5話 解放の時来たれり
泣きたくなるほど、いや、実際に泣くほど書類整理に追われ、ようやく終わりが見えてきた頃に商業ギルドのマスターであるミランダさんが現れた。用件はキャッスル号でアクアマリン王国とブレシア王国を結ぶこと。せっかく書類仕事に終わりが見えてきたのに、なんでこのタイミングで厄介事が……。
断る!
目の前でのほほんとお茶を飲んでいるミランダさんにそう伝えれば、この厄介な話からは逃げられるのだけれど……逃げたら現在建設中の獣人の街が破綻してしまう可能性がある。
そうしたらサイン地獄よりもリアルな地獄が生まれてしまう。
二千五百億もの資金を注ぎ込み地獄を生み出したら……歴史に名を遺すレベルの失敗になりかねない。
名声にはそれほど興味がないが経済の教科書か何かに、昔ワタルというお調子者が有り余る資金を無駄に使いうんたらかんたらといった感じで載せられるのは流石に恥ずかしい。
それに実際にこの目で見た元気に働く獣人達が不幸になるのは辛すぎる。
そうなると獣人の街が破綻しない方策が必要だ。
一番単純なのは受け入れの制限。
今でもかなりの数の獣人達が居るけど、これ以上増えなければなんとかなるかもしれない。
でも、希望を胸にアクアマリン王国に来た人達を追い返すことになる。
……それでも統治者なら自国を守るために厳しい決断をしなければならないのだが、幸いなことに僕は統治者じゃないから厳しい決断からは逃げてもOKだ。
という訳で、受け入れ拒否はなしだな。
受け入れを制限しないとなると、受け入れた獣人達の仕事を用意しなければならない。
今は工事の仕事が大量にあるから大丈夫だが、反面、その工事が終わるまでに目途を付けないとヤバいということだ。
仕事……仕事ねえ……。
そもそも僕はこの世界のことを詳しく知らないから、どんな仕事があるのかすら分からない。
かなりの人数が集まっているから基本的な仕事もそれなりにあるだろうが、その辺りは基本なだけに獣人達が自力で解決するだろう。
基本じゃない仕事で余った人達を潤すのが僕の役割ということか。
日本で地域を活性化させる時のテンプレートは、その土地を魅力的な場所にして移住者や観光客を呼び込むことだろう。
他にもあるかもしれないが僕は知らないから考えない。SNSの活用とかは、そもそもSNSがないから無理だ。
で、魅力的な場所にするにはどうすればいいかなんだけれど……日本で考えると、交通の便が良く、適度に発展していて生活に必要な施設が揃っていることが最低限で、そこにどれだけの+αを上乗せできるかだ。
……交通の便は……他国からもガンガン資材を輸入しているから、その運搬とかである程度道が良くなっている。いずれ港も完成する予定。ふむ、大負けに負けて条件を満たしていることにしよう。
生活に必要な施設は、お金の力で造るので問題ない。
あれ? もしかして最低限な土台はできてる?
いや、違うな。最低限の土台ができるようにお金を積んだから、それはできていて当然なんだ。
問題は最低限で賄えないほど集まってしまった獣人達に対するフォロー。そのための+αを考えろってことだったな。
基本的にここは国が開発する旨味がないと判断した土地だ。
農業には適していないから住人を賄うだけで精いっぱい。それどころか当面は他からの輸入に頼らなければならないレベル。
森なんかも元気がないから木工やジビエなどの特産物も期待できない。
いや、森に鉱物やら温泉やらが眠っていたら少しは助けになるかもしれないな。これは後でウィリアムさんに調査を依頼するとして今必要なのは明確な仕事だ。
ダークエルフの島のダンジョンのようなテーマパークの建設……駄目だ。さすがに慈善事業費を使う許可が下りるとは思えない。
もう少し文化的で学術的で、それを招致することが慈善事業に当たる施設で、それでいて人を呼び込めるような……美術館とか博物館なんてどうだろう?
公爵城の財宝で展示できるような物も結構残っているし、龍関連なんかも……いかん強盗どころか、他国のエージェントまで呼び込んでしまいそうだ。
それに箱物は難しく国主導でも失敗することがあるから、素人が手を出すのは危険だ。
そもそも獣人が溢れて困っているのに人を集める方針が正しいのだろうか? お金を落としてくれる観光客を集めるという点では間違っていない気もするが……だから豪華客船なのか。
あれに乗れる人は基本的にお金持ちだから、その人達を獣人の街に滞在させることができれば落としてくれるお金の桁が違う。
ミランダさんのことだから獣人の街から王都へと誘致する流れも考えていて、アクアマリン王国全体の活性化を狙っていそうな気もする。
駄目だ。キャッスル号に頼らない方法を考えているのに、うっかりキャッスル号の利点に納得しそうになってしまっている。
なんとか他のアイデアを絞り出さないと。
うーん、うーん、うーん、うーん、色々と考えてみたけど、どれもピンとこない。
そもそもこの土地が悪いんだよ。基本的に何の魅力もないもん。
それを狙って選んだのは僕だけど!
役人からもなんでここの開発を? できれば別の場所をって言われたし、ウィリアムさんにも最初、この人何考えてんの? って、顔をされたし、今更ながら後悔しまくっているよ。
でもしょうがないじゃん。ある程度騒ぎになるとは予想していたけど、パンクするくらい大騒動になるとは思わなかったんだもん。
こんなことになるなら、もう少し優良な土地を選んでおくべきだった。お金ツッコんじゃった後だから今更だけど。
ふぅ、僕の頭では解決策が思い浮かばない。
目の前で微笑んで僕を見ている美魔女ならなにか別の解決策を持っていそうな気がするが、彼女は商業ギルドのマスターだからキャッスル号の入港を歓迎こそすれ否定することはない。
先に定期航路を提案してきた以上、別の案があっても教えてくれないだろうな。
つまり、キャッスル号の定期航路が現実化してきている。
今までの僕ならカミーユさんに丸投げをすればいいやと気楽に考えていただろう。
でも書類地獄を乗り越えてきた僕の経験がささやく。確実に書類増加案件だと……。
定期航路を実施したら書類が増えて、実施しなかったら獣人の街がパンクする。嫌な二択しか残っていない。
「考えはまとまりましたか?」
僕の思考が停止したことに気がついたのかミランダさんが話しかけてきた。僕が何のアイデアも思いつかなかったことを理解しているのだろう。表情に余裕が垣間見える。
絶対に内心で定期的に美容グッズが手に入るようになるわねとか考えている顔だ。情報を集めていたようだから、エステなんかの体験も視野に入れているのかもしれない。
だが僕はまだ諦めた訳じゃない。
僕が思いつかなくても僕には優秀なブレーンが居る。カミーユさん、マウロさん、ドナテッラさんの三人ならば、僕に負担が掛からない解決策を提案してくれるはずだ。
「……そうですね。魔導師様との相談も必要ですし、船の方の責任者とも話し合いが必要です。今はまだ明確な返事は難しいので、定期航路が開けないことも視野に入れてミランダさんの方も準備をしておいてください」
「そうですね、何事も絶対ということはありませんものね。ただ、今はともかく今後は商業ギルドの手に余る可能性があります。話し合いが上手く運ぶことを心の底から願っていますわ」
「……なんとか努力はしてみます」
相談の方はスルーして話し合いの方だけに言及してきたか。僕が魔導師様だと確信に近い物を抱いているんだろうな。
だがミランダさんの願いは叶わない。僕の優秀な商業ブレーンがなんとかしてくれるはずだから。
俺の返事を聞いたミランダさんが、お忙しいところお邪魔して申し訳ありませんでしたと頭を下げて部屋から出て行った。
さすが商人、ウィリアムさんから僕の状況を聞いて分かった上で押しかけてきて更に仕事を押し付けたのに、表面上は本気で申し訳なく思っているように見えた。
表面を取り繕う技術が並みじゃない。
……さて、じゃあさっさとサインを終わらせようか。
ミランダさんが帰った後、サインを済ませようとしてピタリと手が止まる。
今、新たに仕事を押しつけられた暗い精神状況でサインを終わらせたとして、心の底から騒げるかが疑問だったからだ。
このままサインを終わらせるとおそらく喜びはするだろう。ホッとすることも間違いない。でも、ミランダさんが来る前の自分ほど大きな喜びは感じられないような気がする。
ようやく地獄から解放されるのに、そんな残念な精神状態は許されない。ここまで来たら、最高にハッピーな解放感を味わいたい。
ふむ、精神を整えないと駄目だな。
そんなことを考えているとミランダさんと入れ替わりにウィリアムさんの部下が戻ってきた。
地獄の途中では鬼のごとく監視が厳しかったが、残りが少しなので彼も気を緩めてのんびりした気配を醸し出している。
そういえばこの人が居ると全力で喜ぶのが恥ずかしいな。ミランダさんが来る前は気にも留めていなかったが冷静になるとそうもいかない。
「あの、残りはこれだけなので、確実にサインしますので、あなたは今日は帰宅してもらえますか?」
「……はあ、別に構いませんが、せっかくなので終わるまでお付き合いしますよ?」
「いえ、終わった瞬間に全力で叫んで狂喜乱舞したいので一人が良いんです」
「……あぁ」
凄く同情が籠った視線を貰ってしまった。そこまで同情してくれるのなら地獄の途中でもっと優しくしてほしかった。
「あっ、仕事が全部終わったらウィリアムさんが宴会を開くそうなので、それには参加してくださいね」
「は? ……あー、それは無理です。僕はサインが終わった瞬間から全てを忘れて楽しむことに全力を注ぎます。アクアマリン王国からも今日の間に脱出するでしょう」
無理だって。自分の行いの結果だとしても、地獄を用意したウィリアムさんと楽しく宴会なんてできないよ。酔ったらヘタレな僕でも血の雨が降る可能性がある。
「えー。宴会、楽しみにしていたんですけどね」
「僕のことは気にせず、他の皆さんで宴会を楽しんでください。あ、これ、宴会費の足しにしてください」
「ちょ、これ、金貨じゃないですか。どれだけ大宴会をさせるつもりなんですか」
「余ったらもう一度宴会をするなりなんなりしてください。では、お疲れさまでした」
金貨を渡されて戸惑う監視者を部屋から押し出す。さすがに金貨はやりすぎな気がしないでもないが、勢いで出してしまったのだから仕方がない。
自分が自由に使えるお金ではないとはいえ、二千五百億も放出しちゃうと金銭感覚が狂って困る。
まあいい、金銭感覚については後で考えよう。
まずは精神を整えるんだ。辛かった毎日を明確に思いだせ。その思いが僕に最高の解放感をもたらす。
……あ、思い出したら手が震えて吐き気がしてきた。
心がドンドン沈んでいく。
よし、いまだ!
苦しみを再確認するように一枚一枚にサインをし、ついに最後の一枚。長かった。日数的には一回の航海にも満たない時間だが、精神的にはとてつもなく長く感じた。
その苦しみからもこれで解放される。万感の思いを込めて最後の一枚にサインをする。
「イヤッフー! 仕事が終わったー!」
今夜はパーリーナイトだ。今日の僕は止まらないぜ!
読んでくださってありがとうございます。




