トライ・バレンタイン
≪バレンタイン−男≫
「ああ、甘い……」
今日は全国的にバレンタインデーである。
「甘い、甘過ぎる……」
教室窓際最後列、小さな世界の隅から妙な疎外感を覚えつつ俺、神島大和が眺めるのはうっすらピンクに見えそうな景色。漂ってくるのは甘い香り、甘い空気。
「サッカリンなんかより甘ったる過ぎて胸焼けがする」
「そうだね」
苦笑しながら机の側に立つのは、この胸焼けの原因を図らずとも担っている男、桐生修一。
「近寄るな、胸焼けの原因」
「酷いよ、大和くん」
大量のチョコを紙袋に入れて持つ奴には悪態の1つ吐いた所でバチは当たらんだろうよ。
「僕も好きでこんなにチョコ持ってる訳じゃないんだから」
そんな世のそこそこの男性に怨まれそうな、そして言ってみたいセリフを言う男、桐生修一は俗に言う完璧な奴だ。容姿端麗、頭脳明晰、運動や芸術その他諸々の技能も抜群、性格も良い、と弱点がない全方位無敵の化物だ。前に何かないのかと問うてみたら、どうしてもピーマンだけが食べられないとの事。その程度しかない奴だ。そう、そういう奴だからバレンタインデーには毎年紙袋持参という普通の奴がやれば痛々しい事この上ない事をし、紙袋は無駄にはなっていないのだ。
「……お前その内怨みから襲われるかもな」
「ん?何か言った?」
「いいや、何でも」
そんな超人と平々凡々な俺が友人関係となったのは、修一が『珍しい名前だね』と話し掛けてきた事が始まりだったと思う。
「バレンタインデーはただの平日だと、声を大には出来ないが言いたい……」
「じゃあ気晴らしに放課後ウチに来ない?」
「原因相手に原因を解決出来るか謎だがまあいい。今日はグルメレースで勝負だ」
「ちょっと待った!」
さて、と立ち上がり帰ろうとする俺に制止の声。
「アンタは今日掃除当番でしょうが。終えてからじゃないと帰さないからね!」
どんと仁王立ち、腕を組み、キッツイ視線を向ける少女、犬飼天音、分かりやすく彼女を説明するならば、黙っていれば美少女。
「今日は帰さないだなんて、強引な奴だな」
「なっ、バカ誰がそんな事言った!?掃除当番よ、掃除当番!またサボる気満々だったんでしょ……桐生くんには待たせちゃ悪いから先に帰ってもらったら?」
腕を組んだまま横目に修一を見ながら、半ば挑発めいた事を言う天音。
「いや待ってるよ。他に用事もないし」
修一はそれを軽く流す。
「あらそう?そんなにモテるんだから彼女とか作らないの?」
「今はその気はないよ。それにそういうのはホイホイ作るものじゃないと思うよ、犬飼さん?」
何故だか知らんがこの二人、あまり仲は良くないみたいだ。嫌な刺々しい空気には耐えられん。
「分かった分かった、やるよ。じゃ修一は外で少し待っててくれ」
分かった下駄箱で待ってるよ、と修一は教室を出る。それを追うように教室に残っていた女子も出る。最後まで何か期待して残っていた男子も肩を落として出ていった。残ったのは掃除当番たる俺と天音とあと男女二人。
それから暫くして掃除も終わり、その二人は「私たちが持っていくよ」と、ゴミ箱を持って出ていった。
「ふぅ、終わった終わった」
「ね、ねぇ?」
「ん?」
「あー、えと、その、今日は良い天気、じゃなくて、その」
なんだろう、なんだか天音がらしくないくらい歯切れが悪い。
「大和……今日チョコ誰かからもらった?」
「いや、ウチのクラスの女子は大概修一に渡すからな」
「だ、だと思って、ね?これ、あげるわっ!」
差し出されたのは赤いリボンで口を閉めてある小さな透明の袋。中にはチョコチップの入ったクッキーが見える。
「これって……手作りか?」
「ま、まぁこういうの作るの好きだし?何よ似合わない?あたしがお菓子作りなんて」
「いや、そういう訳じゃないが……」
沈黙、今気づいたがそういえば今この教室には俺と天音の二人だけだ。夕暮れの教室で二人きり、そしてバレンタインデーにチョコをもらう。
「なぁ、これは」
「そ、そ、それは、そのあれよ……あたしからの」
「そろそろ掃除終わったかな?あれ?大和くん、その手のは?」
ガラッ、と教室のドアを突然開けたのは下駄箱で待っている筈の修一だった。いや、マジで心臓に悪い出方をしやがる。
「大和くんそれは……ああ、犬飼さんから貰ったんだね?優しいね、犬飼さん。大和くんの為に義理チョコ用意してるなんて」
ポン、と手を打ち納得したような笑顔の修一。
「そうよ、あたしが大和はバレンタインデーでも何も貰えないのは友人として可哀想だと思ってあげたのよ!まごうことなき、義理チョコ、というヤツね!」
「義理か。あーやっぱりそうか」
雰囲気に流されて勘違いする所だった。恥ずかしい事この上ない。
「じゃ、あたし帰るから。じゃ・あ・ね!」
なんだか不機嫌な感じに扉を勢いよく閉めて出ていった。なんか機嫌を害するような事したっけ?
「ふふ、甘かったね……」
修一は何だかしてやったり顔でなんかブツブツ言ってる。
「修一?」
「さぁ僕らも帰ろうか」
「ああ……」
まあ義理とはいえ、バレンタインにチョコをもらうのはなかなか良いもんだな。問題はお返しだ。……3倍できくだろうか?それが今は心配だ。
家に帰って天音のクッキーを食べたが、予想以上に美味かった。菓子作りが得意という知らない一面が見れて、ただの平日としては割と良いものだったな。
≪バレンタイン−女≫
今日はバレンタインデー。
「これでよし、と」
包装もちゃんとした。味はいつもより一生懸命作ったから普段より美味しく出来た。
「あら天音、妙に早起きね?そうだ、今日はバレンタインデーだったわ。なるほど、一応天音も女の子してる訳か」
ニヤニヤとあたしを見て笑う母さん。茶目っ気が若さの秘訣なんて言う、本当に実年齢より若く見えるこの母親は手に負えない。
「ちょっ、何よ!」
「ふふ、頑張りなさいよ?」
「もう!」
シッシッと追い払い、器具やらを片付けて学校に向かう。やはりというか、通学路でもチョコを渡す光景をちらほら見掛ける。
さて、学校に着いた。まだアイツは来てないみたい。アイツの机を見ると、その隣にはきちんと包装されたチョコがちょっとした山になっている。そう、桐生修一の席。奴は絶対にあたしの敵だ。何かにつけてあたしのアイツへのアクションを邪魔してくる。鈍感なアイツは気づいてないみたいだけど、あれは確かに悪意がある。断言できるわね。他の人には性格良しの完璧超人に振る舞ってもあたしの目は誤魔化せないっての。
「来た……!」
アイツは敵と共に現れた。なんとか引き離して、人目につかない方法でアイツに渡せないものか思案する。そうだ!今日はアイツと掃除当番!なんてツいているんだろう、あたしってば。それを理由に桐生の奴も引き離せる。
「おはよ、天音」
「おはよう」
近くを通る時にアイツと軽い挨拶を交わす。これは毎日の楽しみの1つだ。その後に続く桐生には不敵な笑みを浮かべてやろう。
「おはよう、桐生くん」
「おはよう、犬飼さん」
そんなあたしを嘲るように奴はニヤリと笑う。ふん、その余裕がいつまで続くかしら?通り過ぎた後も目で追ってみる。奴は女子たちから━それも別のクラスの娘までいる━チョコを渡されている。みんな、気づきなさいよ。そいつは恐ろしく狡猾な奴よ!
そして放課後。よし、そろそろ掃除を始めようかなって。
「ちょっと待った!」
なにコイツ帰ろうとしてんのよ!人の折角の計画がパァになるところじゃない。
「━━……桐生くんには待たせちゃ悪いから先に帰ってもらったら?」
どうせ、あたしに気づかれない内に連れていこうとしたんだろうけど、そうは問屋が卸す前に業務停止処分よ。
「いや待ってるよ」
何を言い出すかなコイツは!?いや待て、下駄箱で待つなら問題ないか。既にあと二人の掃除当番仲間には言い含めてあるし、条件はクリアされた!勝利は我が手の内に。
掃除も終わり、二人を見送った。よし!
「ね、ねぇ?」
「ん?」
「あー、えと、その、今日は良い天気、じゃなくて、その」
しっかりしろ、あたし!それでも犬飼家長女か!
「大和……今日チョコ誰かからもらった?」
「いや、ウチのクラスの女子は大概修一に渡すからな」
回りくどい、回りくどいよあたし!ああ、もう心臓がバクバク言ってる。アイツには聞こえないよね?
「だ、だと思って、ね?これ、あげるわっ!」
よし、渡せた!な、何よ。これくらいあたしにかかれば、ちょ、ちょちょいのジョイよ。
「これって……手作りか?」
「ま、まぁこういうの作るの好きだし?何よ似合わない?あたしがお菓子作りなんて」
「いや、そういう訳じゃないが……なぁ、これは」
「そ、そ、それは、そのあれよ……あたしからの」
さ、言うのよあたし!もうここまで来たんだから最後まで行くっきゃないわよ!頑張って今日こそこの想いを伝えるのよ!そう、息を吸って……!
「そろそろ掃除終わったかな?あれ?大和くん、その手のは?」
飲み込んじゃった!?え、なに?なんで桐生の奴がここに!?下駄箱前にいたんじゃないの!?しかも何なのその勝ち誇った顔は!
「そうよ、あたしが大和はバレンタインデーでも何も貰えないのは友人として可哀想だと思ってあげたのよ!まごうことなき、義理チョコ、というヤツね!」
「義理か。あーやっぱりそうか」
うーわー!やっちゃった!桐生の奴に流されちゃった。しかも大和ってば普通に納得してるし。くそ、桐生の野郎……してやったりな顔しやがって。見てろ、絶ッッッ対いつか大和手に入れてギャフンと本当に言わせてやるんだから!
「じゃ、あたし帰るから。じゃ・あ・ね!」
バン、と力任せに教室の戸を閉める。足早に廊下を進み、ちらと窓の外を見る。夕焼けが綺麗……。
「……まあ、ね?ほら、一応渡せたんだし、及第点という所よね」
自分を無理矢理納得させる。うん、あたしはポジティブな人間だしさ。でも。
「でも……ここまで頑張ってるのに、なんで気づかないのよ……大和のばか」
ちょっと泣きそうになった。