六
――――日菜子は、深く、深く、眠りに落ちていた。
いつも眠りが浅く、ほんの少しの物音でも目を覚ましてしまう日菜子にとってそれはとても珍しいことで――
「ん………」
「ああ、起きた?」
――おまけに、自分を覗き込む神秘的な美貌。だからか、目を覚ましてしばらくしても日菜子は未だ夢の中にいるような心地だった。
「………?」
「はじめまして。僕は深琴」
その、きらきらと煌めく翠玉のような瞳に日菜子が見とれていると、浅葱色の着物を身に纏った彼が自己紹介を始める。
「歳は十五。君より一つ上だね。
天照の親戚で――――ああそうそう、天照はちょっと仕事で抜けてるけど、多分もうすぐ戻るんじゃないかな」
小さく首を傾げるようにして微笑むと、彼の後ろの障子越しに部屋を照らす光が、彼の亜麻色の髪を艶やかに魅せる。
天照の親戚。顔の造形はまだ幼いこともあってか天照よりも女性的だが、日菜子を見る目や雰囲気は、どこか天照に似通ったものを感じた。
どこまでもやさしくて、どこまでも甘い。こわいくらい、愛情に満ちた目。
「――それで、ここは僕らの家。車の中で君が寝てしまったのを天照がここまで運んできたんだよ」
自分が映りこんだ翠玉にぼうっとなっていた日菜子だが、そのことを聞いてハッと我に返る。
「そ、れは……ご迷惑をおかけしました」
そうだ、車の中でいつの間にか寝てしまって――なのに日菜子が今居るのは、広々とした和室のド真ん中に敷かれた布団の中。それはつまり誰かが日菜子をここまで運んでくれたということで、そしてその誰かは天照なわけで。
今まで自分の寝姿だとか体重だとかを気にしたことは無かったが、今回ばかりは気になって仕方がないのはどうしてだろう。
急にそわそわと落ち着きなくなった日菜子を、深琴は微笑ましいものを見るかのように優しく目元を緩めて見つめた。
「――やっぱり、『天照』は特別なんだね」
「………え?」
「ふふ、何でもないよ。それと、天照は迷惑だなんて全く思ってないから、気にしないで」
「あの……」
「起き上がれる?」
「あ、はい」
こくりと頷いて、日菜子はふかふかな布団の上に身を起こす。深琴は日菜子の乱れた髪を整えてくれながら言った。
「ろくな説明もしないまま連れてきてしまってゴメンね。今天照を連れてくるから――」
「もう来てる」
「ああ、天照」
スっと襖の開く音がして振り向くと、部屋の入り口に天照が立っていた。
スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイも緩めて少し寛いだ姿の彼は、日菜子と目が合い微笑む。
「日菜子、目が覚めたんだな。体の具合はどうだ?」
「あ…はい。その、ついうとうとしてしまっただけなので」
「そうか、良かった。本当はずっとついていてやりたかったんだが……急ぎの仕事があって、それだけでも片付けろと周りがうるさくてな」
畳の上を歩き、日菜子の傍らに片膝を付いた天照は、ごく自然な動作で顔を近付け、するりと日菜子の頬を撫でた。
深琴とはまた違う、男性的な色香というのか、そういうのが漂うような表情で見つめられ、日菜子の頬に熱が集まる。
「……天照、そういうのはきちんと色々説明してからにしなよ」
そのまま数秒、天照の瞳から目をそらせずに見つめ合っていると、日菜子の背中から深琴の呆れた風な声がかけられた。
日菜子に熱い視線を注いでいた天照も、ちらりと日菜子の肩越しに深琴へと視線を向け――
「ああ、そうだな。……だが、どこから話せばいいのか」
「普通に家のことからでいいんじゃない?
日菜子ちゃんは――あ、日菜子ちゃんって呼んでいいのかな」
「えと、はい」
密な雰囲気が少しほどけて、2人に挟まれるような形となった日菜子は深琴の方に顔を向けて了承の意を示す。
「そう、じゃあ、日菜子ちゃん。日菜子ちゃんは、幾多という家を知ってる?」
「いくた…?」
「幾何学の幾に、多い少ないの多いで、幾多」
説明を加えながら、深琴の繊細そうな指先がくるくると動いて宙に字を描く。幾多――その名字には、覚えがあった。とは言っても、日菜子の知り合いというわけではない。
「ええと……その、財閥ですよね。確か」
「うん、そんな感じ」
新聞やテレビなどでもよく取り上げられているし、仕事の関係で繋がりがあるらしい伯父家族の話題に上ることもあるその一族は、とにかくその規模の大きさと桁違いの財力で有名だ。しがない中学生でしかない日菜子は、とにかく凄い一族としてしか知らないが――
「それでね、ここがその幾多の本邸なんだよ」
「へえ、そうなんですか…………え?」
「ちなみに僕のフルネームは幾多深琴。で、天照は――」
目を丸くして固まる日菜子を置いて、深琴が天照にちらりと目配せをする。そして、天照が言葉を継いで――
「――幾多天照。一応、幾多家の当主だ」
「…………」
当主。その単語の重みに、今度は声も発せぬほどの驚きに日菜子は呑まれた。
次回辺りから話が妙な方向に飛び始めます。