地に残されて、私は安堵した」
「でも、わたしは聖女じゃなくて、お父様もお兄様も罪人で、わたしが聖女だって思われてるからお目溢しされただけで、ソウ様とだって……」
「フィー。お前はここに残りたいと思っているか?」
「わたし、わたし……」
もちろん、“残りたい”と答えるべきであることは、フィーにもわかってる。
でも、どうしても“残りたい”という言葉が出てこない。
「わたし……ソウ様、わたし……」
「フィー、泣くな」
「ご、ごめんなさい。ソウ様、ごめんなさい……」
ぽろぽろとこぼれ出す涙をどうにか止めようと、フィーは少し乱暴に目を擦る。その手を押さえて、ソウは自分の胸に押し当てるようにして、フィーの頭を抱えた。
「謝ることなどない――だが、すまない、フィー」
「ソウ様?」
「お前に望まぬ選択をさせてしまう」
「そんな、わたし……ソウ様は、ずっと憧れてた、素敵な王子様で……」
「だが、お前は憧れの王子の妻になりたいわけではないのだろう?」
「そ、そんなこと」
ハッと顔を上げるフィーに、ソウは苦笑を返す。
「フィー、いいのだ。私もお前と同じなのだから」
「え?」
ソウはそれ以上何も言わず、ただフィーの頭を撫でた。
* * *
「それで、ソウ様はどうしてわたくしと話をしたいなどと?」
「いや……スイには申し訳ないことをしたと思っていると、一応伝えたほうがよいと考えただけなのだが」
「謝罪なら、もういただいております」
離れの一室でソウと卓を囲んで、スイは茶をぐいと飲み込む。
ソウがスイと話をしたいと離れを訪ねたのは、フィーの部屋を出てすぐだった。ソウの希望で、カシュだけがスイの侍女として同室している。
「ソウ様。他に話したいことがあるのでしょう? 素直に仰ったほうがよろしいかと存じますが」
「――お前には、本当に隠し事などできぬのだな」
「当然ですわ。いったい何年の付き合いになると思っていますの」
は、と吐息を漏らすソウに、スイは少々行儀悪くフンと鼻を鳴らす。令嬢時代なら絶対にやらなかったことだ。
すっかり“らしからぬ”所作が板に付いてしまったスイを眺めて、ソウはついつい笑ってしまった。
ウ=ルウ上位家とク=バイエ領主家の付き合いは深い。物心つくかつかないかのころには共にいて、気づいたら婚約していたくらいなのだから。
幼い頃から当然のようにそばにいたのがスイだった。まるで妹のように、そばにいて当たり前で……だから、こうして取り返しの付かないところへ来るまで気づけなかったのだろう。
フィーのことはもちろんかわいいと思う。
無邪気で、ささいなことで喜んですぐにくるくると表情が変わる、ふわふわとした綿菓子のような、守らなければならないか弱い少女――そう思っていた。けれど、すべてが終わった今、それは単に弱者を守らねばならないという義務感に似たものでしかなかったこともわかっている。
“文武両道と誉れ高い領主継嗣”……そう呼ばれることに誇りもあった。
けれど、今となっては飛んだ買いかぶりだ。何が誉れか。何もわかっていなかったくせに。
「スイ……お前は私とフィーの結婚を、どう思っている?」
ぴくりとスイの片眉が上がる。
今さら何を言い出しているのかと、咎めるような表情だった。
「どう思っていると申し上げればよいですか?」
「いや……外野から、この結婚がどう見えているのかと、気になったのだ」
スイは唇の端だけを吊り上げた。
ずいぶんと皮肉げな笑みを浮かべるようになったのだなと、ソウは考える。
「――“麗しき玄鳥の郷の次代の領主は凜々しく気高きソウ・ク=バイエ。その誉れに相応しき花嫁として娶るは再来の聖女フィー……なんと素晴らしき運命であろうか”
ヴィンス様なら歌にでもするのでしょうね」
「なるほど。では、お前の正直なところは?」
ソウは肩を竦めてどこか遠くを見つめる。今度は溜息を吐いたスイの表情が、呆れたものに変わった。
「気が進まず、後悔すると思うのでしたらおやめになればよろしいのに」
「後悔……なぜ後悔すると?」
「そうやっていつまでもうじうじと悩んでいるところですわ。あなたらしくもない。どうしようもないことを悩むなど時間の無駄だとおっしゃっていたのは、いったいどなたでしたっけ?」
「さすがスイ。手厳しいことだ」
ソウはくっくっと笑い始める。
この遠慮のない物言いが、まるで昔に戻ったようだ。
それに、スイの言うとおりだ。どうしようもないことを思い悩むなど、たしかに時間の無駄でしかない。
「――もう一度お聞きいたします。ソウ様は、わたくしに何を話したいのです? わたくしもそれほど暇というわけではないのですが」
「そう言うな。昔のよしみで、私の愚痴くらい聞いてくれ」
「わたくしを断罪しておきながら、ずいぶんと虫の良いことですわね」
一度は火刑に処そうとしたくせに、とスイは眉を顰める。
こうして穏やかに話してはいても、決して許したわけではないのだ。ただ、カーティスたちのために、抑えているだけなのだ。
「――とはいえ、昔のよしみに免じて聞いて差し上げるくらいはよろしいですが、愚痴の内容にもよりますわね」
「それはありがたい。実は、ひとつ恐れていることがあるのだ」
「恐れている? あなたが?」
スイの顔が、ますます顰められる。
ソウはいったい何を話そうとしているのか。
「ああ……もしこの先、フィーに天からの迎えが来てしまったら、とな」
「なんのことですの?」
「そうなれば、さすがのク=バイエ領主家であってもフィーを差し出すしかなかろうな、と。おまけに、それを理由にキノ=トー下位家にさらなる罰を与えるわけにもいかん」
「ソウ様、あなたいったい……」
スイは胡乱な顔でソウを見上げた。
その真意がいったいどこにあるのかと伺うように。
「相手があの吟遊詩人や聖騎士のような流れ者であれば、フィーも家のことを考えてここに留まるだろう。しかし、天の御使いが来たのであればそうもいくまい。領主家としてもおとなしく差し出さねばならん……という話だ。
神々が相手では、どれほどフィーが愛しくとも返さねばならんだろう?」
どこかおどけるように、ソウはやれやれと首を振る。
どこまで本気で言っているのかと考え……スイは瞠目する。ちらりと見やると、カシュも気付いたのか、戸惑うような視線を返してきた。
「では、そうならないように、せいぜいフィー様を大切にすることですわ」
「そうだな」
ソウは頷いて立ち上がると、暇を告げて出て行った。





