四
余り愉快なお話ではないので、ご注意下さい。
――その人は、従姉妹の家庭教師として家に呼ばれた人だった。
真面目で人の好さそうな大学生。それが日菜子が彼に抱いていた印象だった。何回か従姉妹と一緒に勉強を見てもらったこともあるが、その印象が崩れたことは無かった。
――あの時、までは。
ある日、連絡の行き違いか美華が予定を忘れて出掛けてしまったのか、日菜子が1人で留守番している時に彼が来た。
その時は特に何も考えずに、日菜子はいつもそうしていたように、千華子を待つと言う彼を家に上げた。そして、
『あの、日菜子ちゃん』
『俺、日菜子ちゃんのこと好きなんだ』
――お茶を煎れようと台所に行こうとした日菜子の腕を掴んで、彼はそう言った。
日菜子は一瞬、何を言われたか分からなかった。その時まで日菜子は、彼を異性として意識したことは無かったし、向こうもそうだろうと当たり前のように思っていたのだ。
だから、日菜子は反射的に彼の想いを拒絶していた。今になって思えば、多分怖かったのもあったのだと思う。
女子校育ちであった日菜子にとって、突然『男』の部分を剥き出しにしてきた彼は恐怖の対象でしかなくて、その時はただ、掴まれた手をふりほどきたい思いで一杯だった。
それがいけなかったのかもしれない。あの時もっと相手のことを慮って言葉を選んでいれば、あんなことにはならなかったのかもしれない。
けれど、その時の日菜子にはそんな余裕は無くて――気付いた時には、日菜子はリビングの床に押し倒されていた。
「………っ…」
「日菜子」
膝の上できつく握りしめた日菜子の手を、大きな手のひらが上から包み込んだ。
泣き腫らしてすっかり重くなった瞼を持ち上げて、日菜子は天照を見上げた。
「……大丈夫?」
「…………大丈夫、です」
声も、少し掠れてしまっている。
けれど、ここで話を終わらせる訳にはいかなかった。何故なら、ここまでは物語で言うところの序章でしかなかったのだから。
――本当に辛いのは、このあと。
「…それから、体を触られはしましたけど、途中で伯母と従姉妹が帰ってきてそれは未遂に終わりました」
床に仰向けになって横たわる、はだけた服の日菜子と、日菜子に覆い被さる彼を最初に発見したのは、従姉妹の美華だった。リビングの入り口で呆然と立ち尽くした美華の表情は、今も日菜子の頭に焼き付いていて離れない。
――これは後になって発覚した話だが、美華は家庭教師のその人と付き合っていたらしい。
だがその時の日菜子はそんなことは露知らず、従姉妹に続きリビングに現れた伯母の姿に、安堵の気持ちで一杯だった。
助かったのだと、思った。
実際伯母と美華が現れて、彼は慌てて日菜子の上から退いた――――けれど、
「私が悪いって、言ったんです。その人」
重ねられた天照の手を握り返して、日菜子は苦いものがこみ上げるのを感じながらそう言った。
――決定的な場面を見られて、何もなかったことには出来ないというのは流石に理解していたのだろう。
滑稽なほどに狼狽したその人は、伯母に向かってべらべらと『言い訳』をまくし立てた。
『日菜子に誘われた』――彼がだらだらと述べた言い訳を要約すれば、そんなところだった。
日菜子が彼に色目を使い、誘惑していた――彼にとってはそうであったのかもしれない。…行為に及ぼうとした時も、彼はぶつぶつと似たようなことを呟いていたから。
勿論日菜子にはそんな覚えは一切無いし、そんな言い訳が通用するわけないと思っていた。実際伯母も信じていないようだったし、彼自身もその雰囲気を感じたからか、好き勝手言い訳を述べた後、彼は逃げるように家を飛び出していった。
でも、話はそこで終わりじゃなくて。
「伯父も、同じことを言いました。私が悪いって」
彼が居なくなったあと、伯母から連絡を受けて帰ってきた伯父は、事の経緯を聞くと『日菜子が悪い』と断じてきた。娘を傷つけられた怒りもあったのかもしれない。けど、多分――
「伯父は、私のことが――ううん、私のお母さんが嫌いなんです」
高岡の家は所謂上流階級に属する家で、それでなくとも父親の分からない子の存在など恥でしかないだろう。だから、母が日菜子を身ごもった当時も周りは当然産むことを猛反対したらしい。
その中でも一番反対したのは、当たり前だが母の家族――日菜子にとっての祖父母と伯父であり、中でも伯父とはかなり衝突していたことを親戚達の噂で知った。
けれど反対も空しく、母は日菜子を産み――そして日菜子を残して逝ってしまった。
施設に入れるのも外聞が悪いという理由で、産まれたばかりの赤子を押し付けられた伯父の胸中はどんなものだったのか、日菜子は知らない。でも、伯父が日菜子に向ける冷たい視線からそれを推し量ることは出来た。
伯父は、日菜子を通して日菜子の母、志津子を見ている。
父親が誰かも言えぬような事情のある子を、孕んだ女を。
「……知っていたのに」
伯父が日菜子を厭っていることも。日菜子の言うことなど信じないことも。知っていたはずなのに、『日菜子が悪い』と断じた伯父に、どうして自分は反論などしてしまったのだろう。
いつものように黙ってやり過ごしていれば、叩かれることもなかったろうに――俯き自嘲する日菜子の手を握る、天照の手に力が籠もる。
「けど、そのお陰で私は君に会うことができた」
甘い囁きと共に、吐息が耳朶を掠める。
体の左側に触れるぬくもりを感じながら、日菜子はそういう考え方もあるのかと思った。――確かにあの時叩かれなければ、日菜子が家を出ることは無かったかもしれない。そうしたら、この公園に来ることもなくて。
(あれ、でも――)
日菜子は、徐に天照を見上げた。そういえば、天照がどうして此処にいるのかとか、何故日菜子のことを知っているのかとか、教えて貰っていない。
「――今度は、私の番かな」
日菜子の目の奥にある疑問を感じ取ったのか、天照は愛おしげに目を細めて微笑んだ。そして、繋いだ手を持ち上げて――――
「………っ」
日菜子の指先に、天照が唇を押し当てた。どくり、と心臓どころか体中の血脈が波打つ感覚に、日菜子は戸惑い、頬を赤らめた。その間も蜜色の瞳は日菜子を見つめ続けていて、ちゅっと音を立てて唇が離れていってからもそれがそらされることは無かった。
「だがその前に、もう一つ問いたい」
まだ、あるのだろうか。
まだどきどきと揺れる鼓動を感じながら首を傾げた日菜子に、天照は同じ方向に首を傾げて「なに、簡単なことだよ」と微笑んだ。
「日菜子」
「はい」
「君は、これからどうしたい?」
手は、繋いだまま。
射抜くような強い視線を日菜子に向けて、天照はそう言った。