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桜咲く


「龍神様。桜は、咲きますでしょうか」

 村長と一緒に桜の側にいた婿様が、今にも泣き出しそうな顔で膝をついて朝陽に答えを求める。村人にやられた傷はまだ深く、痣は青から黒に変わっている。

「お前は、我が言葉に真を感じぬと?」

 朝陽の冷たく言い放った一言は、まっすぐに婿様に刺さった。声も出ずに固まる婿様の代わりに、申し訳ございません、と頭を地につける村長。朝陽は氷のような瞳でまっすぐに婿様を見ている。朝陽の身体から、神力というのがあふれている気がする。優しくて穏やかな顔を見せてくれていたから忘れていたけれど、龍神様なんだ。怒れる神に、人がかなうはずなどない。 

 怖い。怖い。でも、私以上に婿様は怖いはず。

「あ、の。龍神様を信じられぬわけではございません。ただ、不安なのです。この村の民皆、不安なのです」

 絞り出した声は震え、婿様と朝陽の間に行きたいと願うのに足は全く動かなかった、

「そう、脅えるな。すまなかった」

 困ったように頬を撫でられ、こわばっていた体から少しだけ力が抜けた。途端に、周りの空気も軽くなったようで、瞬きすらできていなかった婿様が慌てて地に頭をつけて謝りだした。

「いや、もうよい」

 先ほどとは打って変わって穏やかな声が婿様を包む。空気が、柔らかい。


「案ぜずとも、桜は咲く」


 一瞬の後、朝陽の右手が龍の手に変わった。太く、大きく、鮮やかな緑の腕。長く伸びた爪は、まるで鎌のよう。皆が息を飲み見つめる中、龍の手は自らの角を握り勢いよく手折った。手折られた角は、龍の手によって美羽の桜の根下に埋められる。

「この桜、次の春が来るまで決して手折るな。どんなに枝が伸びても小枝一本折ることはならぬ」

 背中を向けたまま小さく言葉を紡ぎ、崩れ落ちた。


「龍神様!」

 村長がすぐに駆け寄ったが、その顔は真っ白で、龍のものとなっていた右腕は人のそれに変わっていた。

 自力ではとても動けない朝陽を珠樹が部屋に運び、姉様は白湯の用意、奥様は寝間の用意とバタバタと動き回る中、私は一人、身動きもできずにその場に立ち尽くしていた。

 私は、どんなに無理なことを頼んでいたのか全くわかっていなかった。朝陽の身体を痛め、春を呼ぶ。これでは、供物をささげた村の者と何も変わらない。私は、春を呼ぶために朝陽を供物としたのだ。

 目の前の桜の木が、グルグルと回って見える。気持ち、悪い。


「雪花?」

 珠樹の声で、我に返った。どれだけ時間がたったのか、珠樹は落ち着きを取り戻しているようだ。

「龍神様が、呼んでいる」

 呼んでいる。そうか、意識はあるんだ。よかった。

 細く漏れた息に気付いた珠樹が、心配そうに私の顔を覗き込む。ああ、やめて。今は、珠樹に見られたくない。

「ありがとう。行くね」

「……ん」

 一瞬、珠樹が私の腕に手を伸ばしたが、その手は私に届くことはなく固く握りしめられた。



「朝陽……。大丈夫ですか?」

 真っ白な顔で壁にもたれて座っていた朝陽が、力ない笑みを返してくれた。

「情けない姿を見せた。ここまでとは、思わなかった……」

 情けなくなんてない。情けない、なんて思うはずがない。ちゃんと伝えたいのに、声を出したら泣いてしまいそうで、黙って首を振る事しかできなかった。

「明日の朝には、身体は動く。日が昇る頃ここを発つ。今宵のうちに、支度をすませておけ」

「明日の朝、ですか?」

 そんな、こんな状態なのに、明日の朝に発つなんて無茶だ。2、3日休んでからでないと、朝陽の身体が……。

「角がなくなったことで神力が減り、思うように身体を動かせなくなったのだ。時間をかけて治るものではない。少ない神力で身体を動かすことに慣れればよい。我が角に宿る神力でこのあたりの土に春を呼んだが、それは一時しのぎにすぎぬ。少しでも早く、黒龍の宝珠を手に入れて、本来の春を呼ばねば」

「身体が慣れるまで、待ってからでも」

「この状態では、私の身体は半年も持たぬ」

 身体が、半年も持たない?それがわかっていたのに、あんなに迷いなく自ら手折ったの?

 これまでずっと、龍庭の村を守ってくれていた龍神様。何も悪くないのに、春を奪ったなんて勝手に恨んでいた。本当は、きっとずっと守りたかったのだろう。ごめんなさい、ごめんなさい。

ダメ、ここで泣いたらずるい。そう思うのに、涙を止めることができない。

「そう泣くな。本来の春を呼べれば、土に埋めた角は必要なくなり、私の身体も元に戻る。雪花が、黒龍の宝珠を手に入れるのを手伝ってくれるのならば、なにも問題ない。」

 困ったような顔をした朝陽が、私の頬に手を添えて笑ってくれる。

「角、戻せるのですか?」

 あんなに見事に手折り、土に埋めたのに。また、朝陽の頭に戻るの?本当に?

「ああ。大丈夫だ」

 力強く笑ってくれた。その顔にホッとした私は、やっぱりずるいのだろう。

「私はもう少し休ませてもらう。雪花は桜が咲くのを見届けてくれるか。私の角が呼んだ春だ。雪花に、見届けてほしい」

 行っておいで、と背中を押される。体よく追い出されたような気もするが、側にいても何もできない。


 素直に桜の木のそばに行くと、村長と珠樹が蕾を付けた桜を見つめていた。さっきまでは、枝の一部のような固い茶色の蕾だったのに、今は柔らかそうに膨らみ、桜の花びらが少し、見えている。

 曇天だった空からは青く澄んだ色が見え、空気は柔らかく、暖かい風が吹いてる。

 本当に、春を呼んでくれたんだ。


「日暮れまでには、咲きそうだね」

「ああ」

 珠樹の声が固い。村長も、無言で桜の蕾を見つめている。その顔は、春を呼んだ龍神様への感謝の気持ちなんてものではなさそう。朝陽への畏怖とでもいうのだろうか。自分たちとは違う、龍神。強き者は必ずしも皆に慕われるわけではない。わかっている。

「村長。龍神様も私も、明日の朝にはここを出ます」

 だから、そんな顔しないで。大好きな村長の、そんな顔見たくない。

「……そうか」

 一言だけつぶやいて、家の中に入ってしまった。目の前が、滲んで揺れる。村長は、まっすぐにものを見る。本質を見ることができないのは愚かなことだと、教えてくれた。それなのに、村長は朝陽を見てくれていない。春を呼んだ。龍神でも、それは決して楽なことではない。


「お前も、行くのか?」

 不安そうな珠樹の声が、私の視界を取り戻した。

「当たり前でしょう?黒龍様の宝珠を、取り戻さないと。」

 約束したとき、アンタもいたでしょう?と言えば、心配そうな顔が目の前に迫る。

「わかっているのか?龍、だぞ。春を呼んだ、人外の力を持つ龍。龍でもこれまで取り戻せなかった宝珠だ。それを、お前が取り戻すなんて……」

 珠樹の言葉を、乾いた音が遮る。私の手は、ヒリヒリと痛みを覚え、胸には珠樹の言葉が刺さり、言葉にならない感情があふれてくる。

「朝陽は、自分の身体を顧みずに春を呼んでくれた。村を、救ってくれた」

 そう。龍神だから、簡単にできたわけではない。我が身を削り、痛みを伴う行為だったはず。それなのに、迷いなく救ってくれた。供物とされた私の願いを、聞いてくれた。

「悪かった」

 聞き取るのも困難なほどの小さな声。私が顔を上げたときには、すでに珠樹の背中は家の中に向かっていた。後なんか、追うものか。涙なんて、流すものか。

 声を上げることも、動くこともできず、私は桜のそばに立ち尽くした。



「桜は、咲きそう?」

 姉様が、美羽を背負いながら桜を覗き込む。揺れる背中が心地よいのか、美羽はウツラウツラと船をこいでいる。

「うん。ほら、もうすぐ。」

 枝には、柔らかい桜の花びらをひとまとめにしたような蕾がたくさんついている。これなら、間違いなく日暮れまでには咲くだろう。数日のうちに、満開にもなるかもしれない。裸だった土には、わずかだが緑も見えている。今年も、龍庭はたくさんの作物に恵まれ、にぎやかな秋祭りを行えるだろう。幼子の供物は不要だ。嬉しいのに、珠樹と村長の顔が頭から離れず、私の口からはため息が漏れた。

「今夜ねぇ。龍神様に何をふるまったらいいのかわからないって、父上と母上が嘆いていたわ。ねぇ、龍神様、粗末な食事でもお許しくださるかしら?」

 心底心配しているのだろうが、どこかフワフワとした悩みを口にする姉様は、私の大好きな姉様のまま。

「姉様は、龍神様が怖くはないの?」

 船を漕ぐ美羽に手を伸ばしながら呟いた私の声に、姉様は何を言っているんだ?とでも言わんばかりの顔をして、その後すぐに得心したように笑いだした。

「ああ、旦那様が龍神様に叱られたらしいわねぇ。でも、失礼なことを言ったでしょう?美羽を助けてくれたのだから、怖くなんてない。雪花のことも、とても大切に思ってくれている素敵な婿様だと思うわ。でも、雪花は? 龍神様が怖い? 龍神様の妻は、嫌? 」

 怖い? 私が、朝陽を? さっき、婿様に怒った時は確かに怖かった。

 角を持つ、人外の者。初めて姿を見たときは、人ならざる姿に驚いた。でも、私を見つめるその瞳を怖いとは思わなかった。私を妻と呼び、笑うその姿は穏やかで……。

「怖くは、ないです」

「……そう」

 姉様は笑って、美羽のお尻をポンポンとたたきながら背を揺らす。この光景をみるのが、何より好きだった。

「桜、咲いたね」

 笑った姉様の指先には、柔らかな花びらがのびやかに広がっていた。



日暮れ前、村長は婿様を連れて集会場にむかった。帰ってきたときには少し穏やかな表情に変わり、手には誰からもらったのか、酒を持っていた。

「雪花。龍神様の食事は、部屋に運んだ方がいい?」

 奥様が、重湯にも近い粥を作りながら聞いてきた。調子が悪そうだから、部屋の方がいいのかもしれないけど……。

「いいえ、皆と一緒に。私、呼んできます」


「朝陽? 起きていますか? 」

 そっと襖をあけると、薄暗くなった部屋の中、壁に寄りかかって眠る白い顔が目に入った。布団が敷かれているのに、横になった気配はない。龍とは、こうして眠るのだろうか。

「私も、これからはこうして眠るのかな? 」

 思わず口からでた言葉に、眠っていたと思っていた朝陽が笑いだした。

「お前は、好きに眠ればよい」

 クツクツと笑うその姿は、先ほどよりもずっと楽そうだった。

「そんなに笑わなくても。起きていたのなら、返事ぐらいしてください。食事ですよ、一緒に食べましょう」

 一瞬、朝陽の顔が曇った。確かに『一緒に』という言葉に反応したのがわかる。今日私が感じた、疎外感。朝陽は、きっともっと感じていたのだろう。でも……。

「朝陽が春を呼んでくださったから、セリがあります。今年初めての、セリの粥です」

 感謝の気持ちも、ちゃんと伝えたい。

「……では、馳走になるか」

 少しけだるそうに私の肩につかまり立ち上がる。肩に触れた手は、まるで氷のようだった。


 何もなくて、と申し訳なさそうにした奥様が、龍神様のためにお客様用の茶碗に粥を入れる。米の形も残っていないセリの粥。村を救ってくれた龍神様を迎えるには、粗末すぎる食事であることは承知しているが、今はこれで精一杯。

「秋になったら、雪花と一緒にまたいらしてください。そうしたら、たくさんたくさんご馳走しますから」

 姉様の言葉に、朝陽が笑う。うん、朝陽って、女好きだ。すっごく、好きだ。その姿を見て、珠樹がさらに機嫌を悪くする。それをからかう様に、わざと視線を投げる朝陽。やっぱり、朝陽大人気ない……。


 片付けも終わり、部屋に戻ると湯浴みを終えた朝陽が月を眺めていた。濡れた髪に月の光が落ち、一本残った角は月の光を反射して輝いている。

「見惚れたか?」

 黙って見つめていたことに気付かれて、笑われる。いや、確かに見惚れていましたけど。

 なんだか、朝陽って子供みたい、なんて言ったら怒るかな?

 気まずさに視線をさまよわせると、並べられた布団が目に入った。そうか、私『妻』だった。

固まった私に、朝陽が声を上げて笑う。

「今の私にそんな力はない。案ぜずともよいから、眠れ」

 そう、ですよね。具合悪そうだし。そう思うと、急に眠気に襲われた。図々しいとは思いつつ、先に布団に潜り込むとすぐに意識は遠のいた。


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