黒いロケット砲 MLB選手 ジョージ・フォスター
レッズの全盛時にはフジテレビで「大リーグ実況中継」(昭和五十三~五十六年)という番組があり、日本の野球ファンもメジャーのプレーを目にする機会が増えた。そんな中で知名度を高めたのがレッズのリードオフマン、ピート・ローズで、日本のCMに出演するまでになった。しかし、ローズは派手なパフォーマンスで魅せる打者であり、寡黙なフォスターの凄みの方が印象深い。
一九七八年十月に日米野球で来日したシンシナチ・レッズの印象は強烈だった。
一九七〇年代に『ビッグ・レッドマシン』の異名を取ったレッズは、一九七五、一九七六年とワールドシリーズ二連覇を果たした後も、二年連続リーグ二位と全盛期の余韻を残しての来日だったため、王や張本を擁する日本チームも歯が立たず二勝十四敗一分と惨敗を喫した。
来日前から有名だったのは「安打製造機」ピート・ローズ、のちの三百勝投手、トム・シーバー、メジャー最高の捕手、ジョニー・ベンチあたりだったが、ひと際印象深かったのが二年連続本塁打・打点の二冠王を獲得した『黒いロケット砲』ことジョージ・フォスターだった。
スター集団だけに、クールなフォスターはローズやベンチの陰に隠れて来日当初はあまり目立たなかったが、第一戦で巨人の新浦から名詞代わりの来日チーム第一号を放つや、レッズの四番打者として一躍注目を浴びる存在となった。
愛用の長尺の黒バットを身体に巻きつけるようなスイングから放たれる打球のスピードは、王や張本の比ではなく、第一戦に放った看板直撃の弾丸ライナーはメジャー十人目の五〇本塁打男の貫禄十分だったが、それ以上に目を奪われたのが彼の風貌だった。なんと当時売り出し中のアクション俳優、松田優作にそっくりだったのだ。
厳密に言えば、黒人と黄色人種では全く肌の色が違うため「そっくり」などというのは大袈裟かもしれない。しかし、浅黒い肌、長身で筋肉質な優作はやや日本人離れした風貌であり、そのワイルドな雰囲気も含めてテレビ中継でフォスターのアップが目に入ったとたんに、頭をよぎったのが松田優作だった。
年齢的には一歳違いで、身長もほぼ同じ(一八五センチ)。痩身で腰高の体型といい、もみ上げを伸ばしたコワモテの顔立ちといい、まるで互いが意識し合っているかのように見えたものだ。
フォスターのプロ入りは一九六八年、エルカミーノ大学を中退してドラフト三順目でサンフランシスコ・ジャイアンツと契約した。
二十代前半の頃はまだ線が細く、後年の長距離打者の面影はない。どちらかというと中距離のクラッチヒッタータイプでメジャーとマイナーを行き来していたプロ三年目までは、本塁打は少ないものの打率は三割を超えていた。
レギュラーポジションを獲得したのは、シーズン途中にレッズにトレードされた一九七一年のことだが、フルシーズンを戦うには体力不足だったのか、年度のトータル成績は二割四分一厘、十三本塁打、五十八打点と平凡な成績に終わり、翌一九七二年には控えに戻り、一九七三年途中からマイナー行きを命じられた。
ようやく選手として芽が出たのはプロ入り八年目、一九七五年のことである。
これまでは中堅か右翼を守ることが多かったが、スパーキー・アンダーソン監督が俊足・強肩のシーザー・ジエロニモを中堅に固定し、ケン・グリフィー・シニアを右翼のレギュラーに抜擢。左翼に回されたフォスターは得意でない守備の負担から解放され、ようやく打撃人として開花した(年度成績は三割〇分〇厘、二十三本塁打、七十八打点)。
この年のレッズはフォスター、グリフィー、ローズ、モーガンの四人が三割をマークする強力打撃陣を形成し、ワールドシリーズを制覇した。
一九七六年のレッズは歴代最強チームの声も高いほどの横綱相撲で、ポストシリーズからワールドシリーズまで全く土つかずのままワールドシリーズV2を果たしている。ポストシーズン八戦全勝はメジャー史上初であり、このシーズンのレッズだけが持つ記録である。
同年、初のオールスターに選出されたフォスターは三回裏にア・リーグ先発にしてメジャー最高年俸を誇るキャットフイッシュ・ハンターから決勝点となる2ランを放ったほか三打点を挙げ、MVPを獲得した。
ナ・リーグ先発は、一番ローズ(三塁)、三番モーガン(二塁)、四番フォスター(左翼)、六番ベンチ(捕手)、八番コンセプシオン(遊撃)とレッズの選手がずらりと並び、レッズ対ア・リーグ選抜といってもいいほどだった。しかも先発したレッズの5名は全員ヒットを記録しているばかりか、途中出場したグリフィーまでがダメ押しの一発を浴びせ、7対1でア・リーグを一蹴している。ナ・リーグ総安打数十本中、レッズが七本(二本塁打)を占めていることからみても、まさにレッズのためのオールスターだった。
オールスターでの活躍が自信につながったフォスターは、三割六厘、二九本塁打、一二一打点で打点王を獲得し、『ビッグ・レッドマシン』の四番に定着した。なお、グリフィー、ジェロニモも三割をマークし、外野手全員が三割打者という珍しい記録も作っている。
このシーズンのフォスターはMVPの最有力候補と言われながら、同僚のジョー・モーガン二塁手に意外なほどの大差をつけられて敗れ、本人は最後まで納得がゆかない様子だった。
三番打者のモーガンは三割二分〇厘、二七本塁打、一一一打点でいずれのタイトルにも手が届かず、安打数、塁打数もフォスターに及ばなかったが、六〇盗塁、ゴールデングラブ賞という攻・走・守のバランスの良さが評価されての選出だった。
とはいえフォスターも主軸打者としてチームを率いてきたという自負がある。二度の月間MVPにオールスターMVP、ワールドシリーズでも四割二分九厘と大試合に強く、本塁打もその本数以上に相手チームの士気をくじくような強烈な一発が多かった。
ここが所詮は中距離打者であるモーガンとの決定的な違いで、同じ一発でも相手投手のみならず相手チーム全体を萎縮させてしまうような凄みがあった。ツーアウトランナー無しの場面ですら、一振りで得点をあげる危険性があり、対戦する投手が常に緊張感に苛まれたのは、フォスターの方だったはずだ。
八十九センチ、九九〇グラムというバットサイズはほぼベーブ・ルースのものと同じで、近年の一般的な打者のものより長く重い。ジャンプした内野手がもう少しで届きそうなほど低い弾道の打球が、ホップするように伸びてスタンドに突き刺さる様はまるで二段ロケットのように見えることから『黒いロケット砲』の異名を取った。
ホームのリバーフロントスタジアムではこのシーズンを含めて通算六本のアッパーデッキへの特大本塁打を放っているが、閉鎖されるまでの三十二年間でここまで届いた本塁打はわずか三十三本に過ぎず、フォスターの六本を越える選手はいなかった。
一九七七年はペナントこそ逃したものの、フォスターにとっては記録尽くめのキャリア最高のシーズンとなった。
三割二分〇厘、五二本塁打、一四九打点というのは非の打ち所がない完璧な成績である。五〇本塁打は一九六五年のウィリー・メイズ(五二本)、以来の久々の記録ということでシーズン中から大きな話題となったが、本塁打、打点のいずれも一九七〇年代から一九八〇年代にかけての最高の数字である。
ナショナルリーグに限ると、メイズの前の五〇本塁打はその一〇年前に同じメイズが記録した五〇本まで遡るうえ、フォスターの次にこの大台をクリアするのは一九九八年のマーク・マグワイア(七〇本)まで待たなくてはならなかったのだから、いかにフォスターが同時代の中で突出した長距離打者だったかがわかるはずだ。
初来日した一九七八年は二割八分一厘、四〇本塁打、一二三打点で二年連続の本塁打、打点の二冠を獲得しているが、これは一九三二、一九三三年のジミー・フォックス以来のことだった。彼の後にはマイク・シュミットとノーラン・アレナドがそれぞれ達成しており、三年連続二冠王の記録を持つベーブ・ルースを含めてメジャー史上でも五人しかいない貴重な記録である。
一九七九年に全米オールスターの一員として再来日した時には、新婚間もない夫人を帯同しており、打率五割五分六厘で日米野球MVPを受賞しているが、初来日時のインパクトが強すぎたせいか、ファンもマスコミも「翼を持ったスタージェル」のキャッチフレーズで売り出し中のデーブ・パーカー(パイレーツ・注1)の方に群がってしまい、さほど話題にならなかったと記憶する。
レッズでのラストシーズンである一九八一年度の成績は二割九分五厘、二二本塁打、九〇打点と、数字的には全盛期の打棒が鳴りを潜めたように見えるかもしれないが、このシーズンは長期ストにより例年の三分の二しかゲームがなかったため、打率以外の数字が低いのはやむをえない。
実際、ア・リーグ打点王は九十一打点のシュミットであり、フォスターはわずか一打点差に過ぎない。前年度から制定されたシルバー・スラッガー賞(リーグ最強打者によるベストナイン)外野手部
門に選出されたのも当然のことだった。
一九八二年のメッツ移籍は、破格の複数年契約に釣られてレッズを袖にしたという目で見るファンが多く、球界最高年俸でヤンキースと契約更改したウィンフィールドとともに「守銭奴」扱いされたのは気の毒だった。
ジャイアンツ時代に同僚だったデーブ・キングマンのメッツ復帰も相まって、球界を代表する長距離砲がキャンプのフリーバッティングで競い合うようにスタンドにボールを叩き込むさまは大きく報道されるとともに、メッツファンの夢も膨らませたが、いざ蓋を開けて見ると二人揃って絶不調で、フォスターは二割四分七厘、十三本塁打、七〇打点という平凡な成績しか残せなかった。
チーム成績も五位から六位に落ちたことで、ファンからA級戦犯と見なされたフォスターは、元来がナーバスな性格だけに口汚い野次に完全に萎縮してしまい、「黒いロケット砲」と恐れられた頃の自信と威厳は次第に陰を潜めていった。
一九八三年度はいくらか持ち直して二割四分一厘、二十八本塁打、九〇打点をマーク。本塁打、打点ともにチーム最高の数字を残したが、同じくクリーンナップを担うダリル・ストロベリー(二十六本塁打、七十八打点)も三振が多く荒削りとあって打線がつながらず、チーム順位は六位のままだった。
その後、メッツがゲイリー・カーターという強打の名捕手の加入により、優勝を狙えるチームへと変貌してゆく一方で、うだつがあがらなくなったフォスターは次第に居場所がなくなり、一九八六年のシーズン途中で、ホワイトソックスに放出された。
八月十五日のブリュワーズ戦で四番レフトでホワイトソックスのフォスターとして初登場すると、四回の第二打席、レフトスタンド中段に挨拶代りのロケット弾を叩き込み、大砲不足に泣くチームの救世主になるかと思われたが、先発十試合で三十六打数八安打四打点一本塁打(打率二割二分二厘)と振るわず、ついにレギュラーを外されてしまった。
その後は代打で起用され、ヒットを三本追加したところでお払い箱になった。
皮肉なことにフォスター放出後のメッツは、地区優勝を勝ち取ったばかりか、2度目のワールドシリーズ制覇まで成し遂げ、明暗を分けた。ただし、シーズンの4分の3以上チームに在籍した選手は、ワールドシリーズ優勝メンバーとみなされるという規則に乗っ取り、フォスターにも3個目のチャンピオンリングが贈呈されている。
現役引退後は「ジョージ・フォスター・ダイアモンドリポート」というラジオ番組に出演し、アスリートの身体の鍛え方などのレクチャーをしていた。
■注1■
デーブ・パーカーは一九七七年、一九七八年に二年連続首位打者を獲得したメジャートップクラスのスター選手だった。パイレーツには生え抜きのウィリー・スタージェル(一九七九年度MVP)が健在だったが、三十九歳という高齢であり、二十八歳のパーカーがその後継者と目されていた。スタージェルは二度の本塁打王に輝いているように、長距離打者としては優れていたが、ややバッティングが荒く鈍足だったのに対し、パーカーは三割、三〇本塁打、二〇盗塁とバランスが良く、快足と強肩を生かした守備も超一流だったことから、スタージェルを超える逸材という意味を込めて「翼のはえたスタージェル」と呼ばれるようになった。
ここのところ日本ゆかりのMLB選手を紹介してきているので、しばらくはMLB通の方にもMLBビギナーの方にも関心を持ってもらえるような、日本がらみの個性的な選手のエピソードを投稿してゆきたいと思っています。




