13.聖なるものと邪なるもの
翌日、笑えるくらいに晴れていた。
こんなに気持ちいい日なのに火刑なんて、頭がおかしいんじゃないかと思えるくらい雲ひとつなく晴れ渡った日だ。
フィーは思い切り空を見上げる。
刑の執行は太陽が中天に達するころ。
スイもフィーも男装して頭からすっぽりマントを被っている。
スイには、カーティスが家に伝わる護剣だと言って、銀の短剣を渡した。フィーにも丸腰では危ないと、鉄の短剣が渡された。
どうせ使えないのにとは思ったけれど、ヴィンスの縄を解くのには必要なのだと、フィーは受け取った。
それから、カシュも含めて全員に、カーティスが神の加護とやらの神術をかけてくれた。悪魔のちょっとした魔法とか瘴気とか、そういうものから皆を守ってくれるらしい。この世界の神というのは、祈られるだけじゃなくて本当に奇跡を起こしてくれるのだなと、フィーは感心した。
広場で、フィーとスイはなるべくヴィンスに近い場所に立つ。カーティスが行動を起こしたら、どさくさに紛れてヴィンスの縄を解くのがスイとフィーの役目だ。
それから、ヴィンスに荷物を渡すのも。
カシュは隠れたまま、三人をフォローする。
正直、本当にうまく行くのかどうかとても疑わしい。けれど、カーティスは悪魔の正体を暴けばどうとでもなると考えているようだった。
――だいたい、「作戦」というものは、もう少し周到に練らなきゃいけないものではないか。
そう思ったところで、フィーに妙案があるわけではない。前世も今世も、そんな荒事とは無縁に暮らしていたし、そんな勉強をしたこともない。
スイはカーティスを心から信じて、失敗の可能性なんて微塵も考えていないようだった。
これがヒロインの格というものか。
ヴィンスは大丈夫だろうか。
最悪のことになったら逃げればいいなんて言ってたけれど、はたして、そんな最悪の時に皆が無事に逃げられる余裕なんてあるのかどうか。
「フィー様、しっかりなさいませ」
「スイ様」
そろそろ頃合いだと広場へ向かいながら、スイが囁いた。
「ここまで来たら、腹をくくるしかありません。カーティス様は戦いの神の使徒ですのよ。きっととてもお強くて、悪魔など一刀両断にしてしまいますわ」
「そう……ですね」
あくまでも軽く楽観的なスイに、フィーは軽く深呼吸をする。
ここまで来てしまったのだ。スイの言葉どおり、覚悟するしかない。
広場にはすでに人集りができていた。
スイとフィーは、なるべく火刑台のそばに陣取り、カーティスはソウやサレが現れるであろう位置の正面に陣取る。カシュの位置はわからないけれど、スイからあまり離れてはいないはずだ。
立てられた磔台の下には沢山の薪が積み上げられていた。フィーは怖くてまともに見られず、目をそらしてしまう。スイも、心なしか顔色が悪い。
前回……スイが処される時は、ここまで怖いと感じなかった。あの時はお芝居でも見ているようで、どこか遠い出来事に感じていた。
でも今は違う。カーティスが失敗すれば、皆……ヴィンスもフィーも、ここにいる誰も彼もが死んで悪魔に変わってしまうのだ。
「大丈夫ですわ。カーティス様はわたくしを助けてくださったのだもの」
「スイ様」
「きっと、今度は皆も救ってくださるわ」
「――悪魔を、倒して?」
「ええ。そうよフィー様。カーティス様は必ず悪魔を倒してくださるわ」
スイはにこりと笑う。息を吐いて、フィーも小さく笑い返した。
そうだ、ここまで来てうだうだと心配したってしかたない。
「フィー様。もし邪魔が入るようでしたら、わたくしとカシュがなんとかしますわ。フィー様は、ヴィンス様を解放するほうに集中してくださいませ」
「え?」
「わたくし、これでも護身にと短剣の扱いは教えられていますの。それに、カシュもおりますもの。任せてくださいませ」
「は、はい」
隠し持った短剣の柄を握り締めるスイに、フィーは慌てて頷く。
フィーもマントの下の、ベルトに括り付けた短剣の柄に触れてみた。振り回したりすれば、フィー自身の身体を自分で切りつけてしまいそうだ。
先触れのラッパが鳴らされた。
衛士の先導でソウと“フィー”が出てきて、用意された高台の椅子に座る。その周囲は、もちろん、衛士達が守っている。
次に、フィーの姿をしたヴィンスが文字通り引き摺り出された。両手と足首は拘束されたまま、首に縄をかけられ、よろよろと磔台へと連れ来られる。
歩み出た官吏が、手の巻物を広げて“魔女”の罪状を群衆に向けて読み上げ始めた。
「これなる“魔女”は……」
「待て!」
頭からマントをすっぽりと被っていた長身の男が、制止の声を上げた。
いつか見た光景に群衆がどよめき、衛士達が剣の柄に手を掛ける。
「何者か」
ソウが立ち上がった。“フィー”は怪訝そうに目を眇める。
男がマントの留め金を外した。
ストンと落ちたマントの下からは、鮮やかな赤毛と、紅地に戦神の聖印を染め抜いたサーコートが現れた。
「お前は……」
いったいどうやって入り込んだとソウと衛士達が色めき立つ。
「本当の“魔女”の出現を待っていたのだ」
「本当の“魔女”?」
ソウはちらりとヴィンスを見やる。
カーティスはくすりと笑って、「違う」と剣を抜き放った。
「我が聖剣シェーファーよ、どうだ?」
『おお……ぷんぷん臭うぞ。邪悪なる者の腐臭にまみれた魔力が、そこら中に満ちておるわ』
「何を申すか無礼者め! 何が神の剣か! 前回のみならず、今回までも邪魔をするというなら、不敬なる貴様もともに刑に処してやろうか!」
「待てと言っている、領主継嗣ソウ・ク=バイエ。猛き戦いの剣、聖騎士カーティス・カーリスが本物の“魔女”……いや、忌まわしき“悪魔”の正体を暴いてやろうと言うのだ」
「悪魔……?」
訝しむソウに……いや、ソウの隣の“フィー”に、カーティスはシェーファーの鋒を突き付けた。
「猛きものの聖なる御名と輝ける剣にかけて……聖剣シェーファーよ、この場の邪なる魔法を全て消し去れ!」
『任せよ!』
剣を中心に、白い光がほとばしる。
思わず目を瞑ったフィーの耳に、誰かのあげた悲鳴が聞こえた。それから、そこら中にあった何かが薄れていくのも感じられた。
光が消えた後には呆然とする衛士隊と、ソウと……その横に、黒い翼を持つ、悪魔がいた。
誰かが「化け物!」と叫んだ。
「姿を現したな、悪魔よ。戦いと勝利を司る猛きものの剣カーティス・カーリスが、貴様に引導を渡し、九層地獄界へと叩き落としてくれよう」
「なに……?」
今までソウがフィーだと信じていた相手は異形に変わっていた。
黒く滑るような鱗に覆われた肌と赤い炎が揺らめくような目、全ての光を吸い尽くすような漆黒の翼に鋭い鉤爪……。
「定命の人間風情が、これから神へと上がろうという妾に、何を……」
「神だと? 笑わせるな、聖女の名を騙らねば信仰を集めることもできない、低級な悪魔風情が」
カーティスは嘲りを隠さず、剣を構えた。
聖剣シェーファーがブンと唸りを上げて輝きを纏う。
「“伝説は語る”」
ヴィンスの声が朗々と響き渡った。
もうフィーの姿はしていない。首の縄はフィーが切った。手首の枷も外した。足枷だけはそのままだが、そこまで邪魔にはならないだろう。
「“目にも見よ、音にも聞け。彼の者は戦いと勝利を司りし神の祝福の元、この地に参じた聖なる騎士なり”」
カーティスがちらりとヴィンスを振り返る。軽く眉を顰めて、「人を勝手に伝説にするな」と呟く。
「“かの悪辣なる魔のもの、遥かなる次元の彼方、九層地獄界より来たり。聖なる乙女を屠り、この地を深き海の底に沈めんと謀る”」
ヴィンスはにやりと笑い返す。
フィーが慌てて荷物を解いてリュートを渡すと、ヴィンスはすぐに爪弾き始める。もちろん、詩人の魔法を乗せて、だ。
「“だがここに聖なる騎士あり。その御手にある聖なる剣シェーファーをもって、これなる魔のものを退けんす。
魔を暴く聖なる剣シェーファー、神の剣たるを誓う騎士の手にて、その力余すところなく振るいて乙女を救い、魔のものを討つ”」
「人間め!」
ばさりと翼を広げてサレが空中へと浮かび上がる。ひと振りした手の中に炎を纏う弓が現れてた。
「まずい」
カーティスは走るが、一歩間に合わず、サレは宙を舞う。
「“混沌の海に揺蕩いし魔力よ、我が命によりて、彼を大地のくびきより解き放て”……これを、兄貴に!」
「え……ヨタカ?」
ヴィンスが手を閃かせて呪文を唱えると、どこからか飛び来たヨタカが短く鳴いて、カーティスへと向かった。
驚くフィーに、「魔法を届けてもらったんだよ」とヴィンスが囁く。
「使い魔、呼んどいてよかったよ」
「使い魔?」
「そう。屋敷に行く前に呼んでおいたんだ。これで兄貴がちょっと遠くても、使い魔が魔法を届けてくれる」
フィーが視線を向けると、カーティスがふわりと浮き上がるところだった。まるで鳥のように……いや、もしかしたら鳥よりも自由に巧みに飛べるのではないか。
「小うるさい小蝿が……“我が名に掛けて、我が同胞よ、ここに来たれ”!」
チッと舌打ちをしたサレが、空中に紋を描いた。その紋の中心から黒い影が染み出し、地面にこぼれ落ちる。
「兄貴、追加が二体……低級悪魔だ」
「なに?」
思わず注意を逸らしたカーティスを、サレの炎の矢が掠めた。
カーティスはすぐに意識をサレに戻し、斬り掛かる。
「ヴィンス、そちらは任せた」
「ええ!?」
出てきた影は、ギチギチと顎を鳴らす歪なカマキリのような姿をしていた。おまけに、鋭い鎌が一対ではなく二対……冷気まで纏っている。
ヴィンスはごくりと唾を呑み込んだ。
ただの魔物ではなく、サレが召喚した悪魔だ。低級とはいえ、下手な戦士以上に戦えるだろう。
近接戦は趣味じゃない。おまけに、今は丸腰以下の状態だ。
どうやって、あれを凌げばいい?
「ヴィンス様」
滑るように、スイとカシュが前に出た。ふたりとも武器を構えている。
「ここはお任せを。ヴィンス様はカーティス様を援護くださいませ――衛士達、何をしているのです! お前たちの役目を果たしなさい!」
明確な命令が与えられて、やっと衛士たちが動き出す。
「――スイ? それに、フィーではなく、ヴィーニー?」
今の声で、ソウは、いきなり現れた少年が男装した短髪のスイだと気付いたようだった。さらには、さっきまでフィーの姿をしていたはずの魔女は、吟遊詩人のヴィーニーに変わっていた。
どかん、と広場の一角に火柱が上がる。
ヴィンスは舌打ちをひとつ漏らすと、宙を飛び回るサレを見上げた。
「ソウ様、話は後だよ。今はこいつらをなんとかしなきゃいけない。俺と兄貴は、あの悪魔をどうにかするから」
「だが……」
「この低級悪魔はソウ様に任せるからさ」
今の爆発は、サレの魔法だ。
空中からあんな魔法を撃たれてはたまらない。
ヴィンスはじっとサレの行動を注視して、サレが魔法を使うそぶりを見せるたびに、不協和音を奏でて集中を妨げる。
その間にカーティスは何度も斬り掛かる。しかし、さすが悪魔か。数度斬撃を食らわせたくらいでは弱ったりしないらしい。
「“我が同胞よ”!」
サレが忌々しげにヴィンスを見やり、また、低級悪魔を呼んだ。
先の二体と同じような、カマキリもどきの悪魔だ。カマキリもどきはすぐにヴィンスへ向かって鎌を振りかざす。
「“魔力よ盾となり守れ”!」
ヴィンスはとっさに魔力の盾を作った。「ひっ」と声を上げてフィーが目を瞑る。だが、盾に阻まれた鎌はヴィンスに届かなかった。
「兄貴、“聖歌”は?」
「余裕がない、無理だ。お前はどうなんだ」
「ごめん、俺も無理。そっちまで歌ってられない!」
なんとか悪魔の力を削がなければ、この数相手はまずい。
サレだけなら、それほど苦労はなかっただろう。あの姿から推測するに、サレはいわゆる“エリナイエ”だ。その昔、神々と悪魔が戦っていた神話の時代、悪魔に身を堕とした天使が変容したと言われる悪魔エリナイエ。
魔法はそこまで。戦士のように武器での戦いを得意とし、己に従う低級悪魔を眷属として召喚することもある。
あと何体カマキリもどきを呼べるのかはわからない。今以上ということはないだろうが、一、二体程度は呼ぶかもしれない。
「司祭がひとりいれば、聖歌でこいつらの力を削いでもらえるんだけどな」
「聖歌?」
「そうだよ。天の加護を祈るための、神に捧げる聖なる歌だ。悪魔っていうのは、聖なるものに弱いんだよ」
「聖歌……」
フィーはなるべく邪魔にならないようにと必死にヴィンスの背に隠れながら、ちらりと心をかすめたもののことを考える。
悪魔の魔法を止め、人々を奮い立たせる旋律を奏で、魔物の鎌を避け……忙しく動き回りながら、ヴィンスはたしかに厳しい表情だ。
カシュもスイも、それにソウも、衛士に指示をしながらそれぞれの得物で魔物に対峙している。
カーティスはもちろん、悪魔の剣と斬り合っている。
自分だけが何もしていない。
ただ、ヴィンスの後ろに守られて、おろおろしているだけだ。
「神様に……なら、教会のミサで歌ったやつでもいいの?」
「教会? 善なる神々の教会ならいいはずだよ。信仰心と気持ちがあればね」
「善なる神……」
“昔”のフィーは、ミッションスクールと呼ばれる学校で聖歌を歌っていた。クリスマスのミサにだって、毎年参加していた。
――唯一絶対、全知全能の神は悪魔も払ってくれるはずだ。聖書の中で、悪魔はいつでも神の威光の前に敗北していたから。
自分の信仰心に自信はないけれど、今まさに目の前に悪魔がいて皆を脅かしている。
なら、少しくらい助けてくれてもいいはずだ。
「ヴィンス、わたし、歌ってみるね」
「え?」
「とにかく歌ってみるだけならタダでしょ? だめだったら止めればいいし、迷惑にはならないよね?」
「そうだけどさ――」
フィーは大きく息を吸って、試しに大きく声を出した。
考えていたよりも高く澄んだ声が出て、少しだけ安心した。
転生してからまともに歌ったことはなかったから、今、どれだけ声が出るかはわからない。でも、今、“聖歌”を歌えるのは、フィーしかいない。
フィーは大きく息を吸った。
「フィー?」
「……“神を讃えよ! 神を讃えよ!”」
すぐに出てきたのは、“ハレルヤコーラス”として覚えていた歌だった。
※ハレルヤコーラスは、グレゴリオ聖歌ではありません
※悪魔エリナイエの元ネタはギリシア神話の復讐の女神エリニュスですが似ても似つかないものになっております





