五
「君は、これからどうしたい?」
彼は簡単なことだと言ったけれど、その問いは、到底そうとは思えなかった。
「どうしたいって……」
「このまま、家に帰る?」
「………、…」
日菜子は黙って首を横に振った。
そもそも、あそこは日菜子の帰るべき場所ではない。あの家にとって日菜子は異物だ。今まではそれでもなんとかやれてきたけれど、今回の件で自分は完全にあの家から吐き出されてしまった。もう、戻ることは許されない。
――でも、だったらどうするというのだろう。
自分はまだ中学生で、周囲の保護がなくては生きていけない年齢だ。伯父夫婦の他に日菜子の面倒を見てくれるような奇特な人間に心当たりもない。
「どうすれば、いいんでしょう……」
改めて自分の無力さと無価値を思い知り、途方に暮れる日菜子に「少し、違うかな」と、柔らかな声がかかる。
「私が聞きたいのは、『どうすれば』じゃなくて、『どうしたいか』だ」
「……違うんですか?」
「ああ。――例えば日菜子は、私と会ったことや話したことを無かったことにしたい?」
「したくない、です」
日菜子は即答していた。――この邂逅を無かったことになんて、出来るはずもない。今だって、彼の手を離せずにいるのに。
日菜子の答えを聞いた天照は、嬉しそうに笑った。
「そうだね。私も、そんなことはしたくない。むしろこのまま浚っていきたいくらいだ」
「…………」
天照の言葉に、笑みに、じわりと胸に広がる暖かさを、日菜子は否定することができなかった。
(ああ、そうか)
日菜子の中にある願望が、はっきりとした形をとりはじめる。
この人がどこの誰かなのかはまだ分からない。もしかしたら悪い人なのかもしれないとも思う。けれど――
「あなたと、一緒にいたいです」
――もし叶うのならば、この手を離したく無かった。
それが、日菜子の願い。
繋いだ天照の手を両手で包み込むようにして、日菜子は彼を見上げた。
そんな日菜子をしばし見つめた天照は、やがてふっと笑みを漏らして立ち上がった。そして、日菜子を振り返り言った。
「なら、行こうか」
日菜子は、黙って顎を引いた。
「寒くはない?」
「いいえ、大丈夫です」
コートを片手に、もう片方の手で日菜子の手を引く天照が聞いてきたので、日菜子は首を横に振って答えた。
手を引かれるまま歩いてしまっているけれど、一体どこに行くのだろう。足下の落ち葉達が奏でる、さくさくという音を聞きながら日菜子は考える。
というか、これからどうするのだろう。『一緒にいたい』とは言ったものの、このまま天照が日菜子を連れて行けば誘拐とかになるのではないか――そんな危惧が頭をよぎる。
すると、それを見透かしたように天照から声がかけられた。
「不安?」
「……そう、ですね」
ただそれは、これからどこに連れて行かれるかという不安ではなく、自分のせいでこの人が犯罪者になってしまうのではないかという不安だった。
だが、彼の蜜色の瞳はそこまで見透かしていたらしい。
「平気だよ。君の伯父上には、あとで私から連絡を入れる。彼とは仕事で何度か会ったことがあるから」
「仕事……」
「その話もあとでね。一先ず、私達の家へ行こう」
振り返った天照は、その美麗な顔立ちに悪戯めいた笑みを浮かべてから、視線を前へと戻す。日菜子もつられるように彼の視線を辿ると、公園を出てすぐのところに、一台の車が停まっていた。
車にさして詳しくない日菜子でも、一目で高級車であることが分かる黒塗りのそれ。
だが、日菜子の目を奪ったのは、普通の住宅街で存在するには少々異彩を放つ車ではなく、その前に立つ1人の男だった。
「あのひと……」
「刀千だよ」
「とうせん?」
「そう、千の刀と書いて刀千。私と同じく、ずっと君を待っていた一人だ」
――わたしを、待っていた?
日菜子は改めて刀千と言うらしい男を見た。
かなり大きな男だ。天照も上背があるほうだが、それよりもまだ高い。天照同様黒いスーツとコートを身に纏っており、直立不動の姿勢を取る彼は、立派な体格も相俟ってまるでボディーガードかなにかのようだ。近付くと、荒削りでありながらも基本は整っているのがよく分かる顔立ちは、やはりというべきか日菜子の記憶には無い。
日菜子は無意識の内に体の半分を天照の後ろに隠した。自分が彼――刀千を見つめていたように、相手の、その名をそのまま表したかのような日本刀を思わせる鋭い眼光が自分に注がれているのに気付いたからだ。
「刀千、日菜子が怖がっている」
「……申し訳ありません」
日菜子の行動に気付いた天照の注意に、刀千はそう言って頭を垂れた。
自分よりも年齢も身長も大分上だろう男性に謝られた日菜子は、慌てて声を上げた。
「あっ、ちが……怖いんじゃなくって、その……自分でもよく分からないんですけど…」
この胸をざわめかせるのが恐怖であったなら、多分今頃自分は声も発せずにいたに違いない。だから、彼が怖いとかそういうのでは無かった。
なら、何かといえば。
「その……恥ずかしくて」
「恥ずかしい?」
二人の男の視線が自分に集中しているのを感じて、更に羞恥が募るのを感じながら日菜子は頷いた。
多分、そうではないかと思う。刀千の瞳には、初対面の人間に向けるのには相応しくない程熱が籠もっているように感じた。
元々日菜子は注目されるのを好まないし慣れていない。なのに、天照といい彼といい、余りにも真っ直ぐに見つめてくるものだから……正直、戸惑う。
淡く色付いた頬からそんな日菜子の胸中を察したのか、天照は納得したように頷いた。そして、苦笑を浮かべる。
「それは困ったな。だが……まあ、慣れてもらうしかないか」
「天照さん?」
「――さ、車の中へ。いつまでもこんなところにいたら風邪を引いてしまう」
繋いだままの手を軽く引っ張られて、日菜子は促されるまま車に乗った。
知らない人について行ってはいけません。