クリスマスタブロー
そして、12月24日。午前中の、最終の通し稽古が終わり、部活が行われていない広々とした運動場で2時間ばかりソフトボールを楽しんだ後、「餃子の王将」に行ってみんな餃子1皿程度を頼んだだけで、トランプのナポレオンに熱中した(店員も、呆れているのだろうが、客が混んでいない時は、そうして何時間もトランプで占拠されているのを、毎度の事と黙認していた)。
クリスマスタブローの開場時間は午後6時、開演が6時半なので、少し早いと思ったが、葵が楽星に5時半過ぎに着くと、もう結構な行列が出来ていた。こんなに人気のある行事だとは思っていなかった。母校である平庵女学院のクリスマス行事は学生だけで行う程度のものだった。こんなに人気だとは、さすがに大々的にやっているだけあるな、と葵は思った。
陽が沈み、夜空が濃紺からより暗くなっていき、星が見え始め、少し足先が寒くなってきた頃、ようやく門が開き、列が動き始めた。後ろを振り返えると、まだ長い列が出来ていた。
案内をしている学生から薄いパンフレットを貰い、少し後ろだが真ん中の席に葵は座った。小さく聖歌のBGMが流れている。
BGMが途切れ、明かりが落ち、
「これより、第35回、楽星クリスマスタブローを開始します」とアナウンスが流れた。
キャンドルを持った、中学生だろうか、パイプオルガンの音色に合わせて客席の間を入場してくる。ゆっくり白い服を着た男の子達が無言で蝋燭の灯りに浮かび上がって歩いて行く姿は幻想的だ。
舞台の両側にある演台に静かに並ぶと、左手の聖書の朗読者にスポットライトが当たった。
「神は言った。ベツレヘムに大いなる主が現れるだろうと」
緞帳が上がり、預言者と、その言葉を聞く民がまわりに座って預言者を見上げている。
クリスマスタブローは無言劇だ。聖書の朗読に合わせて、キャストは静かな動きで表現する。
神の預言に応えるように、預言者は徐々に天に手を上げて行く。それに合わせて、ゆっくりと預言者に当たっているスポットライトの光量も明るくなっていく。
第1幕が終わると、舞台の両脇に並んで立っていた学生達が、外側から順に蝋燭の灯を消し、席に座った。
天使がマリアに処女受胎の事を告げる。白いヴェールをかけているからかもしれないが、本当に女の子、乙女のように見える。
独唱で「アヴェ・マリア」を歌い上げる男の子。声変わりをしていない男の子の声は、さすがに選ばれただけあってウィーン少年合唱団みたいに澄んだ声を響かせる。
気付かない程静かに、演台に座っていた男の子達は立ち上がっていて、独唱にコーラスを繋げている。
「恐れるな、マリア」朗読者は読み上げた。
マリアの処女懐妊に悩むヨゼフの元にも天使が現れる。
ヨゼフがマリアを受け入れる決意をすると、階上にある渡り廊下に明かりがつき、ハンドベルの心地いい音色が始まった。15人程だろうか、下からライトが当たっているので楽譜は殆ど見えないだろうのに、間違い一つない、美しい響きだった。
大講堂の入り口にスポットライトが当たり、3博士が厳かに入場してくる。客席の間を、1歩、また1歩と歩んでいく。城くんも中学3年生の時に演じた、と言っていた。マントは重かったが、タブローの中で一番豪華な衣装を着られるキャストであり、満足感があったと言っていた。そして、その3博士を演じながらも照明パートの手伝いをしていたとも。
3博士がヘロデ王に主の誕生を祝う挨拶をする。
明るかった舞台が突如暗転し、ヘロデ王に下から暗い青色のライトが、不気味な姿で浮かび上がらせた。
「新たな主の誕生をおそれたヘロデ王は、ベツレヘムに生まれた赤子を皆殺しにするよう命令した」
天使にその事を教えられたマリアとヨゼフは村を離れ、宿の馬小屋でマリアはキリストを産む。
「神の御子は 今宵しも ベツレヘムに 産まれたもう~」
幼い男の子達の合唱が歌い上げる。
キリストが産まれた事のお祝いに、村人達がダンスを踊る。
タララ タン タン タン、の最後の「タン」で照明が切り替わる。かと思うと、タララ タン タン タンの後ろの「タン」「タン」で色が変わったり、前の「タン」と最後の「タン」で赤色と黄色が青色に変わったり、クライマックスでは全ての「タン」で瞬時にライトが鮮やかに切り替わる。
これを城くんは練習していたのだな、と葵は思った。城くんは、眼を閉じていても「ダブル(2色を切り替える事)」「トリプル(3色同時に切り替える事)」、それらの逆での動きも出来るだけ練習している、と言っていた。
「綺麗だな・・・」小さく葵は呟いた。
山の後ろから天使が現れ、天使も共にキリストの誕生を祝福する。静かにパイプオルガンが「清しこの夜」を演奏し始め、ゆっくりと緞帳が降りて行き、舞台の両側にいる合唱団が、今度は内側から外側にキャンドルに灯りをともし、「清しこの夜」をハミングしつつ、客席の間を大講堂の入り口へと歩いて行く。
最後の一人も大講堂から出て行き、大講堂の鑑賞者達の中は、厳かな、心地よい沈黙に包まれていた。
客席の明かりが付き、終わりかと思った時だった。
緞帳が開き、キャストやスタッフが並んでいた。そこには城くんもいた。入り口の扉も開き、合唱団の男の子や案内をしていた学生が入って来る。
「メリークリスマス!」と一斉にクラッカーが鳴らされた。気が付けば、階上の渡り廊下からも、スポットライトを担当していた人達や、ハンドベル、音響効果をしていた人もズラリと並び、クラッカーの帯をまわりから舞わせていた。
みんな、充足感に満たされた笑顔だった。
これは恒例の行事なのだろうか?でも、舞台の真ん中に座席を与えられている特別学校の子供達も、驚いたように喜んで手を叩いている。
「これは、城くん達が考えた茶目っ気なんじゃないかな?」と葵は思った。
まだ何かあるのかと暫く座ったままだった観覧者達も、再び降りた緞帳のままで、小さく聖歌のメロディーが流れる中、席を立ちあがって帰り始めた。
緞帳の後ろから、舞台の終わった歓声が聞こえてくる気がする。
葵は、最後の1人になる位まで余韻に浸り、ようやく席を立った。
門の柱に寄りかかり、葵は立っていた。寒かったが、舞台の余韻の身体にそっと触れる風は心地よかった。
どれ位経っただろう、葵は腕時計を見た。後30分程で市バスが最終だ。もう10分位そのまま立っていた。
そして、再び大講堂に入り、一番高い場所にある、演劇部の部室であり、クリスマスタブローの照明パートのメンバーの控室である部屋の扉の前に立った。
静かで、もう誰もいそうになかった。
葵はバックの中から付箋を取り出し、何かさらりと書いて、扉に貼り、階段を降り、大講堂を出て門を抜け、バス停へ歩いて行った。
靖男達照明パートメンバーは、何故だか3年前、大学生になった先輩が差し入れに小麦粉を持って来た事から始まった、ビールかけならぬコーラやサイダーかけの後、小麦粉を振りかけ合う恒例行事で小麦粉塗れになって、その髪や顔にねちゃねちゃにまとわりついている小麦粉を洗い流してから、大道具や舞台監督と一緒に、本来ならば学校にある修道院の寝室で寝なければならないのだが、こっそり廃材を持ち出して衣笠山に登り、頂上で焚火をしながら、徹夜で語り明かした。
これも靖男が高1の時に学校には内緒で始めた行事だ。
濡れた髪や服を焚火の炎で乾かしながら、「ソビエトや東欧諸国における現状を鑑みながらのマルクス経済学の意義」や「構造主義的に見た天皇制の意味」なんて堅い話をしながらも、「アイドルは何歳までアイドルなのか?」や「ジャンプかサンデー、マガジンのどれが王道なのか?チャンピオンは何処を目指そうとしているのか?」なんて俗っぽい議論もしていた。
持って来た廃材が燃え尽きかけると、近くの枯れ枝を拾って来て炎の中に投げ込んだ。松ヤニの燃える匂いが香ばしかった。
議題は尽きる事無く、気が付けばもう東の空から白み始めた。ずっと焚火の煤を吸い込んでいた鼻は、ほじると黒い鼻くそが取れた。
ばれないように(いや、恐らく黙認されていたのだろう)、修道院の寝室に戻って寝たふりをして、布団をしまい、歩いて北野天満宮の仕舞い天神に向かった。まだ小麦粉がこびりついている制服がどこか誇らしかった。
参拝し、牛の彫像をさすり、毎年馴染みにしている、外がカリっとしていて中は舌が火傷する位に熱くてトロトロのたこ焼きを食べて、そこで解散。
靖男と宮本と生部は、炭酸飲料をぶちまけた後、小麦粉を振りまいた演劇部の部室を掃除するために学校に戻った。
大講堂の階段を上り、部室の扉の前につく。
黄色い付箋が貼ってあった。
「待ってた 待ってる」とだけ、書いてあった。
「あっちゃ~!」思わず靖男は叫んだ。
見間違える筈がない。明らかに葵さんの字だ。
そういえば最後に御所で会った時、「待っている」と言っていた。待っていてくれていたのだ。それをすっかり忘れて衣笠山で一晩を明かしてしまった。
「ごめん!自分の掃除する場所は残しておいてくれ。ちょっと急用が出来た!」付箋を取り、靖男は宮本と生部に言うと、急いで階段を駆け下りていった。
北野白梅町のバス停から市バスの50系統に乗り、運転手の横でじりじりと定期券をすぐに見せられるように手に持って、堀川丸太町に着くと飛び降りた。烏丸丸太町を通るバスに乗ればもっと早く行けたのだが、そこまで考えが及ばなかった。
御所に向かって東へ走っていく。葵さんは、何時頃から待ってくれているのだろうか、いや、もう帰っているかも知れない、そう思いながら、でも確実にあのベンチに葵さんがいるであろう事を、靖男は確信していた。
御所に入って少し奥まった所にあるベンチ、いつものベンチに葵さんは座っていた。かじかんでいるのだろうか、手袋をしている手に息を吹きかけ、こすり合わせていた。
「葵さん!」乱れた息を整えようとしながら、靖男が声をかける。
「・・・来てくれたんだ・・・」葵は小さく微笑んだ。
「ごめんなさい!待っている、って言ってくれていたのに、すっかり忘れてしまっていて」
「いいの・・・靖男くんが、本当に楽しんでクリスマスタブローをしているのを見られたから、それで十分だった」
「今日も随分待ってくれていたんでしょう?」
「どうだったかしら・・・いろいろ考えていたら、時間なんて忘れちゃった」
「考え事?」
「そう」一言いって、葵は立ち上がり、靖男のところに歩いて来た。
やっぱりちっちゃな葵さんは、靖男を見上げるかたちになる。その目は、まるで背けたくなる程に、靖男の瞳の奥底までじっと見つめていた。
「昨日までは、まだ少し迷っていたわ。でも、待っている間、そして、靖男くんが来ないんだ、と分かった時、決意が固まったの」
「え?あの・・・『城くん』じゃなくって『靖男、くん』?」
「そう、『靖男くん』」
「どうしたんですか?待たせていたのを忘れてしまっていた事で怒ってるんですか?」
「そうじゃない・・・そうじゃないの・・・」
「言葉使いも何かへんだし・・・」
「変じゃないでしょう?これが普通のわたし。今までが少しぎこちなかった。そんな力が抜けた感じがしているの」
「はい・・・」何か、普段と違う雰囲気を感じ取る。
「私ね・・・東京に行く事に決めたの・・・」
そっと北風が吹き、季節に取り残された枯れ葉が一枚、そっと宙に舞った。葵の髪も小さく風になびいた。気が付かない間に、髪、伸びたんだな、靖男は思った。
「・・・秋になった頃だったかしら。靖男くんに『ふくやまジックブック』を見せた時があったでしょう。・・・あの時、靖男くんは夢を語っていたでしょう・・・でも、私は何も答えられなかった。何も考えていなかった。エスカレーター式に短大に入っていて、そのまま卒業して、どこかの会社に就職して、結婚するんだろうな・・・なんて考えていた・・・」
葵は、頬に絡まる髪を、そっと手で整える。
「しばらく考えていたわ。何も見えなかった・・・でも、ある日、何気なく『ふくやまジックブック』を読んでいるうちに、あぁ、やっぱり私は漫画が好きなんだな、そして、ほんのちょっぴりだけど小説も好き、アニメはもちろん好きなんだな、ってしみじみ思ったの」
靖男は黙って聞いている。葵の視線を逸らさずに、じっと見つめ返しながら聞いている。
「でも、靖男くんみたいに小説が書けるわけじゃないし、きっと編集者なんて出来る力がない事も分かっている・・・そう考えているうちにふと、『司書』ってどうだろう?って思った。なんだか眼の前が、急に開けた気がしたの」葵は少し息をつく。
「別に今の短大を卒業しても、司書の仕事につけない事はない。でも、本格的に司書になりたいと思ったら、それなりの大学を卒業した方がもちろんいい。・・・色々調べたわ。そうしたら、東京の大学で、専門的に学べる学校があったの」
「・・・そこで勉強したい・・・」
「そう。どうせなら本格的に勉強したい、って」
「短大、やめるんですね」
「うん。短大との掛け持ちでは受験勉強もおぼつかないし」
「・・・そうですよね・・・」
「・・・それで・・・靖男くん・・・」少しの間、葵は言葉を濁していたが、
「年が明けたら・・・私は東京に行きます」
「えっ!?」
「どうしても京都にいると、靖男くんや友達、親に甘えて、挫けそうになる気がするの。それに、受験シーズンになると、早くから下宿を探し始める人が出て来る。東京に行くなら今しかない、って思ったの」
突然の言葉に、靖男は何も言葉に出来ない。
老夫婦だろうか。ゆっくりと砂利を歩んでいく音が耳に入って来た。
「でも、多分、今からだったら来年の受験には間に合わないね・・・靖男くんと一緒に合格するのかな?」
「自分はとてもじゃないですけど現役で合格は無理です」
「そうね。もっと勉強もしなきゃ」葵はくすりと笑った。
「・・・ごめんね・・・美術館に誘ってくれた時、『1年待って』って言っていたのに、1年経たずに、こんな話をして・・・」
「いえ・・・葵さんが決めた事ですから」
葵は空を見上げた。高い所に筋状の雲がかかっていた。目線を少し下に落とすと、北山はうっすらと雪化粧している。
「・・・靖男くん・・・」北山の雪姿を見詰めながら葵は言った。
「・・・わたし達って、なんだったのかしら?」再び靖男の方に向き直った。
「・・・恋人、じゃない気もしますし、友人、よりは上だったと思います。ほんと、なんだったんでしょうね」靖男は思わず笑みをもらす。
「でも・・・楽しかった・・・去年の秋、弓道場で出会った時には、こんなに楽しい時間が、あっと言う間に過ぎていくものだなんて、思ってもいなかった」
「・・・そうですね・・・」
「たぶん・・・いえ、きっと・・・靖男くんと会わなければ、こうして司書になろうなんて思わなかったと思うの」
「・・・そう、なんでしょうね・・・」
「だから、靖男くんに出会えて、私はよかった。嬉しかった・・・きっと、靖男くんの事が、『好き』だったんだと思うわ」
「自分も、葵さんの事が、『好き』でしたよ」
2人は見つめ合い、にこりと笑った。
「おかしなものね。こうして別れる、って時に、お互い告白するなんて」葵は言った。
「そうですね・・・でも、きっと・・・そんな関係だったんだと思います」
「そんな関係・・・楽しかったな・・・この気持ちがあれば、きっと東京でも頑張っていけるよ」
「頑張って下さい」靖男は答えた。
「ちょっと待っていてね」葵は言うと、小走りに駆け出して行った。
待っていると、缶コーヒーを2つ、マフラーに包んで戻って来た。
2人でいつものベンチに座って缶コーヒーを飲んだ。
黙っていた。そんな日常だった風景を忘れないように、慈しむように、少し甘い缶コーヒーを味わいながら、並んで座っていた。
「・・・映画だったら、こんな時にはキスをするのかしら?」葵が呟いた。
「えっ?・・・どうなんでしょうね」
「・・・したい?」
「う~ん・・・したいけど、なんだか違う気がします」
「・・・そうね、私もそう思う」
葵は飲み終えた缶コーヒーをベンチに置いた。小さくコトリと音がした。
「・・・うん、私は行くね」
「・・・はい」
「振り返らないから、声もかけないでね」
「分かりました」
「・・・最後に、握手をしようよ。お互いの未来を祈って」葵は手袋を脱いだ。
「分かりました」そう言って、靖男は両手で葵の手を握った。手袋をしていたのに、手は冷たかった。
どれくらいの時間だろう、そうやって手を握り合って、見つめ合った後、
「よし」と葵は言い、そっと手を離した。
「これで本当のお別れ。じゃあね・・・頑張って」そう言うと、葵は振り向いて歩き始めた。
「葵さんも頑張って!」靖男は声をかけた。
葵は振り向き、唇に立てた人差し指を当て、「黙って」のポーズをすると、再び歩きだした。
もう靖男は声をかけなかった。ただ、じっと葵の後ろ姿を見ていた。
葵さんの姿は次第に遠く、小さくなっていき、道を曲がると見えなくなった。
本当に、それで最後だった。