「転生したら令嬢だったのでとりあえずなり切ってみます」
目が覚めると、そこは見知らぬ天蓋付きのベッドの中だった。
視界に入る装飾の数々は、私が住んでいた六畳一間のアパートとはあまりにもかけ離れている。天井には精巧な彫刻が施され、壁には金糸で刺繍されたタペストリーが掛けられている。朝日が差し込む窓には、繊細なレースのカーテンが揺れていた。
「……は?」
思わず声が出た。それも、聞き覚えのない高い声で。慌てて喉に手を当てる。細く華奢な首。私の手は——いや、この手は私の手なのか?——驚くほど白く、指は長く繊細だった。爪には薄く桜色の艶があり、まるで高級なネイルサロンで手入れされたかのようだ。
ベッドから飛び起きて、部屋の隅にある姿見に駆け寄る。そこに映っていたのは、金色の巻き毛を持つ少女だった。碧眼、整った顔立ち、絹のようなナイトドレスに包まれた華奢な身体。どこからどう見ても、西洋の貴族令嬢そのものである。
「嘘でしょ……」
記憶を辿る。私——佐藤美咲、二十五歳、IT企業勤務——は確か、残業続きで疲れ果てて帰宅した後、ベッドに倒れ込むように眠ったはずだ。それが、なぜこんなことに。
そう、これは間違いなく「転生」だ。最近読んでいたなろう小説のような展開。まさか自分の身に起こるとは思ってもみなかった。しかも、よく考えてみれば、この部屋の雰囲気、この容姿、この状況——全てに既視感がある。
「まさか……『悪役令嬢エリアナの転落』の世界?」
それは私が通勤電車の中で読んでいた乙女ゲーム原作の小説だった。主人公の平民少女が王立学園に入学し、五人の攻略対象を巡って恋愛を繰り広げる物語。そして、主人公の恋路を邪魔する悪役令嬢エリアナ・ヴァンハルト。金髪碧眼、高飛車な性格、最終的には婚約破棄されて国外追放されるという、典型的な悪役令嬢だ。
鏡の中の少女の顔をもう一度確認する。間違いない。この顔は、挿絵で見たエリアナそのものだった。
「うわぁ……最悪の人物に転生しちゃった……」
エリアナは作中で散々な扱いを受ける。婚約者である第一王子アレクシスに冷たくされ、学園では主人公に嫌がらせをして周囲から非難され、最後は全てを失う。しかも、物語開始時点で既に十五歳。学園入学は十六歳だから、あと一年しか猶予がない。
ドアがノックされ、メイドが入ってきた。
「エリアナ様、お目覚めですか。朝食の準備が整っております」
メイドの態度は丁寧だが、どこか畏まりすぎている。恐怖すら感じさせる距離感だ。ああ、そうか。原作のエリアナは使用人に対しても高圧的で、些細なミスも許さない性格だったんだっけ。
「あ、ありがとう。すぐに行くわ」
できるだけ柔らかく答えたつもりだったが、メイドは目を丸くした。そして、すぐに表情を戻して一礼し、部屋を出ていく。彼女の背中には明らかな困惑が見て取れた。
朝食の席には、父と母——ヴァンハルト公爵夫妻——がいた。公爵は厳格そうな初老の男性で、夫人は美しいが冷たい印象の女性だ。二人とも、私が席に着くと少し驚いたような表情を見せた。
「エリアナ、今日は随分と穏やかな顔をしているな」
父がそう言った。穏やかな顔、という時点で、普段のエリアナがどれだけ不機嫌そうにしていたかが窺える。
「ええ、よく眠れましたので」
できるだけ令嬢らしく、上品に答える。母が僅かに眉を上げた。
「そう。それは良かったわ。今日は令嬢たちとのお茶会があるはずよ。忘れていないわね?」
「ええ、もちろん」
内心では完全に忘れていた、というか知らなかった。お茶会。原作でもエリアナは頻繁に貴族令嬢たちの集まりに参加していた。
そして、そこで主人公の悪口を言いふらし、取り巻きたちを扇動していたのだ。
朝食を終え、部屋に戻ると、メイドたちが私の着替えを準備してくれた。コルセットで締め上げられ、何層ものペチコートを重ね、最後に淡いピンク色のドレスを着せられる。この時代——中世ヨーロッパ風の異世界——の貴族令嬢の衣装は、想像以上に重く動きにくい。
鏡の前に立つと、そこには絵画から抜け出したような令嬢がいた。金色の髪は丁寧に編み上げられ、真珠の髪飾りが施されている。首元には祖母から受け継いだという宝石のネックレス。これは、完全に令嬢だ。
「とりあえず……令嬢のふりをするしかないか」
お茶会は侯爵家の邸宅で開かれた。広大な庭園を望むテラスに、白いテーブルクロスが掛けられたテーブルが並ぶ。既に何人かの令嬢たちが到着していて、私を見ると一斉に表情を引き締めた。
「エリアナ様、お久しぶりですわ」
一人の令嬢が挨拶をしてくる。彼女の名前は——記憶を探る——確か、マリアンヌだったはず。原作では、エリアナの取り巻きの一人だ。
「マリアンヌ、お元気そうね」
できるだけ自然に笑顔を作る。マリアンヌは一瞬、戸惑ったような表情を見せた。
「え、ええ……エリアナ様も」
他の令嬢たちも、私の様子を不思議そうに見ている。きっと、いつもとは違う雰囲気を感じ取っているのだろう。原作のエリアナは、こういう場では常に上から目線で、他の令嬢たちを見下すような態度を取っていた。
お茶会が始まると、話題は社交界の噂話に移った。誰と誰が婚約したとか、どこの家の息子が素敵だとか。私は適度に相槌を打ちながら、彼女たちの会話を観察した。
「そういえば、来年の学園入学者の中に、平民出身の特待生がいるそうですわ」
一人の令嬢がそう言った。瞬間、場の空気が変わる。これだ。主人公の話題だ。原作では、この話題が出た時、エリアナが「平民が王立学園になど」と吐き捨てるように言い、周囲の令嬢たちも同調していた。
全員の視線が私に集まる。彼女たちは、私がどう反応するかを待っているのだ。
「まあ、それは素晴らしいことですわね」
「え?」
マリアンヌが驚きの声を上げる。他の令嬢たちも、目を見開いている。
「才能があれば、出自に関わらず教育を受けるべきだと思いますわ。それが国の発展にも繋がりますもの」
自分でも、随分と優等生的な発言をしているな、と思う。でも、これで良いのだ。悪役令嬢エリアナとしての運命を回避するには、原作とは違う行動を取るしかない。
令嬢たちは、しばらく呆然としていたが、やがて一人が「確かに、そうかもしれませんわね」と頷いた。他の令嬢たちも、次々と同調する。
お茶会が終わり、馬車で帰路につく。窓の外を流れる街並みを眺めながら、私は考えた。
悪役令嬢としての運命を回避する方法は、主に三つある。一つ目は、婚約破棄を自分から申し出ること。二つ目は、主人公に嫌がらせをしないこと。三つ目は、周囲の人々との関係を改善すること。
まず、婚約者である第一王子アレクシス。原作では、彼は主人公に一目惚れし、エリアナを邪魔者扱いするようになる。でも、それは主人公が学園に入学してからの話だ。今なら、まだ関係を修復できるかもしれない。
翌日、王宮への招待が届いた。月に一度の婚約者との面会だという。原作では、この面会でエリアナが高圧的な態度を取り、アレクシスを辟易させるシーンがある。
王宮の謁見室に通されると、そこに彼がいた。金髪、青い瞳、整った顔立ち。絵に描いたような王子様だ。でも、彼の表情は硬く、私を見る目には明らかな警戒心が宿っている。
「エリアナ」
「アレクシス様」
私は丁寧に一礼する。彼は少し驚いたような表情を見せた。
「今日は、お時間を作ってくださりありがとうございます」
「……ああ」
会話が途切れる。気まずい沈黙。原作では、ここでエリアナが「私に相応しい贈り物を用意しなさい」とか「もっと私に会いに来るべきよ」とか言って、アレクシスを困らせていた。
「あの、アレクシス様」
私は意を決して口を開いた。
「私、これまで貴方に対して失礼な態度を取ってきたと思います。申し訳ございませんでした」
アレクシスの目が見開かれる。彼は、まるで別人を見るような顔で私を見つめた。
「エリアナ……お前、何かあったのか?」
「いえ、ただ……少し、自分を見つめ直す機会がありまして」
嘘ではない。転生という、人生最大の見つめ直しの機会だ。
「そうか……」
アレクシスは、まだ戸惑っているようだったが、少しだけ表情が柔らかくなった。
「なら、良いが……」
その日の面会は、いつもより長く続いた。私たちは、政治のこと、文化のこと、学園のことなど、様々な話題について語り合った。アレクシスは頭の良い人物で、話していて楽しかった。原作では、こんな一面があることすら描かれていなかった。
帰りの馬車の中で、私は一つの結論に達した。
悪役令嬢エリアナとしての運命を回避するだけでなく、この人生を自分らしく生きよう。令嬢として振る舞いながらも、前世の知識と経験を活かして、この世界をより良くしていこう。
それから数ヶ月が経った。私は、できる限り原作のエリアナとは違う行動を取り続けた。使用人たちには優しく接し、貴族令嬢たちとは対等な関係を築き、アレクシスとは真摯に向き合った。
そして、気づけば周囲の人々の私を見る目が変わっていた。使用人たちは心から笑顔を見せてくれるようになり、令嬢たちは本音で話してくれるようになり、アレクシスは——まだ恋愛感情とまではいかないが——私を一人の人間として尊重してくれるようになった。
ある日、父が私を書斎に呼んだ。
「エリアナ、最近のお前の変化は目覚ましいな」
「ありがとうございます、父上」
「アレクシス殿下からも、お前を褒める言葉を頂戴した。誇らしく思うぞ」
父の言葉に、胸が熱くなる。原作では、父とエリアナの関係は希薄だった。でも、今は違う。
学園入学まで、あと半年。主人公が現れるまで、あと半年。
でも、もう私は恐れていない。たとえ主人公が現れても、悪役令嬢として対立する必要はない。むしろ、彼女の才能を認め、友人になれれば良い。
鏡の前に立つ。そこには、金髪碧眼の令嬢がいる。でも、もう彼女は原作のエリアナではない。前世の佐藤美咲でもない。新しい人生を歩む、新しいエリアナだ。
「とりあえず令嬢のふりを、か……」
「もう、ふりじゃなくなってきたかもね」
窓の外には、夕焼けに染まる街並みが広がっている。
この世界で、この人生で、私はどこまで行けるだろう。悪役令嬢の運命を覆し、新しい物語を紡いでいく。
その決意を胸に、私は明日への一歩を踏み出した。




