6話
ぼくたちは歩いて茅野の家に向かった。
学校の前を通り、橋をわたって茅野の家のある住宅街の端を目指した。子供たちは、このあたりの地区をふつうに街とだけ呼んでいた。
三人で歩道を並んで歩きながら、重苦しい空気をまぎらわせるように話をした。
「雨宮くんって、三人兄妹なんだね」
「くりくりしてて、すっごいかわいいんだよー」
「かわいいんだけど、小さいころは上の兄姉がほしかったな……」
「えー、姉のいる身で言わせてもらいますけど、ぜったい下のほうがいいよ!」
「ふふ。ひとりっこだから、どっちもうらやましいな」
三人で他愛もない話をしたが、茅野の家に近づくたびに口数がだんだんと減っていくのが自分でもわかった。ふりむけば、いま歩いてきた住宅地の街並みが灰色に広がる。土曜日の午後で、もっと人とすれ違ってもよいはずだが、今日にかぎって誰も見かけなかった。その灰色の空気がかげろうのように僕達をつつんで、もとの場所から切りはなしているようだった。
茅野の家のそばで、ぼくの自転車は無事に放置されていた。ひとまず目立たない歩道のすみに寄せておいた。ここまでくれば、茅野の家の玄関はもう目の前だった。ぼくは夏ちゃんに言った。
「夏ちゃんは外で待っていて」
「でも……」
「なにかあったら頼んだ」
夏ちゃんはついてきたそうだったが「わかった。まかせて」と答えた。心配している顔を少しでも安心できるように笑ったつもりだったが、口元がこわばっていたかもしれない。
「茅野、行こう」
彼女はうなずくと玄関を開け、家の中に入った。鍵はかかっていなかった。
扉の閉まる、がたんという音がやけに耳障りに大きく鳴った。
家の中は、しんと静まり返っていた。遠くでかすかにテレビの音が聞こえる。
空気がよどんでいた。そして、それを重いと感じた。
廊下を進むごとにテレビの音が大きくなる。途中には二階への階段があった。茅野の部屋は二階だろうか、どんな部屋なのかなと場違いなことを考えた。ぎしぎしと足音が響く。ぼくたちは、まるで泥棒のように息をひそめて進んだ。
そして、ついにテレビの聞こえるその部屋の前にきた。
ぼくは緊張で、のどをごくりと鳴らした。扉を開こうとしたとき、茅野がぼくの手を止めて首を振り、私が開けるというように小さく一度うなずいた。
茅野はゆっくりと扉を開けた――とたんにテレビから聞こえる芸能人の声がはっきりと耳にとれた。茅野が部屋の中に入る。彼女の背中越しに見える部屋は、リビングのようだった。左に顔を向けると、大きなガラス窓から庭が見えた。
「お母さん……、ただいま」
茅野が声をかけたほうには、ソファに寝そべってテレビを見ている母親の姿があった。茅野に気がついた母親はすぐに怒り出すかと思ったが、横になっていた身体をのっそりと起こしただけだった。そして静かに、しかし見下すように言った。
「遠子、どこ行ってたんだい」
母親の声は怖いくらいに静かだった。
「ごめんなさい。友達のところに行ってたの」
「へえ、友達ねぇ。いい気なもんだね」
「ごめんなさい……」
茅野は目をふせ、自分の手をじっと見つめた。
どこかから入って来たすきま風がカーテンを揺らした。
「あのとき、行くなって言ったでしょ」
「もうしないから、お母さん、許して……」
「あんたは私の言うことだけを聞いておけばいいんだよ」
ぼくは母親の言葉を理不尽に感じていたが、なおも茅野は、かすれた声を絞り出すように言った。
「本当にごめんなさい、お母さん、言うとおりにするから、だから――、だから、昔みたいにもどろう? ね、お母さん、私の悪いところ直すから! がんばるから! 私なんでもやるから!」
「昔みたいにだって――?」
「うん! お母さん、小さいころはわたし楽しかった! お母さん、やさしかった! 私、がんばるから! もっとがんばるから、お母さん!」
「バカが――!」
突然、激高した母親がテーブルを蹴った。瞬間、部屋が黒色で満たされたように思った。共感覚で母親が真っ黒になっているのを見た。母親の表情が大きくゆがむ。
「昔みたいに戻りたいって、どの口が言うんだい! あんたがいなければ! あんたさえいなければ! あんたさえいなければ、幸せだったんだよ!」
母親が茅野につかみかかった。テーブルが激しく揺れ、コップや灰皿のいやな音がひびいた。
「ごめんなさい! お母さん、ごめんなさい、許して! 許して!」
「黙りな! 口答えするんじゃない!」
「お母さん、ごめんなさい、ごめんなさい――」
「あんたさえ生まれなければ! あんたは悪い子だ! あんたはほんとにだめな子だ! あんたはいけない子なんだよ!」
母親を止めようとぼくは体をつかんだ。
茅野は母親のあびせる容赦ない言葉にうなだれて、もう答えようとしない。
「茅野! まだ自分の気持ち、言ってないだろ!」
まだ、茅野があの川で叫んだ言葉を母親に言っていなかった。ぼくはあの言葉を母親にむかって言ってほしかった。
「雨宮くん……」
しかし彼女の目の光は、強さを失っているかのように弱かった。
人形のように母親にされるがままだった。
「あきらめるな! 茅野!」
ぼくは泣いていた。いつのまにか涙があふれていた。
目を閉じた彼女は、ゆっくりと何度か首を振った。
「茅野!」
力を失ったような茅野は泣いてすらいなかった。
自分の言葉の無力さを感じながら、ぼくは茅野のかわりに泣きながらさけんだ。
「茅野は――、茅野は、悪い子なんかじゃない! だめな子なんかじゃない!」
ぼくは母親に体ごとぶつかった。
「なんで子供にそんなこと言えるんだよ! あんた母親だろ! 茅野の母親なんだろ!」
「黙れ! くそガキ! ひっこんでな!」
もういちど母親に体当たりして、茅野から遠くへ離そうとする。
「茅野はお前みたいな母親でも好きだったんだよ! 母さんは昔やさしかったって! こんな家でも終わらせたくないって! なのに、なんで分かってやれないんだよ!」
そのとき、リビングの奥の扉が開いた。奥の部屋から、男が出てきた。
男は眠りを妨げられたことを怒るように、部屋を見回しながら言った。
「寝てんのに、うるせーぞッ!」
「あんた! このくそガキ、あっちへやってよ!」
男の身体は大きかった。母親の言うことに従ったのか、ぼくに近づいてくる。
「あァ、なんだ、このガキは!」
「茅野、逃げろ!」
言うなり、ぼくは蹴られ、テーブルやソファもろとも転がった。口の中に血の味がした。右手を唇に持っていき、血をぬぐう。
「もう、やめて! 私が悪かったから! お母さん、もうやめて! 雨宮くんを傷つけないで!」
「なんだァ、おまえもやられてぇのか?」
男が茅野のほうに向かう。
くそっ。体中が痛い。ここで立ち上がらないと、茅野が――
立ち上がれ、立ち上がるんだ。
くじけそうになる気持ちをふるい立たせる。
足の指とひざに力をいれ、無理矢理立ち上がる。
ふらつく体を壁に手をつけて、なんとか支えた。
「おまえの相手はこっちだ!」
ぼくは男の視界に入るように動く。
男は目を見開き、再度こちらに身体を向けた。
「ガキがッ!」
「茅野、逃げろ! 逃げて、外の夏ちゃんに――」
「でも――」
また蹴りがくる。ぎりぎりでかわす。つづけて右の拳が身体をかすめる。
せめて茅野の無事だけは。
「茅野! 逃げろ!」
茅野は意を決したように部屋を駆け出していく。
「待ちな!」
母親が邪魔しようと追いすがるのを、手をつかんで引き倒す。
ここを行かせるわけにはいかない。
「いいかげんにしな!」
「てめえッ! うぜえんだよッ!」
今度は、男がやってくる。もう茅野は外に逃げることができただろうか。
「どけよッ! ゴラァ!!」
男は苛立ちながら、僕の身体を押して引き離すと、するどく右足で僕を蹴った。
ぼくの体は、庭に面したガラス窓まで吹っ飛ばされ――
大きな窓ガラスの割れる音が響いた。
「ああっ! 雨宮くん!」
外から茅野の悲鳴が聞こえた。
ぼくは壊れた窓枠とガラスの破片とともに庭の地面に転がり倒れた。
目を開けるときれいな青色の空が見えた。
「コウちゃん!」
夏ちゃんの声が聞こえる。
倒れた体の周りには血が見えた。右の手のひらをかざすと、血がべったりとついていた。
「救急車呼んだから! 待ってて!」
「雨宮くん!」
茅野が泣きながら、走り寄ってくるのが見えた。ぼくは茅野を見ながらつぶやいた。
「……茅野、ごめん。うまくいかなかった……」
彼女が望んでいた、昔のような家庭はたぶんもうないだろう。
「ううん、そんなことない!」
彼女は否定するように首を振った
「こんなことになるなんて! ごめんなさい、雨宮くん! ごめんなさい――!」
謝らなくていいんだよと言おうとして、ぼくは意識を失った。