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3話

 翌朝、学校に着くと、茅野はまだ来ていないようだった。朝のホームルームが終わり、授業が始まっても、茅野の姿はなかった。気がつくと、黒板の今日のお休みに茅野の名前があった。


 その日の授業は、内容が半分も頭に入らなかった。ふと、学校が終わったら、昨日のあの河原に寄ってみようと思った。彼女がいるような気がした。


 学校から家に帰ると、玄関にランドセルを置いて、すぐさま自転車に乗って急いだ。

 

 川辺に行くと、茅野が昨日と同じように座って、水面を眺めていた。その姿を見て、ひとまず安心する。ぼくは彼女がいなくなってしまうのではないか、と無意識に心配していたことに気づいた。それくらい共感覚の暗闇の色は、不吉を思わせた。そして、今日も彼女は暗い色のままだった。


 自転車を道端に置き、土手を降りて、彼女の座っている場所まで近づく。茅野は僕のほうを見た。近づくのを気付いていたかもしれない。彼女はぼくを見ると、ゆっくりとまた顔を川面に向けた。


 近くで見る彼女は、思っていた以上に痩せて疲れている印象を受けた。何日も水を与えられない花が、窓ぎわで萎れ枯れていくような。


「茅野……」


 その姿を見て、茅野の名前の後の、次の言葉をかけることができなかった。

 昨日と同じだった。


 心の中で、いくつかの言葉や想いが、ぐるぐる浮かんでは消える。


 大丈夫か?――そんなの大丈夫じゃないだろう。

 何かあったの?――その姿を一目みれば、何かあったに決まっている。

 元気だして――友達でもない、ただのクラスメイトからのそんな言葉で、元気がでるのか。

 力になりたい――無力な一人の子供が、何の力になれるというのか。


 言葉が浮かんでは消える中で、僕は思う。

 今のぼくは何も言えない。

 彼女に踏み込む勇気がなかった。


 それでも――


 川がさらさらと流れていた。

 風がゆるやかに吹いて、川面をゆらした。

 水辺の小さな白い花が揺れていた。

 遠くに子供の遊ぶ声がきこえる。


 どのくらい時間がたったのだろうか。

 ぼくは茅野の隣にひざを抱えて座った。

 唇を噛みしめた。

 ぼくがなにか言っても、彼女は何も変わらないかもしれない。迷惑に思うかもしれない。


 それでも、ぼくは、最初に心に浮かんだ言葉を伝えようと思った。


「茅野、大丈夫か?」


 その言葉に驚いたように彼女は体を揺らした。

 茅野は、顔をひざにうずめた。

 嗚咽の声が聞こえた。

 そして、顔をあげると、彼女の心の中を吐き出した。


「私は悪い子なんかじゃない! だめな子なんかじゃない! だめな子、なんかじゃない!」


 茅野はここにいない誰かに向かって、泣きたてるように言った。

 その叫びに驚いて、なにか声をかけようとしたが、ぼくはまた何も言えなかった。

 言葉のかわりに、触れていいのか迷ったが、ぼくは彼女の肩に手を置いた。手のひらから彼女の体温を感じる。

 茅野は、ぼくの手を見つめた。涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。


「ごめんなさい、雨宮くん。ぜんぜん意味わからないよね。……でも、ありがとう。声をかけてくれて、ありがとう」


 彼女は泣きながら、すこし笑うと、

 恐る恐る手のひらを僕の手に重ねた。


 こぼれ落ちる涙を見ながら、僕はなんて馬鹿なんだろうと思った。

 心配なら心配と、相手に伝えるだけでよかった。

 困っている人がいるなら、助けようとするだけでよかった。

 もっと単純でよかったんだ。

 声をかけてよかった。


 大丈夫か?――たったそれだけの言葉。


 茅野は、僕の手を握って、ゆっくり立ち上がった。


***


 二人で川沿いの土手を歩く。

 茅野に家の場所を聞くと、町の向こう側だった。ぼくたちは橋を渡り、商店街のほうに向かう。ぼくは自転車を押し歩きしながら、茅野の歩くペースに合わせて進む。


「もう落ち着いたから……」


 茅野は、送っていこうとした僕に断るように言った。ぼくは「遠慮するな。心配だし」と言い張り、家までついていくつもりだった。彼女はもう泣き止んでいたが、しずんだ様子は変わらなかった。


 彼女の心の色は少し明るくなった気もしたが、まだ暗いままだった。少し肩を落として歩く彼女を元気づけたかった。


 やがて商店街のアーケードに入り、いろいろなお店が両側に並んでいる通りを歩いた。 

 途中、買い物を終えて家路につく人達と多くすれ違った。

 

「ちょっと待ってて」


 ぼくは茅野を通りに待たせたまま、惣菜屋さんの店先に向かった。たくさんの揚げ物が並べられたカウンターに行き、注文する。


「おばさん、コロッケふたつ下さい。あ、袋二つに分けてください」 

「あいよー」


 おばさんがコロッケを包んでいる間、茅野は所在なさげにこちらを見ていた。


「お待ちー。揚げたてのコロッケ二つ。120円ね」

「はい。ありがとう」

「まいどありー」


 お金を渡して、コロッケを受け取る。次に店先のやかんに入ったサービスのお茶を紙コップに入れた。

 ぼくは、茅野のもとに戻ると、コロッケを一つ差し出す。


「はい。茅野、これ食べて。ほかほかでおいしいよ」

「私、お金ない……」

「いいよ、気にしなくて。ほら、冷めちゃうし」


 ようやく茅野は受け取ってくれた。そして、おずおずと一口頬張ると、暖かそうな湯気が上がるのが見える。彼女のコロッケの持ち方は、リスとどんぐりを連想させ、ほほえましい。


「おいしい!」


 茅野はびっくりしたようだった。


「よく友達と遊んだ帰りにここで買い食いするんだ。女子は、甘いものばっかりで、ここのコロッケ、食べたことなさそうだし」

「……私、買い食いって、はじめてかも」


 彼女は、はむはむという擬音が聞こえてくるように食べた。


「あと、これお茶」


 紙コップに入ったお茶を渡す。茅野はそれを受け取る。


「あったかい……」


 冷たかったり、お腹がすいていたりすると、心が悪い方に考えてしまう。茅野がすこしでも上向けばよいと思った。


***


 商店街を抜け、人通りが少なくなると、あたりは暗くなってきていた。

 ぼくは良いアイデアを思いついて言った。


「茅野、二人乗りで行こう」


 とぼとぼ歩いているより、自転車で疾く走ったほうが、茅野の気がまぎれるかもしれない。自転車にまたがって、茅野に後ろに乗るように促す。茅野はすこし躊躇したが、乗ってくれた。


 しかし、この二人乗りを、ぼくは後悔することになった。

 二人乗りをしてから、ほんの十秒ほどでペダルをこぐ僕の足が、回らなくなってきたのだ。坂道ということもあって、前に進まない。


「こ、こんなはずじゃ……」

「私、そんなに重かったかな……」


 茅野は、すこし落ち込んでいた。彼女は、背の高い男子と同じくらい身長があったが、これは坂道に負ける、ぼくの脚力不足が理由だろう。


「交代してみる? ……しょうがないよ。小学生は女の子のほうがまだ大きい子が多いし」


 なぐさめるように茅野は言った。ぼくは自転車を止めて交代する。今日から腕立てふせ決定だな。茅野がペダルをこぐと、自転車が進み始めた。ぼくは彼女の肩に手をのせ、後ろに立っていた。たぶん、今、ぼくが犬だったなら、耳が垂れて、しっぽも隠れていたに違いない。


 途中、買い物帰りの女性とすれ違ったとき、「こら、彼氏がこぎなさい!」と怒られると、茅野は、くすっと笑った。ぼくは心の中でごめんなさいと謝った。


 自転車は、下りの坂道に入った。

 顔に当たる風が強い。


「気持ちいいー」


 茅野は泣いていたのが嘘のように、いつもより大きな声で話した。


「――雨宮くん、私、友達つくればよかった!」


 下り坂の風の音が耳に激しい。風に負けないように、彼女の声はいつもより大きかった。夏ちゃんが言っていたように、とくべつ親しい友達を作っていなかったのだろう。ぼくも彼女に声が届くように声を上げて言った。


「今からでも遅くない!」

「…………」


 茅野はなにか答えたが、風にきえて、ぼくには届かなかった。


***


 町の住宅街の端に茅野の家はあった。

 彼女の家は一般的な二階建ての家屋だったが、どんよりとした雰囲気で、ものさびしい印象を受けた。

 玄関の前まで送ると、茅野がすこし恥ずかしそうに言った。


「ありがとう、雨宮くん」

「あした、土曜だし、ゆっくり休むといいよ」


 茅野は一瞬顔をゆがませて、悲しそうな表情になった気がしたが、すぐに振り返ると玄関から家の中に戻っていった。その後ろ姿を見送って自転車を引き寄せると、ぼくはスニーカーの靴ひもが、ほどけていたのに気づく。最近よくほどけるなあと軽くためいきをつきながら、茅野の家を前にしゃがみこみ、靴ひもを結んでいた。


 そのとき、茅野の家から、声が響いた。


「遠子! どこいってたの! ごはんの準備もまだじゃない! どんだけ時間かかると思ってんの! 待たせないで! あんたはほんとダメな子だね! 洗濯物もまだでしょ! 早く取り込んで! 言わなきゃ分かんないの! ほんとに手のかかる! お風呂の掃除もやっといてって言ってたじゃないの! まだやってないの! 遅いんだよ! もう! あんたはダメな子だね! だれに似たんだか! あんたはほんとにダメな子だ! 死んでしまいな! 本当にダメな子――!」


 漏れ聞こえる声を聞いて、ぼくは茫然とした。ぼくの知っている母親とは、あまりに違う。異質な、違う生き物のような、この親の存在に怒りを覚えた。


「……」

「口答えするんじゃないよ! 黙りな!」


 茅野は、こんな家で、こんな親で育ったのか。それなのに、茅野はあんなに勉強もできて、運動もできて、良い子で――いや、こんな親だから、そうあろうとしたのか。そんなの悲しすぎる。


「ほら早くしな! 遅いんだよ!」


 なにかを叩いた、嫌な音がした。


 その音を聞いて、ぼくの心がはじけた気がした。気がつくと体が動いていた。玄関まで走ると、扉をたたく。


「茅野! 茅野!」


 玄関の扉のノブを回すと開いたので、思い切り開けて、中に入る。

 奥につづく廊下の向こうに茅野が見える。廊下の床に倒れていた。


「雨宮くん……」


 茅野は倒れた姿勢のまま、ぼくを見て困惑したようにつぶやいた。

 その姿を見て、彼女はここに居てはいけないと思った。


「茅野、今日、お泊まり会だろ! 呼びに来た!」

「なんだ! あんた誰なの! 勝手に人の家に入って! そんなの聞いてないよ!」


 さらに奥のほうから、母親らしき人の怒鳴り声が聞こえた。


「行こう!」

「遠子、行くんじゃないよ!」


 ぼくは茅野に向かって手を差し出す。


「茅野、行こう!」

「雨宮くん!」


 茅野は迷っていたが、立ち上がると玄関に走ってきた。ぼくは茅野の手をとると、「すいません、行きます!」と奥に向かって言い残した。廊下の先にちらっと母親らしき姿が見える。


「遠子! 待ちな!」


 なおも母親の声が聞こえたが、茅野と二人で駆け出した。


 最後に共感覚で見えた母親の感情の色は、暗い紫色だった。その色がどんな感情を意味しているのか、ぼくは知らなかった。


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