15.残ったものと失くしたもの
誰かの声で、目が覚めた。
詰問する声に、それに応えるどこか不貞腐れたような声。
「フィー様、目が覚めましたのね?」
問われて、パチパチと数度瞬きをするフィーを、スイの顔が覗き込んでいた。相変わらずの男装に、化粧すらしていないスイが。
「スイ様? あの、わたし?」
「カーティス様がおっしゃるには、フィー様はおそらく聖女としての力の負荷に耐えかねて、気を失ってしまったのだろうと。
もう二日も寝たままでしたのよ。目が覚めて良うございました」
「――聖女? 力?」
フィーは困惑に目を瞬かせた。“聖女としての力”などと、スイはいったい何を言ってるのだろう。
「フィー様の聖なる歌と祈りで、皆助かったのですわ。フィー様が神の御使いを呼べるほどの聖なるお方だなんて……わたくし、これまで数々の無礼を働いてしまったこと、心からお詫び申し上げます」
「え、待って。待ってスイ様。わたし、そんな……だって、聖なる歌を歌ったのはヴィンスで、御使い様を呼んだのはカーティス様なのに。
わたし、何もしてないわ」
「フィー様?」
スイの顔がさっと強張った。
何か変なことでも言ってしまったのだろうかと、フィーは不安げにスイを見返す。
スイはそっとカシュへ視線を投げると、カシュは心得たように頷いて、隣室へと行ってしまった。
「あの、スイ様、わたし何か……」
「いえ。フィー様がどう思っていらっしゃるかは存じませんが、天の御使い様を呼んで悪魔を追い払ったのは、間違いなくフィー様ですのよ。
わたくしはすぐそばでずっと見ておりましたもの。
間違いなく、フィー様のお力です」
スイは力強く断言してにっこりと微笑んだ。
けれど、フィーの記憶じゃそれは違う。だって、フィーはただ怖くて震えて、ヴィンスの後ろに隠れていただけだったのに。
「フィーが目を覚ましたって?」
ガチャリと音がして、ヴィンスが入ってきた。
小ざっぱりしてはいるけど、着ているのは寝巻きに上着を羽織っただけの、寝起きと言っていいような格好だ。しかも、ペタペタと裸足のままで。
フィーが最後に覚えているのは、激昂した悪魔に攫われそうになっているヴィンスだった。気持ちの悪い赤い炎に絡め取られ……カーティスが天使を呼ばなかったらいったいどうなっていたのだろうと考えると、心臓がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
けれど、ヴィンスの声はとても元気そうで、フィーはほっとした。
「よかった、ヴィンス、無事だった……え?」
フィーは身体を起こして……それから驚愕に大きく目を見開いた。
「ヴィンス、その髪の毛……どうしたの? 黒くなってる」
短いままのヴィンスの髪は、フィーより幾分か濃い、きれいな金一色だったはずなのに、毛先が黒かった。艶のない真っ黒な色からは、どこか禍々しさまで感じられて、フィーは思わず息を呑む。
「あ、これね」
なのに、ヴィンスは何でもないように毛先を摘んでみせた。
毛束の半ばから先が黒くなった髪をヴィンスは指先でくるりと巻く。
「地獄の炎に触られて黒くなっちゃったんだよね。切ったら無くなるかと思ったけど、やっぱ無くならなくてさ。
まあ、叔母上の変容に比べたら毛先の色くらい大したことないし、なんていうか、箔がついたって感じ?」
「何が箔だ、馬鹿者が!」
あくまで軽い調子のヴィンスを、カーティスが怒鳴る。
「お前は、一歩間違えれば生きたまま九層地獄界に捕らえられていたのだぞ! しかも、よりによって、あの悪魔大公に呼びかけるなんて!」
「だってさ、ほかに手段無かったじゃん? それに、あの大公なら俺の声を拾うんじゃないかと思ったんだよね。うちに因縁あるし、一応父さんと母さんの息子で魔女の末裔で素質もある俺ならってさ。
で、目論見どおりなんとかなったんだから、結果オーライだって」
「だからお前は馬鹿だと言うんだ! フィー殿が居なければ、どうなっていたと思う? フィー殿の力あってこそ助かったのだぞ!」
「それも含めて結果オーライだろ!」
「行き当たりばったりが過ぎるというのだ!」
兄弟喧嘩を始めるふたりを、フィーはぽかんと見つめる。
じゃあ、ヴィンスの髪が半分黒くなったのは、悪魔のせいなのか。
けれど、それにしたって……。
「あの、ヴィンスもカーティス様も、喧嘩しないで。
それにわたし、力なんて何もないし、あそこで何もしてないのに……ヴィンスを助けたなんて、とんでもない勘違いよ」
ヴィンスとカーティスが怒鳴り合いをやめて、怪訝そうな顔で振り向いた。こうして並ぶとどこか似ているのは、やっぱり兄弟だからなのだろうか。
「何言ってるんだよ、フィー。あんなに次から次へと聖歌を歌って天使まで召喚しといて、まだ寝惚けてるの?」
「フィー殿が十天国界から御使いを呼んだのではないか。どの神から遣わされた御使いかはわからないが、フィー殿の助力があってこそ、我々も町も皆救われたのだが」
まったく覚えのないことを言われて、フィーも混乱する。
あの戦いで皆記憶があやふやなだけじゃないか。
そう言っても、フィーだけが、フィーのしたことを覚えていない。いや、フィーではない他の誰かがしたことなのだと覚えている。
何度確認しても、何を否定しても、聖歌を歌ったのも天使を呼んだのもたしかにフィーなのだと、フィー以外の全員が断言するのだ。
そんなはず、ないのに。
「――つまり、代価ということか」
とうとう、カーティスがそんなことを言い始めた。
「代価?」
「そう。ヴィンスがかの悪魔大公を呼んだ代価に黒を得たように、フィー殿は天使を呼んだ代価として聖なる力を失くしたのではないだろうか。
思えば、あの天使が去る前に、フィー殿に何かをしたようでもあった。そのせいで力が消え、記憶が書き換わっているとは考えられないか?」
「あ、そういえば、フィー。君の前世とかいう……」
「前世? 何のこと?」
え? と首を傾げるフィーに、ヴィンスが絶句した。
「何のことって……」
「あの、だって、前世って生まれる前のことよね? そんなの覚えてるわけがないわ。赤ん坊の頃のことだって覚えてないのに……」
驚愕するヴィンスに、どこか言い訳がましいフィーの言葉が、尻すぼみに消えていく。
「あー、そういうことかあ」
「ヴィンス?」
「フィーの前世の記憶のせいだったんだよ。フィーの力って。で、用が済んだか何だかで、もうフィーにはいらないものだから消したってことなんだ」
「え? え?」
ヴィンスはひとりで納得して、ぐしゃぐしゃと自分の頭を搔き回す。
「じゃあ、フィーはあの聖歌のこと、全然、かけらも覚えてないってこと? ほんとに? マジで?」
「でも、聖歌……って、わたし、ヴィンスが歌ったと思ってて……」
「なんだよ。一度聞いたきりで、しかも不完全なのに再現しろってか!」
とうとう大声を上げるヴィンスに、フィーは唖然とする。
何の話をしているのだろう。
もしかして、フィーに聖歌を教わるつもりでいたのだろうか。
唖然としたまま凝視するフィーを放って、ヴィンスは悪態とともに隣の部屋へ駆け戻ってしまった。すぐにリュートの音と一緒に、ヴィンスのああでもないこうでもないという声が聞こえてきた。
カーティスがそちらを見て、やれやれと小さく溜息を吐く。
「どうやら、聖女としての力と記憶がフィー殿からなくなってしまったことは、確実らしいな」
「あの、わたし……」
残念そうなカーティスの呟きに、フィーは困った顔で眉尻を下げる。
もしや、この後も聖女の力とやらを要求されるはずだったのだろうか。覚えてもいない、ありもしないものを出せと言わたところで、フィーだって困る。
あてが外れて、カーティスもがっかりしたということなのか。
「フィー殿は、これからどうしたい?」
「どう、って」
カーティスはもう一度溜息を吐いた。
どこか逡巡するような、考えるような表情で、「実は」と続ける。
「フィー殿の生家であるキノ=トー下位家は処罰されることが決まった。悪魔の存在を隠匿していた罪でだ。
――だが、サレが真実聖女だったとしても、処罰は翻らなかっただろう。領主家に二心あるがゆえの隠匿だというのが、罪状の主たる内容だった」
「そう、ですか……」
父も母も兄弟も、あまり折り合いが良いとは言えなかった。
どこか他人行儀な気がして、距離があって……それは、自分がサレに懐き過ぎていたからだろうと、今は思う。
「だが、フィー殿が聖女の再来としてソウ殿の伴侶となるのであれば当主の交代で済ませると、通達があったという」
「え……」
「フィー殿の聖歌と力で悪魔を退けたことは、領主継嗣であるソウ殿も直接目にしていたことだ。衛士たちはもちろん、隠れていた町の者たちも、皆知っている」
「でも、わたし、聖女の力なんて、ないのに」
「本当か否かは、既に関係無いのだろう。フィー殿が聖女の再来であると皆が信じていることが、重要なのだ」
「わたし……」
きっと、サレのことがある前の自分なら、手放しで喜んでいたはずだ。
なのに、今はあまりうれしくない。
「あの、わたしがソウ様と結婚しなかったら、うちはどうなるんですか?」
「正直、わからない」
言葉を濁すカーティスに、今度はフィーが溜息を吐いた。ぐっと眉を寄せたスイが、カーティスの言葉を継ぐ。
「領主様やソウ様の胸先三寸ではありますけれど……最悪、取り潰しや処刑もありますわね」
「スイ殿」
「スイ様……」
「安易な慰めなど、わたくしには言えませんわ。キノ=トー下位家は謀叛を企てていたと取られても仕方のない状況ですのよ。もし取り潰しであっても、温情に溢れた判断と言われたでしょうね。
謀叛は一族郎党の処刑というのが相場です。フィー様が聖女の再来なればこそのお目溢しですわ」
家ぐるみで悪魔サレを隠匿していた。
そのことを考えれば、たしかに妥当なのだろう。それを、フィー次第では無しにしてもらえるのだ。
どんなに疎遠でも、家族を見捨てるなんて。
フィーが選べる道なんて、ひとつしかなかった。
隣室への扉をちらりと見て、フィーはもう一度溜息を吐く。
「わたし、ソウ様と結婚します」
「フィー殿は、それで……」
カーティスの言葉を遮って、フィーは続ける。
「だってわたし、王子様のお嫁さんになるのが子供の頃からの夢だったんだもの。これで夢が叶うってことなの。うれしいに決まってるわ」
フィーは、ただ、にこりと笑った。





