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寝取られ令嬢オリヴィアの祝福 〜親友に何もかも奪われたけど、たったひとつ、譲らなかったもの〜

掲載日:2026/07/19

 一


 その夜、セシリアは世界が自分のものになったと思った。


 大広間のシャンデリアの下、腕に絡むのは、レオン・アシュフォード侯爵の腕。金の髪に、恐ろしいほど整った顔立ちの男。半年前まで、公爵令嬢オリヴィアのものだった。


 子供のころから、ずっとそうだった。お金なら、成り上がりの豪商であるセシリアの家のほうが、傾いた公爵家よりも、よほどあった。ドレスも、宝石も、望めばいくらでも手に入る。けれど、本当に欲しいものは——古い家柄も、生まれもった気品も、人が誰にともなく向ける敬意も——みな、オリヴィアのものだった。どれだけ手を伸ばしても、セシリアには、届かなかった。けれど、今夜だけは、違った。


 セシリアは、わざと人垣の中心で、声を張った。


「ねえ、みなさん、聞いてくださる? わたし、来月、アシュフォード侯爵夫人になりますのよ」


 どよめきと、拍手。そのざわめきの端で、オリヴィアが、壁際にたった一人、立っていた。つい先ごろまで、この広間の女王だった女。いまは、誰もその隣に寄ろうとしない。——セシリアが、そう仕向けたのだ。「オリヴィアさまは殿方に飽きられたそうよ」。ありもしない噂を、蜜のように、社交界へ一滴ずつ、垂らして。


 セシリアは、まっすぐ、その前へ歩いていった。どうしても、見たかった。奪われた女の、歪んだ顔が。


「オリヴィアさま」わざと、憐れむ声を作る。「そんなに気を落とさないで。レオン様は、わたしが幸せにするから。……あなたに、できなかったぶんも、ね」


 周りで、くすくすと笑いが漏れる。ざまあないわ、と誰かが囁いた。その一言が、セシリアの胸を、じん、と満たした。


 だが。


 オリヴィアは、泣かなかった。睨みもしなかった。ただ、静かにセシリアを見て、そして——ほんの少しだけ、微笑んだのだ。


「ええ。……どうか、お幸せに」


 その声には、悔しさの欠片も、なかった。


 セシリアの背を、わけもなく、冷たいものが撫でた。この女はいつもそうだ。何もかも奪われても、涼しい顔で、こちらを見ている。——けれど、それも一瞬。レオンに腕を引かれれば、その影は、シャンデリアの光に溶けて消えた。


 テラスへ出ると、屋敷の高い塔が、月を背に聳えていた。


「あの塔からは、王都が一望できる」レオンが耳元で囁く。「侯爵夫人になれば、毎朝あそこから、朝陽を君のものにできる」


 セシリアは、うっとりと目を閉じた。世界は、たしかに、この手のなかにある。


 数日後、オリヴィアから、祝いの品が届いた。白百合を一輪、添えて。カードには、こうあった。


 ——《どうか末永くお幸せに。あなたが心から欲しがったものが、すべて手に入りますように》


「まだ強がっているのね」。セシリアは鼻で笑い、カードを、暖炉にくべた。



  *



 同じ夜。ヴェルンハート公爵家の、灯りを落とした一室で、オリヴィアもまた、暖炉の火を、じっと見つめていた。


 あの子のもとへ、白百合を届けさせた。カードには、心からの言葉を、綴った。


 ——どうか、生きて。


 けれど、その一行だけは、書けなかった。声にすることも、できなかった。それを願ってしまえば、きっと、もう、耐えられなくなるから。


 炎のなかで、オリヴィアは、そっと目を閉じた。祈りとも、詫びとも、名前のつかない、何かのために。



 二


 婚礼から、季節がひとつ巡った。


 欲しかったものは、すべて手に入ったはずだった。着ききれないドレス。宝石。「侯爵夫人」と呼ばれるたび、背筋が甘く痺れた。——はじめの、ひと月だけは。


 レオンは、じきに笑わなくなった。夜、触れてくることも、なくなった。話しかけても、返るのは、書類から目も上げない、短い相槌だけ。


 ある夜、こらえきれず、セシリアは彼の書斎の扉を叩いた。


「ねえ、レオン。わたしのこと、もう……嫌いになったの?」


 ペンの音が、止まった。だが、彼は顔を上げない。


「なぜ、そう思う」


「だって、目も合わせてくれないじゃない! 婚約のころは、あんなに優しかったのに……」声が、震えた。「ねえ、正直に言って。あなた、まだ——まだ、オリヴィアのことを、想っているんでしょう」


 言ってしまってから、涙が頬を伝った。何か月も、飲み込んでは喉の奥で腐らせてきた言葉だった。奪ったはずの男の心は、ほんとうは、あの女に置き去りにされたまま。そうとしか、思えなかったのだ。


 レオンは、しばらく黙っていた。それから、ようやく顔を上げ——笑った。ひどく、つまらなそうに。


「オリヴィア? ……ああ、そんな名の女も、いたな」


 それだけ言うと、彼はまた、書類に目を落とした。話は終わりだ、というように。


 セシリアは、扉の前に、立ち尽くした。安堵すべきなのか、もっと恐ろしいことを聞いたのか、わからなかった。彼の目には、憎しみすら、なかった。ただ、そこに"ある"だけ、というような目で、こちらを見ていた。


 それでも——逃げよう、とは思わなかった。実家へ帰る? あのみじめなオリヴィアのように、笑い者になって? できるはずがない。勝ち取った席を手放すくらいなら、この寒さくらい、我慢してみせる。もう少し。もう少し我慢すれば、きっと、あの人も、元に戻る。


 だから、セシリアは、見ないことにした。夫が、自分を妻ではなく、何かを勘定でもするような目で眺めることも。屋敷の奥の廊下が、なぜか、いつも暗く沈んでいることも。


 その夜、なぜか、オリヴィアのあの微笑みが、闇のなかで蘇った。悔しさも、憎しみもない、あの静かな目。


 なぜ、あの人は、あんな顔で笑えたのだろう。考えると、指先が、冷たくなった。



 三


 その夜、レオンは、久しぶりに優しかった。


「いい月だ。塔へ登ろう。君に、あの眺めを見せたかった」


 差し出された手を、セシリアは、取ってしまった。夫の温もりに、飢えていたから。ずっと、ずっと、飢えていたから。


 螺旋階段を、二人でのぼる。露台に出ると、風が強かった。眼下に、王都の灯が、みっしりと沈んでいた。手を伸ばせば掬えそうで、けれど、そのどれ一つ、ほんとうは、彼女のものではなかった。


「セシリア」


 背後で、レオンが言った。その声に、もう、熱の一片も残っていなかった。


「すまないね」と、彼は続けた。怒りも、昂ぶりもない。ただ、ひどく疲れた声だった。「君を娶ったのは、金のためだ。それ以上の理由は、もう、私にも分からないんだ」


 その瞬間、セシリアは、すべてを、悟った。


「……いや」振り返り、後ずさる。背が、露台の縁に触れた。「いや、待って、お願い——お金なら、父の金庫を、ぜんぶ開けさせる。あなたの借金だって、残らず。だから、ねえ、後生だから——」


「もう、じゅうぶん、貰ったよ」


 夫の手が、伸びてくる。優しく。まるで、抱き寄せるように。その手つきに、迷いはなかった。長く、そうやって生きてきた男の、慣れだけが、そこにあった。


 最後に、なぜか、あの女の顔が浮かんだ。壁際で、ただ静かに微笑んでいた、オリヴィアの、あの目。


 勝ちたくて、勝ちたくて、たまらなかった。なのに、この男は、あの女さえ、愛していなかった。——じゃあ、わたしが命がけで奪ったものは、いったい、なんだったの。


 その答えに、指先が、ようやく届きかけて。


 ——わたしは、勝ったはずだった。何もかも、手に入れた、はずだったのに。


 問いも、悲鳴も、風にちぎれた。彼女の体は、王都の闇へ、まっさかさまに、落ちていった。



 四


 訃報は、翌朝、王都を駆けめぐった。アシュフォード侯爵夫人、塔より落命。事故として。


 ヴェルンハート公爵家の一室で、オリヴィアは、窓辺に座っていた。


 膝の上に、あのカードの控えが、一枚。セシリアが火にくべて、燃やしたはずの、あの言葉の写しだった。


 背後で、老いた侍女が——マリーに仕え、あの遺書を届けてくれた女が——そっと膝をついた。


「お嬢さま。……終わりました。侯爵は、じき、縄に。……最後の最後まで、悔いてなど、いなかったそうにございます。『次の花嫁を、選びそこねた』と、ただ、それだけを、口惜しそうに」


 オリヴィアは、答えなかった。ただ、窓の外の、白百合を、見ていた。


「もう、よろしいのです。もう」


 その一言で、何かが、切れた。


 喉の奥が、勝手に、鳴った。二年間、涙の流し方さえ、忘れていたのに。


「ねえ、」声が、掠れた。「あの子が塔から落ちたって聞いて……わたし、なんて思ったと思う? 可哀想、じゃないの。——よかった、って。あそこで落ちたのが、あの子で、よかった、って。……本当なら、あの塔から落ちるのは、わたしだったのに」


 侍女は、何も言わず、主の背に、皺だらけの手を添えた。


「知っていたのよ。あの家が、花嫁に、何をするか」声が、低く、ひび割れた。「持参金だけ吸い上げて、いらなくなった妻を、塔から落とす。何年もかけて、一人ずつ、べつべつの"事故"にして。……持参金は、婚礼の日から、法であの家のもの。盗みですら、ないの。誰かが騒いでも、証拠はない。役人はみんな、あの家に借金で飼われてる。——泣き寝入りするしか、なかったのよ」


 膝の上のカードを、握りつぶす。


「でも、わたしだけは、知っていた。この紙のおかげで。次に消されるのが、自分だってことも。だから、逃げるには、あの人のほうから、捨てられるしか、なかった」


「あの子は、昔から、わたしのものを、なんでも欲しがった。……だから、黙っていたの。黙って、微笑んでいれば、あの子は、勝手に、あの人のところへ行くって、知っていたから。ひと言、『逃げて』と言えば、助かったかもしれないのに。——言えなかった。言えば、次に落ちるのは、わたしだった。……あの子を見殺しにしたのは、わたしよ。この手で、突いたのと、同じ」


 涙のなかで、オリヴィアは、笑った。醜く、歪んで。


「今朝、その紙を、王宮へ届けたの。……あれだけの豪商の娘が死んで、あの子の家は、黙っていなかった。マリーの書きのこし。侍女の証言。そこへ、あの子の実家の怒りが加わって——ようやく、あの家の権勢に、罅が入ったのよ。あの男は、じき、あの塔と同じ高さの、縄に。……ねえ、レオンより、わたしのほうが、ずっと」


 あとの言葉は、嗚咽に、呑まれた。


「——生きて、くださいました」老侍女の声も、濡れていた。皺だらけの腕が、主を、そっと抱きしめる。「マリーお嬢さまの願いは、それだけでございました。次に嫁ぐ人だけは、どうか、生きて、と。……よう、生き延びてくださいました」


 オリヴィアは、声を殺すことも、忘れて、泣いた。


 やがて、涙が涸れると、彼女は、握りしめていたカードの控えを、暖炉の火に、そっとくべた。


 《あなたが心から欲しがったものが、すべて手に入りますように》。


 セシリアは、望みどおり、何もかも手に入れた。侯爵の腕も、羨まれる座も、あの塔ごと。ひとつ残らず。白百合を描いた紙が、縁から縮れて、灰になっていく。


 マリーの遺書は、もう、彼女の手にはない。会ったこともないあの人の、たった一つの意地が、これから、あの美しい家を、焼き払っていく。


「……ごめんなさいね、セシリア」


 あのカードに綴った一行を、オリヴィアは、いまも覚えている。白百合を選び、ペンをとって、本気で書いた、たった一文。


 ——あなたが欲しかったものが、どうか、ぜんぶ、あなたのものになりますように。


 当てつけだと、あの子は笑って、火にくべた。呪いだと、思ったのだろう。


 ちがう。あれは、祝福だった。生きて、幸せにおなり。——たった一人の友へ贈った、本気の、祈りだった。


 どこにも、届かなかった、祈りだった。


 その声に、嘘は、なかった。憐れんでいたのだ。ずっと。あの、静かな目で。


 寝取られ、追放され、完敗したと嗤われた女。その手にだけ、命が、残っていた。


 窓の外で、白百合が、咲いていた。生きている者だけが、来年も、それを見られる。


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