2話
その少女と出会ったのは、まだ六年生になったばかりの放課後のことだった。学校から帰宅して、ぼくは母さんに頼まれていた買い物にでかけた。
裏道の川沿いを自転車に乗りながら、川の流れを目で追っていた。
女の子が川のほとりに座りながら、水の流れを眺めているようだった。
なにげない風景を通り過ぎようとした。そのとき――
ふいに、ぼくの目が驚きで見開いた。なかば自転車から転げおちるようにして止まり、そのまま凍りつく。その場から動けなかった。共感覚がそれを見た。
暗闇。
女の子は、黒に紫を一滴垂らしたような、暗闇の色で包まれていた。
その色は、不吉な、絶望という言葉が頭に浮かんだ。
「茅野?」
ふるえる声でつぶやいた。ぼくは自分がつぶやいたことに気づいていなかった。その女の子がクラスメイトの茅野遠子だということも無意識だった。
ぼくは名前に続けて、茅野に言葉をかけようと思ったが、彼女の不吉な色を見ると、何を言おうとしても言葉にならなかった。
茅野は、ぼくの声に反応したのか、自転車の止まる音で気が付いたのか、こちらのほうを振り向いた。長い髪が後ろの水面に反射して、輪郭がきれいに輝いた。
目があった。視線がからみつく。
その何も見ていないような瞳から、目が離せなかった。川の流れる音が、遠くに聴こえる。
一瞬の静寂。
茅野の頬が、叩かれた後のように赤くはれているのが見えた。彼女の表情が、無から、まずいところを見つかった、というように変わったと思った。
その動きが、凍りついていた僕の呪縛をといた。茅野に近づこうと、足を踏み出そうとした。まさにその時、彼女は素早く立ち上がり、ぼくに背をむけると、河原の土手をかけ上がり、ものすごい勢いで走り去って行く。
ぼくは、踏み出そうとした足が中途半端に浮いた状態で、彼女を追いかけるべきか迷った。しかし、あっという間に背中が小さくなり、視界からいなくなるのを見て、追いかけることを断念した。
共感覚で見えた彼女の真っ暗な心の色は、何かよくないことを感じさせた。
横倒しになった自転車の車輪は、まだゆっくりと回転していた。
***
ぼくは頼まれていた買い物をすっかり忘れて、もやもやと落ち着かないまま、いったん家に帰った。
部屋のベッドに腰掛けながら、さっきの川辺での出来事について考えたが、茅野に関して、ほとんど知らないことに気づいた。五年生のクラス分けから同じ組になったが、話したことも片手で足りた。
茅野遠子について考える。最初に思い浮かぶのは――
笑わない女の子、ということ。
教室で、女の子のグループのほうで笑い声があがり、そちらを見ても、茅野は静かに机に座っている。そんなことが何度かあった。
彼女はたいてい一人でいた。かといって嫌われているとか、いじめにあっていることもないようだ。彼女は、頭が非常に良く、運動神経も相当良かった。クラスメイトからの勉強の質問は、丁寧に教えているようだった。
茅野には、まるで壁が存在しているようだった。こちらから話せば返ってくるが、茅野からは返ってこないという一方通行の透明な壁が。
女の子を表す言葉に向いていないが、超然としている、そんな言葉がしっくりした。
ひとつだけ茅野に関して印象に残っていることがある。
ぼくは、机の上のペン立てに目をやり、茅野の持ち物だったシャーペンを手に取った。そして彼女とシャーペンを交換したときのことを思い出す。
五年生の梅雨の放課後だった。ぼくが日直で残って日誌に書き込んでいると、教室の前の扉が開いた。茅野だった。彼女は自分の席に向かって歩いていく途中、ぼくの席の横で、急に立ち止った。
「雨宮くん、そのシャーペン、見せてもらってもいいかな?」
「……シャーペン?」
ぼくは茅野から話しかけられるとは思っていなかったので、とても驚いた。日誌に書き込むのを止めて、彼女にシャーペンを渡す。そのシャーペンは、先週、妹が買ってきたカエルのマスコットが付いているファンシーなものだった。
「それ、妹が買ってきたんだけど、カエルが怖くなったみたいで、むりやり僕のと交換させられたんだ」
「むりやり? それじゃ、雨宮くんはこのシャーペンを使うのは本意ではないってこと?」
ぼくは彼女が言った、本意ではないという言葉の意味がとっさに分からなかったが、聞き返せる雰囲気ではなかったので、「うん」と答えた。
「じゃ、私のシャーペンと交換してくれないかな? 私、かわいいカエルのグッズを集めてるんだ」
「カエルが好きなの? どうして?」
ぼくは不思議に思って聞いた。カエル好きなんて珍しいと思った。
「……内緒」
茅野は、答えを迷ってから、顔をカエルからぼくに向けて言った。すこし笑ったように見えた。
彼女は自分の席に戻り、筆箱からシャーペンを取り出して僕に差し出した。それは紺色のシンプルなデザインだった。茅野の何を知っているわけでもないけど、彼女らしいデザインだと感じた。でもほんとうは、カエルのシャーペンが彼女の好みなのかもしれない。
こうして、ぼくは茅野のシャーペンを持つことになった。そして、茅野のカエルグッズ集めという趣味を知った。
その後、カエルのシャーペンを人にあげたことを妹に白状させられると、「お兄ちゃん、なんであげちゃうの!」と、しばらく口を聞いてくれなかったのを覚えている。
***
「茅野さん?」
夏ちゃんは、階段に並んで座るぼくに問い返してきた。質問が予想外だったのかもしれない。ぼくはもう一度たずねた。
「さっき、茅野を見かけたんだ。つらそうな様子だったから、学校で何かあったのかと思って」
「うーん、何もなかったように思うけど……」
今日のできごとを思い出すように夏ちゃんは目線を上にあげた。
あの暗い色は、学校やクラス関係が原因ではないということか。
「夏ちゃんは、茅野と仲良い?」
夏ちゃんこと、日乃原夏ちゃんは、おなじ団地に住む幼馴染で、ミニバス部のキャプテンをやっている。短いおさげを振りみだして、バスケする姿は、その名前のようにとてもまぶしい。
「茅野さんとは……、ふつうかな」
「……ふつう?」
「もう、女子に女子のことを聞くのは、ルール違反なんだから」
そう言いながら、夏ちゃんは僕の頬をつねった。幼い頃から、なにかあると右頬をつねられた気がする。たぶん、ぼくは右頬のほうがすこし大きいに違いない。結局、夏ちゃんは困ったような顔をしながらも話してくれた。
「茅野さんは、たぶん特別に親しい人っていないんじゃないかな……。去年、同じクラスになったとき、席が近かったんだ。それで友達になれたらって思って、話しかけたり、いっしょにミニバスに誘ったりもしたんだけど、だめだったよ……。その後も、いろいろ誘ったりしたんだけど……。ほかの女の子も難しかったみたい。壁があるというか。見えないバリアみたいな」
話している間に、玉砕だった日々を思い出したのだろうか、夏ちゃんの声は沈んでいった。
「そういえば茅野さんをミニバスに誘ったとき、家が忙しいって言ってたから、お店とかやってるのかも……」
「ありがとう」
陽がかげり、もうすぐ夜に溶けこみそうな影が、複雑な形状で二人に落ちる。その影を見ながら、夏ちゃんにずっと言えなかった、ぼくの共感覚のことを伝えようと思った。
「夏ちゃん、子供のときだけど、この階段で、ぼくが人に色が見えるって言ったこと覚えてる?」
小さい頃からこの階段に並んで座りながら、いろんな話をした。使われていない屋上への階段は、いつでも秘密基地だった。
「……覚えているよ、コウちゃん。私の色って、オレンジなんでしょ?」
夏ちゃんは、ぼくのことを下の名前で呼ぶ。誕生日が先だからって、お姉さんが弟に言い含めるように。
「あれが本当のことだって言ったら信じる?」
ぼくは夏ちゃんの目を見ながら話した。不安な気持ちが、声に出たかもしれない。ぼくの唇はいつのまにか震えていた。
「信じるよ。――今、わたし、何色かな?」
「変わってない。オレンジのままだよ」
彼女のお腹のあたりを共感覚で見ながら、ぼくは答えた。
「変わってないかあ。……その色って、何なのかな?」
「感情を表しているみたいなんだけど、オレンジはまだよくわかっていない」
夏ちゃんは「そうなんだ」と少し残念そうにつぶやくと、昔を思い出すように言葉を続けた。
「……昔、コウちゃんが私をオレンジって言ってたじゃない? それでオレンジの花言葉、調べたんだよ」
「花言葉なんだった?」
「結婚とか花嫁だったよ」
「け、結婚」
ぼくは思わず、ぶほっと吹き出した。
「……それであのあと、夏ちゃんの態度がおかしかったのか」
「それを言うなー」
二人で笑った。たぶん夏ちゃんはわざと笑えるように言ってくれたのだろう。
「あれで、オレンジの花言葉は、もう絶対忘れないって思ったよ」