真夜中
マヤが部屋にたどり着いた。午前一時。バッグの中から鍵を取り出し扉にあてがう。入らない。また鍵を間違えてしまったのだ。「次からはちゃんとスマートに」 そう何度も何度も自分に誓ったはずなのに。
「不器用で進歩のない女。こんなの大嫌いよ」 その場にへたり込んでわめいてしまいたいのをこらえて、どうにか中へと駆け上がる。
靴ならたぶん脱いだはず。泣きそう。上着だって今は羽織ってないから、きっと廊下でスパニエルの子犬みたいにくしゃくしゃになってるに違いない。水に濡れた顔から雫がぽたぽたと落ちている。
鏡の前にマヤはいた。泣きそう、だって? 違うよ、泣いてたんだ。顔を洗ったのはごまかすため。鏡に映っている誰か知らない人、その人にばれてしまわないように。
吐いた。洗面台が黄色く染まる。酔ってないのに吐くなんて、ろくな物を食べてないんだ。水とかサプリメントばっかりだったから。ヘルシーとかビューティーとか、そんな名前のケミカルな色。排水口にこびりつく。合成された嘘っぱちの色が。
水だけでメイクはすっかり落ちた。いいえ、落ちたことにしておく。それ以外のうまい方法がまるで思い付かない。
『愛してる』
たったそれだけの単純な歌詞が、まるで歌えなかった。古めかしくて陳腐な、ただの歌謡曲。バンドはいつもにも増していい音をくれていた。客も多少酔ってはいたけど、騒いだり暴れたりもせずに、静かに聞き入ってくれていた。なのに歌えなかった。声だけが歌詞の上を上滑りに過ぎただけだった。
恋ならいくつか知ってる。愛は知らない。
テレビを点けた。午前1時半。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲む。それからサプリメント。吐いたあとじゃ食欲なんてちっともわかない。ボリボリ噛んで、最後に水で喉を洗い流す。
銃声がした。それは映画の中の出来事。中尉が撃たれた。彼の胸元に真っ赤な花が咲いていた。隊はリーダーを失った。そしてバラバラに壊れてしまった。
あの赤い花は、兄貴が集めていたのとよく似ている。父は母に、母は父に責任があるとお互い考えている。明るくて活発で、そして頭も良かった兄は、ある日突然自分の部屋に閉じこもったまま、一歩も外に出なくなってしまった。兄の部屋にはいつしか一匹の野良猫が住み着いて、その猫が花をせっせと集めては室内を飾り立ていった。そして家族はバラバラになった。
マヤは外に出た。午前二時。街灯の光を避けて歩く。ぴょんぴょんと。大股で。
夜は好きだ。人間が誰一人もいなくて静かだから。もし誰かがいたとしても、それは黒くぼんやりした何かがあるだけ。いないのと同じ。
なにより素敵なのはあの傲慢な、微笑とともに天の恵みとやらをやたらに売りつけてくる、すかした大きな火の玉が見えないことだ。あいつはどうしようもなく下劣で最低だ。その強烈な光線がつくるコントラストが、胸が悪くなるほどにひどい陰影をあちこちに刻むから。私の体の誰にも見せたくないような凹凸を、自分でも目をそむけておきたい真実を、たちまち暴き出してしまうから。
河原に降りた。マヤがお気に入りにしている川沿いの公園。月が空の頂あたりに浮かんでいる。頬を優しく撫でる白い光のなか歌ってみる。
彼女は私の盟友で、戦友で、ほんとうに心を許し合える数少ない存在だ。その柔らかい光線は必要な分だけを、過不足なく照らしている。彼女も私も残り半分を隠したまま。それでも通じ合える。歌と光、会話ならそれで充分。
真夜。それが私の名前。私は闇。私は暗黒。私は夜。深く深く渦になって堕ちていく黒。
歌を歌う。歌いたいから、ただ歌う。即興で、感じるままに。月は静かに聴いてくれている。
携帯が鳴った。午前三時少し前。
「よお、元気か? また歌ってんの?」 その彼の声ときたら、相変わらず気の抜けたようにだらしない。
「分かってるんだから邪魔しないで。だいたいどうして掛けてくんのよ? もう『終わった』の、先々週で」
大事な時間を邪魔されたことと、聞きたくもない彼の声とに、どうしようもなくいらつく。現実に無理やり引き戻されたことについても。
「だからその『終わった』についてだな、少しくらい話をしたっていいじゃないか」
「こっちにはないの。あなたは嘘をついた。それでもうおしまい。それで決着」
「いいから聞いてくれよ。俺は変わるんだ。もう前とは違う。この前新聞広告でさ、宇宙飛行士募集ってなってたんだ。俺はやるよ。だったら地球に待っててくれる女がいるとさ。な、判るだろ?」
優しくて、楽しくて、いい彼氏だった。少なくとも以前は。そしてそれは今まで付き合った男の全員に言えることだ。再び彼の声。
「お前の歌がまた聞きたいよ。なあ、録音しておいてくれないか? 宇宙じゃ真空があるから、音なんてまるで伝わらないんだ」
この二週間ときたら十年ぶりに訪れた男なしの期間だったから、正直な気持ちを告白するとしたら、それが誰であろうと、またどんな声だろうと、こんな会話が出来ることを嬉しく思えたのは確かに事実だ。
「あなたはまたそうやって嘘をつく。あなたは宇宙飛行士になんてならないし、空の向こうに真空なんてない。”変わる”とか言ってるけど、それはせいぜい”気が変わる”って程度のこと。私には分かる。もう、ほんとうに終わり。って言うかもう終わってる。………それじゃ」
通話を切った。空を見上げた。この先には目に見えない壁があるだなんて、そんなでたらめは絶対に信じない。
マヤがまた歌い始める。愛の歌を。この世には歌があって、震えて伝わる空気があって、そして聴いてくれる人がいる。ましてや真夜中なら、髪の先から足の指にまで隙間なく夜の充填された彼女なら、あの月に歌声を届けるなどたやすいことだ。たとえ朝が来るまでの短い間だとしても、それ以外に何があるというのか。
人称がふらついていますが、あえてそうしていますのでご了承ください。また、イメージ優先で細部についてはこだわらずに書きましたので、設定その他不明な点があっても、気にせずどうか流してやってください。
いくらか時間が経ったあと、ふとなんとなく思い出す、そんな話となっていれば幸いです。