20話 印章
アクアマリン王国の建設中の港に到着し、カミーユさんと一緒に工事現場の視察を行った。工事は予想以上に順調に進行しており、働く獣人達の肉体は更に予想以上に成長してムキムキバキバキに仕上がっていた。守る必要があるのか疑問に思うほどに……。
ふいー。収まっていた体の震えが、再び僕に襲い掛かってくる。
大丈夫、恐れることなど何もない。僕にはカミーユさんが付いている。リムを両手でモニュモニュし、首に巻き付いているペントの存在を感じながら心を落ち着かせる。
中継地点で軽く調査員の話を聞き、まだ計画段階とのことで獣人の村に急いだ。
心配していたカミーユさんは問題なかったのだが、獣人の村に近づくほどに僕の足は重くなり体が震え出した。
軽度のトラウマとはいえ、トラウマ現場を視認してしまうとさすがに恐怖を抑えきれないのか、体の震えがなかなか収まらない。
これはアレだ、理屈じゃないということだ。
僕の心が、いや、魂がこの地を、書類仕事を恐れてしまっている。
「御主人様、大丈夫よ」
「そうですよ、御主人様、もう書類を恐れる必要はありません」
僕の震えに気がついたイネスとフェリシアが、両手を握って優しく声をかけてくれる。その優しさに癒されたのか体の震えが少し収まる。
そうだよね、こんなところでビビってはいられない。カミーユさん頼りだけど円滑な書類整理のシステムを開発し、僕は真の自由を手に入れるんだ。そして、ムフフで素敵な船上生活を……
心の中で勇気というか欲望を奮い起こすと、自然と体の震えが収まっていく。自分のことながら情けないが、トラウマよりも欲望の方が優勢な精神構造をしているらしい。
でもまあ、辛いよりも楽しい方が嬉しいから問題ないよね。
「ありがとう、落ち着いたよ」
イネスとフェリシアにお礼を言って、心配そうに見守ってくれていたマリーナさん達とカミーユさんに心配ないと頭を下げて獣人の村に足を踏み入れる。まあ、村というよりは町の規模なんだけど。
村の中は前回とそれほど雰囲気は変わっていない。
建物が密集し、通路で獣人の奥様方が世間話をし、子供達が走り回っている。
豊かとは言えない生活水準なのだが村は明るさに包まれているようで、活気に満ち溢れている。
未来に希望が持てるからこその明るさ、その明るさを慈善事業費を消費するためとはいえ僕が生み出せたのだと思うと、ちょっと誇らしくなる。
まあ、残念なことに僕はその誇りを熱意に変えられるタイプではないのだけどね。でも、できることはやろうと思う。
通りを抜け広場に出て、トラウマを負ったギルドの前に立つ。帰りたい。
中に入りたくなくて立ち止まっていると、扉が開きウィリアムさんが現れた。神は死んだ。あ、普通に生きているね。実際に会ったことあるもん。
「ユールに聞いて待ちかねていましたよ。ささ、早く中にどうぞ」
ユールさんがウィリアムさんに連絡していたのか。……ユールさんの立場からすると当然のことかもしれないが、僕の立場からすると余計な事としか思わない。絶対に準備万端整えてあるだろう。
ウィリアムさんの笑顔に生まれたての小鹿のように足を震わせていると、何かが僕からウィリアムさんの視線を遮った。
「あなたがウィリアム様ですね。私、ワタル様の代理人であるカミーユと申します。そちらもお話があるとは思いますが、先に商業ギルドのミランダ様との面会をお願いします。その方がスムーズに話が進みますので」
僕を守ってくれたのはカミーユさんだった。ぶっちゃけ、結婚してほしい。あと、カミーユさんに様付けされるとドキドキする。
そして、そのカミーユさんの迫力に押され気味なウィリアムさんの姿が小気味良い。まあ、ウィリアムさんに仕事を押し付けているのは僕なんだけどね。
「そ、そうですか。ミランダさんならワタルさんの来訪を知って、こちらに滞在しています。すぐに面会できるように取り計らいましょう」
え? ミランダさん来ているの? おお、ユールさんのお陰だな。これで話がスムーズに進みそうだ。余計なことをとか思ってごめんね。
それにしてもミランダさんも腰が軽いね。まあ、それくらい情報に敏感でなければ商業ギルドのギルドマスターなどやってられないのだろう。
「ありがとうございます」
カミーユさんの返事と共に場がスムーズに整えられていく。
僕の時は強制で書類部屋だったのに、ちゃんと話ができる人が居ると違うんだな。
あっという間に会議室に通され、簡単な挨拶を終えて会議が始まった。
「まず、ワタル様が商業ギルドに収める年会費をAランクに引き上げます。同時にワタル様の商会を立ち上げます。商会長は無論ワタル様、その代理に私カミーユが、イネス、フェリシアも奴隷の身でありますが商会員として登録します。加えて、後日、キャッスル号のスタッフも登録することになる予定です」
カミーユさんが口火を切った。
これが僕の相談にカミーユさんが出した、個人でダメなら商会にして分担すれば良いじゃないという、至極真っ当な解決案。
個人事業だったから僕のサインが必要だったけど、商会を造れば権限の委譲も貸し出しも可能ということだ。
僕にとって残念なところは、Fランクの商人なのに、実は凄いんだぜ的なギャップが消えてしまうことだけ。
そのギャップも今までほとんど活用できていなかったので、ほとんど負担になることはない。
「まあ、それではワタル様の商会を中心とした定期航路の開通計画が動き出すと考えても?」
ミランダさんが嬉しそうに質問する。嬉しいのは利益か化粧品、どっちなんだろう?
まあ、当然両方だな。
それにしても商人の笑顔って凄いよね。笑っていてご機嫌なようにしか見えず、それ以外の感情が僕の目からはまったく感じられない。
それなのに場は緊張感に包まれ、戦場のような気配を漂わせている。僕からは見えないが、おそらく隣に座っているカミーユさんも同じような笑顔を浮かべているのだろう。
「そちらにつきましてはまだ確約できる段階にありません。商会の現地人員の雇用後、国と各ギルドとの交渉しだいですね」
そう、現地スタッフの雇用。
カミーユさん達も分担するとはいえサインマシーンになるのは嫌らしく、権限がある従業員の雇用を目論んでいる。
その従業員に権限を持たせて、仕事をさせようという腹積もりだ。だから、商売の神様の契約があるとはいえ、できるだけ信頼ができる従業員をカミーユさんは求めている。
「なるほど、それなら商業ギルドが人材を紹介できますわ」
「いえ、獣人のことですから責任者は獣人に任せたい。魔導師様もワタル様もそうお考えです」
室内の気温が下がった気がする。もしかして、人を送り込もうとしたミランダさんと、それを拒否したカミーユさんの気迫のぶつかり合いが冷気を生んだのか?
凄く怖い。
カミーユさんとミランダさんの会話の応酬が終わらない。
獣人達に商会の責任者は荷が重いと説くミランダさん。たしかに色々と不利な経験をしている獣人達だし、僕もいきなり責任者はきついだろうと内心では同意した。
だって筋肉だもん。知的な筋肉が存在することは知っているが、イメージ的には単純な人が多そうな気がする。教育を受けてなければ特にそうなりそう。
それを受けて、この事業の本質は獣人の援助であり、獣人の未来を考えるのであれば獣人を責任者に雇用すべき。
あと、獣人の男性は力に偏るが、女性は十分に責任者の役割を果たせると伝えるカミーユさん。
そういえば、僕の周囲に居る獣人はかなりの割合で頭が良いよね。イルマさんとカミーユさんは特に。なるほど、獣人は男性と女性で得意な項目が違うのか。
極端かもしれないが役割分担だと考えると、悪くない気もする。
そして、この辺りから僕は話についていけなくなった。表面上は理解できるのだけど、あきらかに裏を含んだ商人のやり取りって本当に苦手だ。
「では、そのように」
「ええ、こちらもご期待に添えるように手配しますわ」
カミーユさんとミランダさんがさわやかな笑顔で頷き、握手をした。
今まで、え? なに? お互いが親の敵同士なの? という感じだったのに、最高の試合をしたライバル同士みたいな雰囲気になるのが、本気で理解できない。商人怖い。
「ワタル様、大筋はまとまりました。商会の設立は数日中に完了しますので、次は従業員の確保です。明日から面接を行いますのでよろしくお願いしますね」
「え? あ……はい……」
思わず返事をしてしまったが、面接と書類仕事、どっちが楽なんだろう?
答えの出ない問題に頭を悩ませつつ、ギルドが用意してくれた部屋に向かう。僕達が到着したことを知って準備しておいてくれたらしい。
ん? 案内されたのは前と同じ部屋。
ということはその隣は……前回の仕事部屋から嫌な物を感じ、震えながら中を覗く。
前回程ではないが大量の書類の山。なんか吐きそう。
「ふふ、これだけの書類を処理するのであれば、ワタルさんが嫌がるのも当然ですね」
いや、前回はこれよりも多かったよ。しかも何回もお代わりが届いたし……。
「ですが安心してください。今回は商会として処理するので、ワタルさんが無理をする必要はありません。あと、ちゃんと商会の登録が終われば、商会の印章も登録できるようになります。サインの手間も省けるでしょう」
良かった、あの苦しみが……印章? それってハンコのような物だよね?
あれ?
「あの、カミーユさん、もしかしてサインってハンコで代用できたんですか?」
もしそうだったら、僕は気が狂いそうなんですけど? サインのし過ぎで腱鞘炎を覚悟したんだよ?
「個人の印章でサインですか? それは難しいですね。印章はBランク以上でなければギルドに登録できませんので、公的な役割を果たせません」
良かった。その知識があればとっくにランクを上げて印章登録をしておいたのにという嘆きは別にして、これまでの苦労が無駄ではなかったということに心底ホッとした。
納得できるかどうかは別だけどね。
「そうだったんですね。カミーユさん、今日はありがとうございました。僕はもう疲れたので休みますね」
一礼して案内された部屋に入る。なんだか凄くお酒が飲みたい。。
読んでいただきありがとうございます。