名前
「では、行くか」
不意に肩を抱かれ、私の身体は龍神様の胸におさまった。慌てた珠樹が何か言っていたが、私は自分の顔が熱くて何も聞こえない。
一瞬、本当に一瞬だけ、身体が浮いた気がした。大きく浮きあがる感覚、そして、落ちた、気がした。私は、気がしただけだったが珠樹は違ったようで、ドサリという大きな音とともに鈍いうめき声が聞こえてきた。
「いってぇ……。雪花、大丈夫か?」
必死で龍神様の胸を押し、なんとか腕から逃れる。声のした方に顔を向けると、目に入ってきたのはキョロキョロと部屋中を見回している珠樹に見慣れた天井と壁。
「ここって……」
さっきまで、確かに龍神様の社にいた。それなのに、一瞬で村長の家。
やっぱり、神様なんだ。
「まずは、村長と話をしたい。呼んで来い」
龍神様の低く静かな声が部屋に響くが、呆気にとられている珠樹は動くことができない。
代わりに、部屋の外からは聞きなれた足音が聞こえてきた。そうだよね、珠樹の落ちた音今のこの家には結構響いたと思うよ。こんなときに、家の中で物音がしたら……。
木刀を片手に勢いよく襖をあけた村長と婿様は、私達を見て一瞬で時を止めた。『穴のあくほど見つめる』の見本のように龍神様を見つめる。涼しい顔で笑みを浮かべている龍神様が、逆に不自然で……。
「龍庭の村長。我が妻の申し出を受け、春を呼びに来た。まずは、そなたと話がしたい」
龍神様の声に村長の時は動き出したが、必死で頷くばかりで声は出ていない。そうだよね、まさか、本当に龍神様の妻になって戻ってくるなんて、思っていなかったよね。
「其方には、話したい者もおるであろう。行け」
シッシッと音がしそうな勢いで、追い払われた私。絶対、私の事『妻』なんて思ってないでしょう、なんて心の声は置いておき龍神様の言う『話したい人』の所に駆けだした。
「姉様、奥様!」
土間まで走ると、無邪気に笑う美羽を隠すように怯えた表情の二人がたたずんでいた。
その怯えは、十日、なんて約束は無いも同じなのだろうと思わせるには充分だった。
「奥様、姉様。大丈夫。龍神様は私の事を『我が妻』と呼んでくださいます。春を呼ぶ、とも約束して下さいました。幼子の供物など不要、と村の民に仰せくださいます」
「龍神、様?」
「はい。本当にいらっしゃったのです。ただ、今は春を呼ぶことができずにおります。でも、確かに雪花と約束して下さいました。春を呼ぶ、と。私は、美羽を守れました」
言葉足らずに、なんとかつなげた私の言葉。奥様にはうまく伝わらなかったようだが、小さい頃からずっと私の話を聞いていてくれた姉様にはなんとか伝わった。嬉しさか、私を憐れんでか、涙を流しながら私の肩を抱いてくれた。龍神様と同じように抱いているのに、全然違う。小さい頃から知っている、私の姉様。強かった姉様の腕が、かずかに震えている。
大丈夫だよ、姉様。美羽は私が守るから。絶対、守るからね。
「雪花、姉様、母様。龍神様が、呼んでいる」
いつの間に側に来たのか、珠樹が暗い顔で私達を呼びに来た。龍神様、村長との話しは終わったのかな。何を、話したのだろう。
村長の待つ部屋へと向かうが、一歩進むごとに空気が重い。春を呼ぶには、やはりまだ時間がかかると言うのだろうか。それでも、龍神様は、美羽を救ってくださると信じたい。
「珠樹、龍神様と村長の話し、聞いていた?」
「ああ、まぁ」
「春は、呼べそう?」
「ああ」
珠樹の言葉は、きっと真実だろう。でも、なにかおかしい。そうは思ったものの、姉様の安心した顔を見るとそれ以上の事は聞けずにおとなしく引き下がるしかなかった。
龍神様は縁側に座り、庭を眺めていた。葉をつけることもできず立ち枯れている木、雑草すら生えることが出来ずに、むき出しになっている土。龍神様の瞳は、怒っているようにも、泣いているようにも見える。
「ああ、我が妻よ。戻ったか」
人を食ったような龍神様の言葉と伸びてくる腕に、思わず身体を固くした。花嫁、と言うからには慣れねばならないのだろうが、珠樹の前で龍神様から腕を伸ばされるのは、どうしても慣れることはできない。
「ああ、そなたが姉様か。これまで、妻が世話になった。」
姉様に向かって優しげな笑みを浮かべた。龍神様って、やっぱり女性全般好きなんだなぁ、なんてどうでもいいことが頭に浮かぶ。角の生えた頭を凝視しながら、姉様は美羽をしっかりと腕に抱きなおし、震える唇を動かした。
「龍神、様?」
「そうだ。我は供物など、欲してはおらぬ。ましてや幼子など……」
呆れたように溜息を漏らした龍神様に、姉様が目を丸くしている。
「供物は、幼子はいらぬと?」
「いらぬ」
供物を欲するような神だと思われることが、相当に不快ならしく、心底嫌そうにきっぱりと言い放った。なにも、そこまで……。龍神様って、やっぱり、ちょっと、大人気ないかも。
安心したように息を吐いた姉様が、一時ののち、真直ぐに顔を上げた。
「さすれば、雪花も、お返しいただけますか? 」
姉様のすがるような瞳に龍神様がたじろいだ、ように見えたがそれは一瞬のことで。すぐにまた、人を食ったような笑みを浮かべる。
「それは、出来ぬ。雪花は供物ではない。妻だ」
しかし、と続ける姉様に、開いた手を向け言葉をつなぐことを許さない。
「春を呼ぶのには、我が妻は必要だ。そなたは、春を呼ばずともよい、と?」
口元は笑っているのに、その瞳は逆らうことを許さない神の瞳だ。
外に人の気配が近づいてきた。村長に不満を抱く人の悪意を感じる。穏やかで朗らかで、頼りになる大人たちだったのに、変わってしまった。冷たい川を前に、入れと言われた時の記憶がよみがえる。怖い。怖い。恐怖が、ひどく胸を冷たくする。
「案ずることはない」
龍神様の穏やかな声が、私の側の空気を軽くした。
「ここで待っていてもかまわんが、どうする? 」
「……行きます」
龍神様の妻となり春を呼ぶと、約束をした。違えず戻ったことを、皆に知らせなくては。龍神様は龍庭を見捨てたりはしない。春は必ず来ることを、知らせなくては。
心を強く、と自分に言い聞かせ龍神様に付いて庭に出ると、村の男達が美羽の桜の木を囲むように立っている。怒りをあらわにする声を、村長が必死になだめている。この村でずっと暮らしているけど、こんな光景見たことない。春が来ないことで、みんなそんなに変わってしまったの?
「ここまで、とはな……」
龍神様が、言葉と一緒に深く深く息を吐く。だから、早く春を呼びたいんです。うらみがましく送った視線に気付くことなく、龍神様は穴のあくほど皆を見つめる……。
「いい加減にせんか」
村長の低い声が空に響き、一瞬、本当に一瞬だけ空気が澄んだ気がした。が、すぐ後にやってきたのは、それまでよりもずっと淀んだ空気。誰も何も言わないのに、空気が村長を拒絶する。
「我こそは、龍庭を守る者」
決して大きくはないが、龍神様の透き通った声が響く。さっきまでのよどんだ空気が、無くなってしまったかのよう。
「我の力不足、心より詫びよう。だが、我は幼子など欲してはおらぬ。幼子とはいえ、龍庭の民。民を供物とするなど悪鬼の所業。其方らは、我を悪鬼と思うておるのか? 」
静まり返る村の民。幼子はいらぬ、と言われたからには、供えるわけにはいかないよね。母親達は、皆涙ぐんでいる。うん、やっぱり我が子を龍神様にささげよう、なんて思うわけないよね。少し、安心した。
「アンタが、龍神様だって証拠は?春が来るって、証拠は?」
龍神様が、龍神様であることを疑っている。低い空、淀んだ空気。疑わしげな、憎々しげな瞳で見つめている男に龍神様が笑う。
「日暮れまでに、村中の桜を咲かせよう。それを、証としてはもらえぬか?」
人を食ったような笑い声が響く。まだ固く、色もついてない蕾。十日で春を呼ぶことも無理だと言っていたのに、日暮れまでに花を咲かすなんて出来るはずない。それでも、龍神様の顔には不安の色は微塵も見えなかった。
「龍神の名にかけて、誓おう。明日より、春がくる。この曇天の空は今日まで。明日より桜咲く春が来る。作物は、今年も豊富に実ろう」
龍神様の力強い言葉に、皆呆気に取られている。そうだよね、そんなこと信じられるわけがない。それでも、日暮れまでぐらいなら待とうと思ってくれたのか、殺気立った空気が少し柔らかいものに変わっていった。
皆が引きあげた後、龍神様は美羽の桜にふれ慈しむように言葉をかけている。
昨夜は十日以内に春を呼ぶことすら無理だと言いきっていた。あれが嘘だとは思えない。それなのに、日暮れまでに桜を咲かせる、明日からは春が来ると誓った。珠樹は、何も言わない。村長は龍神様に頭を下げ、背中を震わせていた。
「間男、縁側に茶を運んでくれぬか。もう少し、庭を見ていたい」
「……はい」
素直に返事をした珠樹に構うことなく、ゆったりと歩き出す。どうしていいのかわからずに黙って立っていれば、村長に肩を押された。
「行け」
……はい。
さっきと同じように縁側でぼんやりと座っている龍神様。何をしているのだろう。これで、桜が咲くのだろうか。
「来たのか。座れ」
側に行けず、黙って立ち尽くしていた私に龍神様が笑って手招きをした。
「日暮れまでに、桜が咲くのですか? 」
「妻が、夫を信じられぬと? 」
クツクツと笑うその顔は、いたずらを仕掛けた子供のよう。神様相手なのに、ちょっと可愛いかも、なんて思ってしまった私は罰あたりだろうか。
「お茶、です。雪花の、分も」
無言で並んでいる私達の間に、ちょっと不機嫌な珠樹がお茶を置く。ありがとう、と言おうと思った時には、もう、珠樹は背中を向けていた。なんだか、ずっと珠樹不機嫌だな。
「そなたは、我が妻であろう? なぜ、あの間男をそこまで気にかける? 」
珠樹を目で追っている私をからかうように、頬を指で撫でる。ビクリと震えた肩に、龍神様が慈しむように大きな手を乗せる。妻って、本気で思っているの?
「珠樹が、機嫌が悪いと、気になるんです。小さい頃から一緒でしたから、気になります」
納得したのか、からかっただけなのか、龍神様は柔らかく笑ってまた庭を見つめる。会話が、続かない……。
「あの、私、雪花と申します」
突然の私の名乗りに、龍神様は切れ長の目を丸くして、こちらに視線をむけた。龍神様は、『妻』とか『花嫁』とか、からかうように呼ぶ。『妻』と呼ばれるたびに、私は供物にされたのだと思い知らされる。名を呼ばれない私は、私でない気がして悲しい。供物でもよい。龍庭に戻れなくてもよい。だけどせめて、私でいたい。
「雪降る夜に、この村に来ました。だから雪花。姉様がつけてくれたのです。『妻』ではなく『雪花』と呼んでいただけますか? 」
「私が、其方の名を呼んでよいのか?」
龍神様ってなんだか、やっぱり神様だからかな。私の感覚とは、違うのかな。
「雪花、とお呼びください」
「わかった」
「私は、なんとお呼びすればいいでしょうか。龍神様、でかまいませんか?」
「……朝陽」
朝陽、と言った?リュウジンサマ、と一文字もかぶってないけど、それが名前なのかな?
「朝陽様、ですか?」
「様、はいらぬ。朝陽だ。昔、そう呼んだ者がいた。其方も、朝陽と呼んでくれるか? 」
頷く私に龍神様の口元が緩んだ気がしたのは、きっと気のせいではないと思う。龍神様を、朝陽なんて呼んだ人がいたんだなぁ。どんな人だったのだろう。
「雪花」
「はい」
声が、空気が重い。私の意志とは関係なく身体が固くなるのがわかる。
「この村に、春を呼ぶ。だが、黒龍の力で遠ざけられている春を無理に呼ぶには、私の神力を相当に使う事になる。そうなれば、いざ黒龍の宝珠と対峙した際、其方に傷を負わせるかもしれぬ」
「……はい」
春を呼べるぐらいの神力がある龍神様が、これまで取り戻せなかった黒龍の宝珠。他の龍の宝珠には手を出せないなんて言っていたけど。怖い。
「夫とは、妻を守るものと聞く。情けない夫となることを、詫びよう」
黙って頭をさげる朝陽に、声も出なかった。十日以内に春を呼んでほしいって言ったのは、私。朝陽は、私の我儘をかなえてくれたのに……。
朝陽は、本当に龍庭を大事にしている。民の心が荒んでいるのを嘆き、己の力不足を責め、一人で春の来ないこの村を悲しそうに見つめていたのだろう。
「それでも、我の力の限り、其方を守ろう」
まっすぐに見つめる緑の瞳に、私の背がスッと伸びる。
黒龍の宝珠は、必ず取り戻します。いや、言いすぎました、お手伝いします……。モゴモゴと口の中で言葉を濁した私に、朝陽が笑った。
「雪花は、頼もしいな」
いや、それ昨日も聞きましたけど、本気で言っているのかな。私、頼もしくなんてないんですけどね。首をかしげる私に、朝陽が笑う。うん、まぁ、いいや。
「間男。桜を咲かせる。お前の父を呼べ」
「は、はい」
お茶をだしたらすぐに引っ込んで行ったはずの珠樹が、隣の部屋にいた。全部聞いていたのか。神様の会話を盗み聞きなんて、すごい奴。でも、珠樹にも会えなくなるんだよね。声がしたあたりに視線を投げると、朝陽が笑った。
「夫の前で、他の男をそんな目で見るものではない」
その声は、男女のヤキモチなんて色っぽいものではない。なんというか、子供をからかうような口調。朝陽は、きっと私のことを『妻』とは思っていないんだろう。