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笑顔  作者: 朝日奈ふみ
8/10

笑顔 2/2 藍

 高校生になったら、ずっと憧れだったマーティンのD28を買おうと思っていた。三十万円もするアコースティックギターのために、春から近所のコンビニでアルバイトを始めたのだが、あまりにも稼げないため、夏休みの間だけ札幌ドームでビールの売り子をすることにした。もともと外面だけの人間なのは重々承知なので、逆手に取ってみたのだ。結果は大当たりで、面白いを通り越して呆れるほどお金が貯まった。けれど、もともとそれなりに部活の予定があった因幡くんとはますます予定が合わなくなった。

売り子の仕事は体力勝負なので、予定のない日はただ眠っていた。時々起きだしては戯れにギターを弾いた。ギターを弾くと、よしきのことを思い出した。たった二年前のことなのに、実はもうはっきりと顔を思い出すことができない。「よしき」という名前を、どういう漢字で書くのかも忘れてしまった。覚えているのは宇宙とUKロックが好きだったことと、あのステージの上で見た白いTシャツの背中くらいかもしれない。

自分で言うのもおかしな話だが、自分は基本的に平均よりもできるらしく、いつも何となく周囲から浮いていた。何かできるのは努力の結果ではなく、普通のことだったから、できない人の気持がわからなかった。クラスのボス格の女子からは大抵わけのわからない敵意を向けられた。笑顔を覚えてからそれなりに友達もできたけれど、笑顔を振りまいている割には人見知りだったから、なかなか心を許せる友達ができなかった。いつも漠然とした疎外感を抱いていた日常で、初めて自分と同じ世界にいる人を見つけた。それがよしきだった。あの時の自分は、びっくりするほど幼かったけれど、ただ全力で恋をしていた。彼の好きなものは何でも好きになろうとした。彼が中学生特有の、危うげな好奇心を満たそうとするのにも付き合った。二歳年上の彼は、今考えてもかなり大人びていて、理性的な話ばかりする反面、びっくりするほど幼いこともあった。そんな様子もまた愛しかった。つり合おうと背伸びをしているうちに、彼はいなくなって、背伸びに慣れた自分だけが残った。ほんの少しの高みから見たクラスメイトたちは、ただひどく幼かった。

よしきとの未来を望んでいるわけじゃない。けれど、これからよしき以上にすきになれる人に出会えるとは思えなかった。彼が高校生になって、最終的に別れを切り出されたときは本当に辛かったけれど、楽しかった思い出はいつまでも美しかった。綺麗な缶に入った思い出を、ドロップのように一粒口に入れて、いつまでも口の中で転がしていた。それだけで満足だった。

結局、八月になってからは予定が合わず、信じられないけれど一度も会うことがないまま夏休みが終わろうとしていた。あの花火の一件から、もう因幡くんを本気にさせる計画が急にどうでもいいような気がして、メールもほとんどしなかった。

夏休みの最後の日、その日も札幌ドームで野球の試合があった。プレミアムモルツ一五五杯、自己新記録だ。重い樽を背負って階段の上り下りを繰り返すので、帰りの地下鉄の中で膝がかくかくと笑った。三連戦の最終日、もう体も心もぼろぼろだった。手すりを掴んだまま眠りかけていたら、親切なお兄さんが席を譲ってくれた。

 眠るほどの距離ではなかったけれど、自分の意思で意識を保つことができなかった。これだけ頑張ったのだから、誰かに褒めてもらいたい。一五五杯なんて、そこまですごい数字ではないけれど、

「すごいね」

 そう言って抱きしめる腕の力が優しい。加減がわからなくて力任せに締め付けるようなよしきとは違う、もっと柔らかで優しくて、それでいて崩れそうな体を支えてくれる温もり。口元に穏やかな微笑みが浮かんでいる。大丈夫、大丈夫。安心していいんだよ。全部受け止めてあげるから。とろりとした眠気が静かな波のように押し寄せてきた。全身の力がふうっと抜けていく。


 ヘッドホンのアームが、かちんと手すりに弾かれて目が覚めた。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。耳元からは聞きなれないスローテンポの曲が流れている。目の前を、黒い足が何本も何本も通り過ぎていく。そうだ、地下鉄の中だ。この曲は、ずっと前に陸に借りたスキマスイッチだ。大通までは二駅ある。明日から普通に学校が始まるなんて信じたくなかった。薄らぼんやりとした意識の中で、明日、三週間ぶりに因幡くんに会うことを思い出した。


 一ヶ月ぶりに因幡くんに会った。

「おはよう」と声をかけると、因幡くんも「おはよう」と返した。少し伸びた髪のせいで雰囲気が少し変わっていたけれど、それだけだった。一か月も離れていたのが嘘のように、それはいつもと同じ朝だった。

 南高は二学期制なので、夏休み明けだからと言って始業式は特に行われない。学校が始まったその日から、普通に授業が行われる。

 二時間目は数学の授業だった。元々特に好きでも嫌いでもなかったはずの科目は、高校に入ってから急にわけがわからなくなり、ついていくことさえ諦めていた。

 廊下側三列目の前から三番目。窓際にある自分の席からは、ぎりぎり本人に気付かれずに横顔を眺めることができる。パーツの一つ一つは平凡だけれど、全体的に見ると整っているような気がしなくもない顔だ。夏休み明けだというのに、相変わらずきれいな色白の肌をしている。小学生でもないし、ハンドボールは室内競技だから、そういうものなのだろうか。それにしても、因幡くんは思っていたよりもずっと長髪のほうが似合う。今までずっと短めだったのだろうか。ずっとその長さでいてほしい。何気なく髪をかき上げた白い人差し指に、絆創膏が貼ってあるのが見えた。

それ以外は夏休み前と変わらない。未だにチェックのシャツに、丸首のTシャツを合わせてくるところも変わらない。シャツをパーカーに、TシャツをVネックにするだけでも随分おしゃれになるのに、すごくもったいない。

 そのとき、因幡くんが消しゴムを床に落とした。椅子を引いて、落し物を拾う。何気なく顔を上げた因幡くんと、もろに目が合った。その瞬間、因幡くんは共犯者に目配せでもするみたいに、にやりと笑った。

 何、あれ。


 因幡くんに期待することをやめたら、二人の間には話題さえなくなってしまった。所詮この程度のつながりだったのだ。いつもとは少し違う昼休み、いかに今まで無理に会話を絞り出していたかがわかってしまった。窓から差し込む夏の光は、きらきらと因幡くんのむき出しの腕を金色に照らしていた。実際のところ友達と何ら変わらない。でも、それはそれでいいような気がした。ただ、恋人として側にいてくれること、それだけで十分だ。だから、次はどこへ行こうかと言った因幡くんにこんな適当な返事ができたのだろう。

「唯依、因幡くんのハーモニカが聞きたいな」


大きめのTシャツにショートパンツ。いつもと同じ格好の自分を見ても、因幡くんはいつもと同じようににっこりと笑って、行こうか、と言った。

日曜日の大通公園はカップルよりもむしろ家族連れが多かった。こんなにゆったりと時の流れていく日曜日はいつ振りだろう。

ごめん、ハーモニカを忘れたんだ、と因幡くんが言ったから、大通公園を端から端まで歩いた。大きな噴水、とうきびワゴン、黒い石の彫刻のような滑り台に、子ども用の小さな川、バラの庭園。とんでもない距離をただぶらぶらと歩いた。移り行く景色の中で、とりとめのない話をした。とうきびワゴンのとうきびは焼きとうきびとゆでとうきびのどちらがおいしいかとか、目玉焼きには何をかけるかとか、そういうくだらない話をした。でも考えてみれば、今まで音楽以外の話を振ろうとしたことがあっただろうか。因幡くんはいつになく穏やかな顔をしていて、それを見ている自分も、何かに追い立てられるような気持がなくなっているのを感じた。

「楽しいね」

 因幡くんが言った。

「そうだね」

 と微笑んで見せると、彼は急に安心したようにぺらぺらと話し出した。

「いろいろなところに行くのも楽しかったけど、俺はやっぱり、ゆっくり行くデートのほうが好きだわ」

 ねっとりとしたバラの香りが不意に鼻腔に飛び込んでくる。バラ園の、ピンク色のバラ。きっとそれは、偶然働いた女の子の勘だったのだろう。

「ねえ、因幡くんってさ、唯依の前に女の子と付き合ったことあるの?」

 因幡くんは、少しむっとした顔をして、

「そりゃあるよ」

 と言った。彼にしては珍しく素の必死さが感じられた。

 なるほど、時折見せる余裕は経験から来ていたのか。その割には純情な気もするけれど、いずれにせよちょっと因幡くんのことを侮りすぎていたかもしれない。

 相変わらず二人の間には手の触れ合わないだけの距離があった。自分の首には会う直前まで使っていたヘッドホンがあって、因幡くんの手はポケットの中にあった。

 二人の距離は、思っていたより、ずっとずっと遠かったんだ。

「しょう」

 それはするりと抜けだすように、唇の間からもれた。因幡くんが少し驚いたように振り向いた。思わず見開いた目が合った。銀色のトンボが、二人の脇をすうっと()んでいった。やにわに、白いベールの向こうでバラの花が咲くように因幡くんの頬が赤く染まった。

「何?」

 一呼吸おいて、因幡くんが言った。風がざあっと吹いて、木漏れ日が揺れる。見上げた因幡くんの顔は逆光でうっすらと影っている。

「ごめん何でもない」

 思わず誤魔化して正面を向くと、目の前の景色が陽炎に揺らめいていた。

 この気持は、何だろう。

 ただ一つ、わかったことがある。夏の間、よしきとの思い出よりもずっと、舌の上で転がしていたのは、彼の名前だったんだ。

 因幡 翔、って。


藍 スキマスイッチ

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