第23話 彼は特別な人間なんだろう。 だからかな、不快じゃなかった。
女子トイレが目前と言う時に、
「伊藤さん?」と声を掛けられた。
しかも男の声。
ビクッとした。
なんでこのタイミング? って怒りもわいたし私を名指しって。
怖っ。
恐る恐る振り返ると、同じクラスの三崎君だった。
クラスでイケメンと騒がれている男子だ。
同じ体育の時間で、髪はよれてるし汗をかいてたが顔立ちやスタイルがいいせいかそんな姿も様になっていた。
他の女だったら彼に話しかけられてときめくんだろうけど、私は身構えてしまう。
だから返事をしなかった。そもそもまともに喋ったことないし。
私が動けずにいると、彼が近づいてきた。
しかも、なぜか自分の腰に巻き付けていたジャージを外しだすし。
なんなの怖い怖い。
叫びだしたくなる。
恐怖や混乱で立ちすくんでいると――。
「これ汗臭いかもだけど、よかったら使って」
彼の柔らかな声が言った。
自分のジャージを私に押しつけてくる。
なんのことだろう。
この人は突然なにを言い出すんだとあたふたしていると、
「動かないでね」
諭すように言われ、そもそも体がこわばって動けないし言うとおりにじっとしていると、彼が優しく包みこむようにして私の腰にジャージを巻き付けたんだ。
え、え。
なに?
なんで。
意味分かんないんだけど!?
鼓動が高鳴る。
背の高い彼が私を見下ろす視線や息づかいを間近に感じる。
前でジャージの袖をぎゅっと縛ると、彼はすぐに私から離れた。
「な、なに?」
私が精一杯ひり出せた声はこれだけだった。
彼は周囲をかるく見渡し、私達しかいないと確認してから言った。
「男がこういうことに触れるのはよくないとは思ったんだけど――――後ろから血が出てたから、そのままだと教室に入りづらいかと思って。余計なお世話だったよね。ごめん」
うそ……。
生理の血が漏れてたっていうの?
最悪じゃん。
恥ずかしくて体中が沸騰した。
こんな醜態を見られたとか死にたい!
でも――――この人は私がそれ以上恥をかかないようにしてくれたんだ……。
感謝を伝えないと。
「あ、あの……ありが――――」
ドギマギしながら口をぱくぱくしていると、彼の背後から、
「三崎!! 行くぞー!」と他の男子がぞろぞろと廊下に現れる。
「今行く!」と彼は返事をし、それから私に向き合うと、
「じゃ、行くね。ジャージはあとで俺の机に置いといてくれたらいいから」と私の目を見ながら言うと春の嵐のように颯爽と立ち去っていった。
彼の視線が消えた後もまだ彼に見つめられてるような緊張感が離れてくれず、私は廊下に一人とりのこされたあとも、しばらく放心していた。
ドキドキが一通りおさまると我に返り、トイレ行かなきゃ! と急いでトイレに駆け込んだ。
彼の言ったことは本当だった。
ナプキンは血と汗でパンパンで、生理のパンツから溢れジャージのズボンに染み出ていた。
マラソン中は平気でも、授業終わりに体育座りをさせられた時にナプキンが押し潰され溢れてしまったんだろうな。
体育教師が恨めしい。
短い休み時間に着替えをさせるという時間割を決めたやつはバカなんじゃないか。
にしても――――。
クラスメイトとはいえまともに会話もしたことない女にこんなことする彼は凄い。
他人の血なんて触りたくないはずなのに。
他の男子なら冷やかしの的になってたと思う。
彼は特別な人間なんだろう。
だからかな、不快じゃなかった。
それどころか、なんだろうこの感じ。
体がふわふわするような足先が浮つくような感覚がしばらく続いた。
***
学校から帰ると、いつも自分の部屋に直行して極力親と顔を合わせないようにしてるけれど、今日だけはお母さんのいるリビングに足を踏み入れた。
お母さんはリビングのソファに座り、なにをするでもなくぼーっとテレビを見ていた。
入ってきた私を見て、あら珍しいと顔を向けてきた。
私はカバンから彼のジャージを取り出し、
「これ、クリーニング出しといて。絶対明日」と無愛想に頼んだ。
あの日から親に笑顔を向けてやるものかとなかば意固地になっている。
笑顔を見せた瞬間、もう乗り越えたのねって扱いにされそうだから。
風化させてやるものか。
ジャージを受け取ったお母さんが、
「ジャージなら洗濯で十分じゃないの」と反論してきた。
それがただの質問なのはわかる。
だけど、なにをするにしてもこの人の言動に苛ついてしまって、こんな些細なことが『頼んでるのに否定しやがって』って感情になってしまう。
なんで親切に説明しなきゃいけないの。
わかれよ。
「絶対クリーニングじゃなきゃダメだから」
「どうしてなの――――これ三崎って刺繍してあるじゃない。違う人のジャージ持って帰ってきちゃったの?」
「間違えたわけじゃない。クリーニングだしといて」
「そんなふて腐れた態度して、説明してくれなきゃわからないじゃない」
は?
何様。
そっちこそ、そんな態度とる資格ないだろが。
「お母さんには関係ないでしょ!! いちいち詮索しないでくれる? ――――あ、それともなに、娘のこと根掘り葉掘り聞き出してまたネットにあげるの?」
そんなことしないとはわかってるけど、嫌みで言ってやった。
お母さんの顔はみるみるしわくちゃになっていき、弱々しい声を出す。
「…………まだその話をするの? お母さん謝ったじゃないの……。いつまで言うのよそれ……」
かーっと頭に熱が帯びてきた。
それがムカつくんだよ。
許すかどうかは私が決めることじゃん。
もう終わったことにしやがって。
全然終わってない。
私は毎日男の目線に苦しんでいるのに。
私の抱えてるこの辛さをないがしろにしないで!
お母さんも最初はすごく反省してくれていた。
でも今は逆ギレしてくる。
私がお母さんを苦しめてるみたいな扱いだ。
お父さんもお母さんの味方で「いい加減許してあげなさい。前を向きなさい」と諭すように言ってくる。
会話が通じないんだ。
だから私はこの家に居場所がない。
「返さなきゃいけないんだから、すぐやってよ!」
私はつっけんどんに言い、リビングを出ていく。
この重苦しい空気に耐えきれない。この家の災いの発生源を私にされている。




