秋の彼岸
九月二十六日の朝、一台の車が郊外の墓所に姿を現した。白のセダン、タクシーのような形態のこの車は誰もいない駐車場に静かに停車し、ドアがパタンと開き、中からくたびれたスーツを着た一人の男が降りてきた。男は四十代後半、中肉中背で丸い顔にはうっすらとたるみや皺ができていたが、髪はまだ若々しく黒いままであった。辺りの雑木は緑の深い彩りの枝葉を繁らせ、過ぎた夏の残り香を匂わせていた。ドアを閉めた。男はそっと息をついた。空は生憎の曇天であったが、快い風が吹き、外出するのには最適の気候だった。男はトランクから粗品が入った白い紙袋とスーツケースを取り出して鍵をかけ、墓地に向かって歩き始めた。
墓地は丘の斜面の石段に沿って棚田状に立ち並び、屋根に真新しい瓦を葺かせた寺院のある頂上付近まで続いていた。男は石段を登っていった。墓地の周囲には森が広がり、時折野鳥の澄んだ鳴き声が聞こえてきた。
寺院に着くと男は近くにいた細い眼鏡をかけた僧侶に声をかけた。
「あのー、すいません。ご本尊様のお参りに来たのですが、本堂を開放してもらえないでしょうか……」
「ああ、はい」僧侶は箒の掃く手を止め、にっこり笑顔でこたえた。それにつられて男も口元に笑みを浮かべた。僧侶は本堂の扉を開けて男をその中へ招き入れた。
「今日でお彼岸も終わりですね。法要のお務めご苦労様です」
「いえいえ。今日の彼岸会が終わるまで気は抜けませんよ」
本堂の奥には無愛想な阿弥陀如来の座像が安置されていた。男は粗品の紙袋を恭しく供物台に供えてから、数珠を手に巻いて厳かに合掌し、立礼した。僧侶はその様子を背後で見つめながら、目にごみでも入ったのか、何度も瞬きを繰り返した。
「住職はまだ庫裡の方ですかね」
「そうですね。もしよければご案内しますよ」
「ああ、いいんですよ。住職とはもう十年来の仲になるものでね。お寺の中もよく知っているんです」
「しかし、一般の方には公開していない部屋もありますし、それにせっかくいらして下さったものを一人にしておくのは、こちらとしても申し訳ないところがありまして」
「そうかい?」男は頭をさりさり掻いて僧侶の坊主頭を見据えた。「そこまで言うのなら……お願いしますよ」
「はい。では参りましょう」
僧侶は法衣を翻して寺の回廊をすたすたと進んだ。男は後に続きながら、窓から見える灰色の雲の群れを眺めていた。
「今年の夏も、暑かったですね」
「ええ」
線香の香りが漂っていた。
スナックバーの太った女主人が、カウンターに白い紙袋を載せた。
「お彼岸に持っていきな」
「ありがとう」男は紙袋の中を覗き込んだ後、抱えて座席の下のスーツケースの横に仕舞った。
男の他に客はいなかった。薄暗い照明に開けたばかりの焼酎瓶とオンザロックの二つのグラスと女主人の濃い化粧の顔が浮き上がっていた。女主人はくわえ煙草にマッチで火を点けた。煙草の煙が顔を覆い、女主人のきつい香水の匂いと混ざり合った。
「あんたと飲むのもこれで最後になるかもしれない。今までいろいろ世話になった……」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ」女主人はよく通る低い声と鋭い視線を男によこした。「あんたは悲観的過ぎるんだよ。もう少し前向きに生きられないのかい」
「すまない……」男はカウンターのグラスを静かに見つめた。
「……ったく、あんたと話してるとこっちまで気分が落ち込んでくるよ。その性分何とかならないの」
「普段は明るく振る舞っているんだ。……暗くなるのは、あんたの前だけだ」
「なんだい、そりゃ」女主人の目が一瞬真ん丸になった。「まあいいや。それじゃあここで一つ、暗い話でなくて明るい話でもしてもらおうかね」
「明るい話か……」男は腕を組み、短い間思案を重ねた。「妻子の七回忌に兄が駆けつけてきてくれたよ」
「そうかい」
「兄とはもう何年も会っていなかったから、いろいろと積もる話があってね」男の暗い声が僅かにうわずった。「兄は二年前に奥さんと離婚しているんだ。それで兄はまた新たに女を作って一緒に暮らしているらしい」
「おやまあ、いい歳こいてお盛んなこと」
「子供たちもびっくりしてたって、そりゃあそうだろうと。まあでも、歳をとると独り身の寂しさは堪えてくるだろうよ。それに、兄は昔から寂しがりん坊だったから」
「あんたはどうなんだい。あんたは、独り身の寂しさを感じないのかい」
「いやあ、私は……」男は言葉を詰まらせ女主人の顔色をちらりと窺った。女主人の不穏な眼光が男を捉えていた。
「私には万千子さんがいるから」
「ぷっ……」途端に女主人の堅い表情が綻んだ。「ぷふふ、いや、何言ってんのよあんたあ……馬鹿じゃないの」
「いやあ私はいたって真面目だ。あんたは素直でいい女だと思う」
「あたしはあんたみたいな遊び人とは違うんだよ。いくら熱を込めて誘ったってあたしは動じないからね」
「誰が遊び人だ。こういうときは愛想良く謝意を述べるのが筋ってものだろう」
「いつもは愛想良く振る舞っているんだよ。意地悪になるのは、あんたの前だけさ」
女主人はカウンターのオンザロックを飲み干し、カラオケのマイクを握り締めて八代亜紀を歌い始めた。本当は男とのデュエット曲を所望していたのだが、男は音痴だからとそれを断った。
情感豊かな旋律と女主人のどすのきいた歌声が響き渡る中、男はもう一つのオンザロックを半分まで飲み、椅子の下の白い紙袋を再びカウンターに上げた。袋の中に手を入れると、そのままアサルトカービンの黒光りした銃身を取り出した。
「こちらになります」と僧侶が言うか言わないかの内に男は走ってスーツケースの留め金を外し中からアサルトカービンを出して素早くコッキングレバーを引いた。
虚をつかれた一瞬の隙を突いて僧侶を制し客間の入り口に滑り込むと、男はアサルトカービンを腰に構えて引き金を引いてふすまに向かって猛烈な弾丸の連なりを浴びせかけた。勢いづき蹴破って中に突入すると、サプレッサー付き短機関銃をたずさえた僧侶が三、四人畳の上に倒れていた。男は部屋を見回した。と、部屋の隅で壁にもたれていた僧侶一人がとっさに前に出てサプレッサー付き短機関銃を撃ち放った。男は前に飛んで弾丸の雨を紙一重でかわし、逆に僧侶を撃って掴んで次の部屋に続くふすまもろとも畳に叩きつけた。
案内を仰せつかった僧侶は驚嘆の表情を浮かべながら客間の惨状を見守っていた。慌てて懐から拳銃を抜いたが、それに気づいた男が身を切り返して即座に射撃した。細い眼鏡をかけた僧侶は蜂の巣となってガラス障子を突き破り、中庭の溜め池に沈み込んだ。
男は立ち上がるとスーツについた埃を手で簡単に払った。客間は割れた皿や破れた掛け軸、空の薬莢が散乱し、ふすまも踏み倒されて今や廃屋同然の有り様を呈していた。男は動かなくなった僧侶たちをざっと一瞥してから空になった弾倉を銃から外してポケットに詰め、懐に忍ばせた予備の弾倉に付け替えた。
客間の先は住職らの居住空間になっていたのだが、人の気配はなく、ひっそりとしていた。男は銃のコッキングレバーを引いて肩の高さに構え、一つ一つの部屋を歩いて見て回ったが、どの部屋にも人の姿を認めることができなかった。
靴を拝借して庫裡の玄関から外に出た。砂利の地面にいくつかの轍ができていて、それらが道となって寺の外周を形作っていた。すると突然近くの車庫に停めてあった黒のミニバン、妻帯者が持っているような大きめの車がエンジンを始動させた。加工された真っ黒なフロントガラスによって、誰が中に乗っているのかまったく不明だった。男と車はその場に立ち尽くしたまま睨み合った。落ち着いたエンジンの作動音がその周縁を淀みなく流れていた。車が動き出すと男は土足で住居に戻った。
廊下を戻っているところに車が外を横切り、たちまち重厚な銃弾の乱舞が窓や壁に穴を穿ち始めた。男は身を低めてなるべく頑丈そうな柱に早急に待避し、車が停まってさらに激しくなった銃撃が台所の棚や机の脚を粉砕した。車のドアが開閉される音と何者かが走り去る足音が銃声の合間からかすかに聞こえてきた。男は冷静に周囲を見渡した。
「覚悟をおしっ!」と不意に二人の尼僧が玄関に現れてそれぞれ抱えたロケット砲を発射した。少しよろめきながら走り出した途端に先程まで男がいた柱が吹き飛ばされて続けて走った床が後ろで爆発した。それでもなお疾走する男に外から多量の銃弾が降り注いで掠めていった。
「女王よっ!」
「あの男を殺せば、わたしら賞金女王だよっ!」と威勢のいい声かけが尼僧たちの間で交わされた。男は庫裡から寺院の回廊に逃走した。ショットガンに持ち替えた尼僧の一人がその後をフルオートで撃ちながら追いかけて男も何度か振り返って射撃して応戦した。もう一人の尼僧は車に戻って運転手になったとみえて、客席の窓枠から重機関銃の長い銃口を覗かせた黒いミニバンが猛烈なバック走で男に迫っていた。
再び重機関銃が火を噴き、男の走った後ろの廊下と壁がズタズタに打ち壊されていった。回廊は森の手前で左に折れており、男は追い詰められ、切羽詰まって回廊を外れ、そのまま森に逃げるふりをして左に曲がって回廊の下の隙間に潜り込んだ。車も左に曲がり、銃撃が一旦止んで上の回廊で足音が立てられた瞬間、男は一気に上の回廊に引き金を引きショットガンの尼僧を仕留め返す刀で隙間から飛び出して車の客席の開いた窓から弾薬を叩き込んだ。操作を誤った車は森に突っ込んで傾斜部を豪快に転がり落ちていった。
弾倉を交換し、コッキングレバーを引いて煙草を吸って一服した。地面にショットガンの尼僧があお向けの大の字で転がっていた。男は車が転落した森の斜面を眺め、そのふもとにも墓所が広がっていることに気づいた。煙草をポケット灰皿に入れ、さっそく駆け下りていってふもとの墓所の敷地内に足を踏み入れた。転落した車はすっかりひっくり返って潰れて墓地の端の墓石を押し倒し、中で二人の尼僧が死んでいた。
しばらく行くと屋根のついた水汲み場で色鮮やかな法衣を着た住職が、左手のひしゃくで石畳に置いた桶に水を汲んでいた。右手には重みを湛えたアサルトライフルが握られていた。問答無用で発砲すると住職はすぐさま石の水槽に隠れた。
「やっと来たか! 待ちくたびれたぞ!」
住職の大声が雲を差した。鳥や虫の鳴き声が瞬間止み、一陣の風が颯爽通り抜けた。
「勝負!」
住職と男は石の水槽と墓石の物陰からそれぞれ鋭く火花走らす銃撃を仕掛け、桶や柱を割って屋根を崩しながら硬い石材を砕き始めた。住職は戦場馴れしたような巧みな動きで男の攻撃をかわしつつ的確な射撃を行い、男も負けじと持ち手を交互に替えながら連続掃射と早撃ちで勝負してタクティカルリロードを実践した。下がれば攻められ、上がれば蜂の巣、両者はその場を離れられずに留まって銃を撃ち続けた。
鳶が悠然と上空を旋回していった。
「ここがお前の墓場だ! 分かるか!」
突如として住職が叫び、男の予備の弾倉が底を突いた。男は最後の賭けに石の水槽のそばの水道管の根元を狙い撃ちし、ジェットエンジンのような水流が石畳と水槽を一挙に爆破して噴出した。巻き上げられた土くれと共に石の破片や崩れた屋根が周囲に飛び散った。男は撃ちながら走って住職に突っ込んでいった。そして滝の中から弾き出された住職渾身の連続射撃が男を貫いた。
意識が遠のいていく中、男の頭に去来したのは、妻子との懐かしい思い出と女主人の笑った顔だった。破裂した水道管の冷たい水飛沫が立ち上がる住職と倒れた男に降り続いた。住職はずぶ濡れでアサルトライフルを腰に構え、無表情で男に歩み寄った。
「成仏」
引き金を引いた。