占い師として
マリナが夢のようなマルセイユの旅から帰ってきて数日後、彼女は再びブリジットの家を訪れた。
「お久しぶりです」
玄関から少し日焼けした健康そうな顔を覗かせる。
「お元気そうね。なにか楽しいことでもあったのかしら」
ブリジットも人なつっこい眼差しでマリナを迎えた。
「海を見にマルセイユに行ってきたのです」
マリナはバッグからマルセイユで買ってきた石鹸やサントン人形、大袋のチョコレート、アールグレイを手渡した。
「こんなに沢山いいのですか?」
ブリジットは両の目を白黒させた。
「もちろんです」
マリナが珍しいほど微笑んでいる。
「まぁ、それは嬉しいわ」
小さなサントン人形を手に取ってブリジットは精巧な出来映えに感嘆した。
「ブリジットさんのおかげです」
マリナは改まってお礼をした。
「え、一体何があったのかしら」
ブリジットはキョトンとしている。
「先生の占いが当たったのです」
マリナは人が変わったように素直に喜びを伝えた。
「ソウルメイトの彼氏と出会ったのね」
ブリジットも直感で感じた。
「はい! 彼といると魂から安らぎや温かさを感じ、しかも何でも解り合えるのです」
誰がどう見てもマリナはブリジットの信者になっていた。
「魂の伴侶とはそういうものなのよ」
ブリジットは当然の如く答えた。
「あたし初めて人に愛されて愛しました。愛がこんなに大切なものだなんて初めて知りました」
マリナの熱のこもった報告は続く。
「いくら経済的に裕福になれても愛がなければ人は幸せであり得ない事が分かったでしょう」
ブリジットはお復習いするように確認を取ってみた。
「はい。あたし、彼と一緒に暮らしています。結婚するつもりです」
マリナは報告しながら舞い上がってしまった。
自分の言葉に痺れたような感じだった。
「きっと幸せになれますよ」
ブリジットはマリナの話にいちいち頷きながら、まるで自分のことのように喜んでくれた。
「ところでブリジットさん、折り入ってご相談したいことがあるのですが」
マリナが神妙な顔をしてブリジットに尋ねるので、ブリジットもあらためてマリナに向き直る。
「いったいなにかしら?」
ブリジットはお茶を口元に運ぶ。
「実はわたしもブリジットさんのように、占い師になりたいのです。わたしが彼に出会って幸せになれたように、人が幸せになるお手伝いをしたいのです」
ブリジットはマリナの話を聞くとすぐに笑顔になり、
「それは良いことです。よくぞ決意してくれましたね」
と我が身のことのように嬉しそうに賛成してくれた。
マリナは笑われやしないかと、内心びくびくしていたので胸をなで下ろした。
「ありがとうございます。あたし、先生に笑われるか、反対されるかと思っていました」
マリナは思っていたことや不安だったことを正直に話した。
「わたしは大賛成よ。あなたならすぐに上達するわ」
ブリジットは優しく微笑みながら励ましてくれる。
「あたしに素質ありますか?」
マリナが急に顔を乗り出してきた。
「人間は誰しもインスピレーションという能力をもっているの」
ブリジットが当たり前のことのように言う。
「インスピレーション……」
マリナはパチパチと瞬きする。
「直感とか霊感とか霊的な力のことよ」
愛嬌のある微笑を口元に湛えるブリジット。
「霊的な力ですか」
マリナは確認するように繰り返した。
「霊力よ。霊的な力がつけば、自分の魂と話が出きるようになり、神様とお話し出来るようになるわ」
ブリジットはティーカップを口元に運び、香りを楽しみながらお茶を少し口に含む。
「神様と?」
マリナの目が好奇心に輝いていた。
「そう、神様よ」
ブリジットは当たり前のことのように言い切った。
「どうしたら魂と話せるようになりますか? あたしも神様、ブラック・ヴァージンと話がしたいのです」
神様と話せるなんてとんでもないことだと頭で分かっていながら、マリナの心は目の前の占い師の言葉を信じ切る気持ちが全てを占めていた。
「あなたが過去のすべての恨みや、憎しみや、悲しみを手放すこと。そしてあいても自分を赦したとき、魂は愛で満たされ、神様と繋がりやすくなるのよ」
ブリジットの言葉は優しく愛に溢れているけど、その一つ一つはとてもハードで困難な要望だった。
「赦す。過去の出来事を、すべて赦すことなんてとても出来ません」
蔑まれ汚物のように扱われてきた過去。汚い言葉で罵られ傷つけられてきた心。そんな惨めで哀れな心を思うとき、憎しみと復讐心がメラメラと湧き上がる。
「イエス様は赦し続けました」
ブリジットはマリナの青ざめた顔をチラとみて平然としている。
「ブリジットさん。あたしは神様に愛されたいのです」
葛藤に苦しみながらもマリナは救いを求めた。
「それならば、あなたが愛で満たされなければいけません。いろいろ大変な過去をお持ちでしょうが、過去と決別して今を生きることです」
きっぱりしたブリジットの語気が心を激しく貫く。
「過去と決別して今を生きる」
驚きに激しく身震いするマリナ。
「恨みや憎しみに囚われている限り、あなたは恨みや憎しみを引き寄せます。あなたが彼を愛しているように、心が愛で満たされていれば、愛が引き寄せられるのです」
まるで我が子を諭すようにブリジットは続ける。
「愛が愛を引き寄せるのですね」
マリナはすっかりブリジットの言葉に魅せられた。
「その通りです。マザーテレサの言うとおり、いたってシンプルです」
ブリジットは本棚のマザーテレサの本を手にとってみせた。
「ブリジットさん。あたしは今を生きます。もう二度と愛を失いたくありません」
マリナの正直な気持ちだった。彼との愛を大切に魂の奥底にしまい込んでいたい。それほど大切なものとして愛を自覚した。
「大丈夫よ。今のあなたは愛で溢れてるわ。自分の幸せを信じるの。不安がってはだめよ。不安は不安をよぶから」
ブリジットはお母さんのように微笑む。
「はい!」
ブリジットは心強さを感じた。
「それじゃさっそくカードを使った占いかたを教えてあげるわ」
ブリジットが棚のカードに手を伸ばした。
「え?」
ブリジットがカードを取り出して、さっそくマリナにカード・リィーディングの方法を教え始めたので、マリナはびっくりした。
「今日はカード・リーディングを習いたくて私に会いにきたのでしょう?」
ブリジットがにこやかに言うと、
「は、はい! ぜひカード・リーディングの方法を教えていただきたくて……」
マリナは遠慮がちにこたえた。
「マリナさん。あなたが真実の愛に目覚めてくれるなら、私はどんな応援も惜しまないわ」
ブリジットの優しい言葉と眼差しがマリナの心に注がれた。
「ありがとうございます。でもどうして初対面同然のあたしにそんなに親切にして下さるのですか?」
マリナは頬をほんのり赤らめ不思議そうにブリジットをみる。
「いつかあなたが真実の愛に目覚めたとき神様が教えてくださるでしょう」
ブリジットは少し考え、マリナにいった。
「宜しくお願いします」
マリナは目の前にいる小柄な女性にマリア様の姿が重なってみえた。
「こちらこそ」
こうしてマリナは不思議な縁でブリジットの弟子になった。
その日からマリナは寝る時間を惜しんでカード・リィーディングの勉強を始めた。ブリジットも出来るかぎりマリナのために時間を空け、スケジュールの都合がいいときは時間の許す限りマリナの勉強に助言を与えた。
もちろんリュカも大賛成してくれて、帰宅が遅いときは彼女のために食事の用意をしたり、時にはマリナの占いの練習台になったりして、全面的にマリナの勉強を応援した。
マリナは呑み込みがはやく筋もよかったので、ブリジットが教えることはその日のうちにマスターしてしまい、やがて一ヶ月も経つとカードリーディングの基本を完全マスターしてしまった。
こうして、瞬く間に、初歩的なタロット占いを完全マスターしたマリナは、カフェバーの仕事をしながら、さっそくお客さんを相手にカードリーディングの練習を始めたのだった。
お客さんも初めのうちは面白半分に占ってもらっていたが、次第にマリナの占いが当たり出すと、よく当たると口コミで噂が少しずつ広がりはじめ、飲み客だけでなく、占いだけをしてもらおうというお客さんまでお店に来るようになり大繁盛した。
ブリジットからカード・リィーディングを学び始めて二ヶ月ほど経ったある日、
「マリナ、もうわたしがあなたに教えることはなくなったわ。これからは、あなたが自分の感性でカードをよんでいくのよ」
とブリジットは自分の占い学校をマリナが卒業をしたことを告げた。
「先生、まだ私には無理です。自信がありません」
マリナが心細そうに言う。
「だいじょうぶよ。自分を信じるの。そしていつも天のサポートがあることを思い出すのよ。あなたなら感じることができるでしょう、沢山の天の仲間たちがあなたを応援してくれていることを」
ブリジットはマリナを優しく見つめ彼女の小柄で華奢な肩を軽くたたいた。
「天の仲間たちが」
マリナが不思議なそうな顔で繰り返す。
「天のあなたの古くからの仲間たちよ……いつか思い出すときがくるわ」
ブリジットが微笑みながら不思議なことを言う。
「いったいわたしの前世はどんな人生だったのでしょうか?」
気になったマリナはブリジットに訊ねた。
「……」
ブリジットから返事はなく彼女はしばらく沈黙した。
「先生は人の前世をみることができるのでしょう?」
マリナから改めてそう訊ねられると、ブリジットはようやく重い口を開く。
「マリナ、前世は魂の過去の記憶よ。過ぎ去った過去を知ってもなにも意味はないの。大切なのは今よ。日々のあなたの生る姿勢が、これからのあなたの未来を決めていくのよ。今を精一杯生きて」
ブリジットはそこまで言うと口をつぐみ、冷えかかった紅茶を一息に飲んだ。
「先生……」
マリナはブリジットがなにか重要なことを知っているのだと感じた。
過去生を知りたい。しかし過去を知ってなんの意味があるのか。そう思う気持ちもある。 心を澄ませてみれば、今のマリナは生まれ変わりたい、人生を新しくやり直したいという激しい衝動が心の全てを占めていた。
「先生、あたしは生まれ変わりたいのです。もう薄汚れた自分じゃなく天使のように天高く羽ばたきたい」
マリナは心の底からそう思い、そう願った。
「マリナ、羽ばたけますとも、天使のように。だってあなたは天使なのだから」
「あたしが天使?」
天使と言われてマリナは嬉しくて満ち足りた気分になった。
「あなただけでなく、人はみんな天使ですよ。あなたの愛しいリュカも、お仕事の仲間も、いつも来てくださるお客様も、みんな天使なの。神様はこの地上に天使しか送り込んでないわ。皆はそれを忘れているだけなの」
「人はみな天使。神様が地上に送っているのは天使だけ」
マリナはブリジットの言葉を幾度となく繰り返す。
「そうよ、マリナ、人はみんな天使なの。ただそれを忘れているだけよ」
「先生、わたしがなにをなすべきなのかわかってきました。人に光を送ることですね」
「そうよ、あなたの天命は人に光を送り、自分が天使であることを忘れた人達に、天使であることを思い出させる手助けをすること。そして何よりも、あなた自身が天使であることを思い出すことなの」
いつのまにか先生と呼ばれているブリジットも、ブリジットから名前で呼ばれて可愛がられているマリナも、何故かお互いに涙ぐみ、しばらく見詰め合っていた。
帰りがけ、玄関でブリジットはマリナに卒業お祝いといって、水晶のブレスとホワイトセージをプレゼントした。
「水晶はあなたを守ってくれます。石にも心があるの。あなたが心を開けば水晶の気持ちがわかるようになるわ。ホワイトセージは気持ちを落ち着かせたり、物や場を浄化したりするパワーがあるの。水晶が曇ってきたらセージに火をつけて煙で水晶を浄化しなさい。びっくりするほど輝きがますから」
マリナは思いがけないプレゼントをブリジットからもらって、また涙ぐんでしまう。
「先生……」
マリナは泣きながらブリジットに抱きつくと、ブリジットはまるでわが子のようにマリナを抱きしめ、いつまでも優しく背中をさすった。生まれていちども母親に抱かれたことがないマリナは、ブリジットの腕に抱かれて、はじめて母親に抱かれたような優しい温もりを感じることができた。
「あなたはお母さんを知らないし、お父さんを憎んでばかりいるけど、あなたを命がけで生んでくれたお母さん、そのお母さんをお父さんは愛していたの。だからあなたが今ここにいる。
マリナ、あなたはお父さんお母さんから沢山の愛をうけたから生まれることができたの。だからいつかお父さんを赦して欲しい。
そして、これからどんなことがあっても、あなたは愛されて生まれた。ということを思い出して欲しい
忘れないでね。あなたが今まで沢山の辛い経験をしてきたのは、真実の愛を学ぶために必要な経験だったということを」
マリナはブリジットの話を泣きながら聞きいた。一つ一つの愛の言葉を何度も心の中で繰り返した。言葉のすべてが魂に響く。ただ、マリナは父親に対する憎しみだけは、どうしても手放すことが出来なかった。
マリナがブリジットの家を出るころには日が沈んでいた。
彼女はリュカに電話して、
「いつも通り、夜のバーの仕事に行くから帰りが遅くなるわ」
と伝えるとそのままお店に向かった。
マリナがくたくたになって我が家に帰り着いたのは午前二時を過ぎた頃で、寝室のベッドにはリュカが心地よさそうに眠っていた。
マリナはシャワーを浴びるとリュカをおこさないように、静かに彼の横に滑り込んだつもりが、リュカは起きていて優しく抱き寄せられた。それから二人はしばらくのあいだ獣のように熱く絡み合い、やがて疲れ果てると、二人は天使のような寝顔で深い眠りについた。
それからというもの、マリナはブリジットから学んだことを生かしながら自分なりの方法でカードリーディングの精度を上げていった。
占いを始めた頃のマリナは、バーに来るお客さん相手にマルセイユ版タロットカードを使って基本通りのリーディングをしていた。しかしカードリーディングに慣れてくると、マリナは持ち前のセンスを活かして、展開方法に改良を加えたり、天使のカードを補助のカードとして使ってみたりしながら次第に精度の高い占い方を身につけていったのだ。
やがてマリナは自分のインスピレーションを最大限に引き出せるカードの展開方法を幾通りか編み出し、それにパワーストーンやホロスコープを組み合わせたりして、お客さんの相談内容に応じた彼女独自の占法を確立したのだった。
マリナがバーで占いを本格的に始めると、とても的中率が高いので、マリナの占いは良く当たるという噂が瞬く間にパリ中に広まった。お店にはマリナに占ってもらおうと沢山のお客さんが詰め掛けて来たが、その中にはふだん安酒場では見かけることもないエリートビジネスマンや富裕層のお客さんも見かけるようになった。
マリナはバーの隅に専用のテーブルを置いて占いをしていたが、お客が増えて繁盛しはじめると、お店のオーナーは喜んでマリナを応援してくれて、彼女が占いに専念出来るようにバーの隅に占い専用のボックスを設置してくれたり、バーの宣伝も兼ねてマリナの売り込みをしてくれたりもした。
その甲斐あって、今やマリナはバーの支配人というよりも、占い師としてその世界で有名になったのだ。
念願の占い師として有名になり、自分に自信をつけたマリナは、とても心が満たされ幸せに浸ることができた。なによりも自分の占いが人様の役に立っているということでとても心が豊かになるのを感じていた。そして沢山の人の悩みを聞いているうちに、自分だけが大変な思いをしてきたのではないということを知ることができ、世の中には自分とは比べられないほど悲惨な人生を歩んでいる人が大勢いるということも知った。
マリナはブリジットに言われたとおり、多くの人に光を送ることが自分の天命、使命だと確信した。占いの鑑定料もブリジットを見習って、相手に決めてもらうようにしたので、時にはお金に困っている人から鑑定料を頂かずに占うこともあった。
ところが初めは天使のようなマリナだったのが、何度も新聞や雑誌、SNSに紹介されて、半年ほどで急激に有名になると有頂天になり、彼女は次第に謙虚さを失っていった。鑑定料も気持ち次第でいいと、お客さんの喜ぶ顔を見みることが出来ただけでも、自分の事のように嬉しがっていたマリナだったが、次第に欲が深くなり、鑑定料をはずんでくれるお客さんには特別に親切丁寧に占い、少ししか出せないお客さんは、なにかと口実をもうけ二回目以降は相手にしなくなった。
しかも占いの収入がお店から入る収入よりも遥かに大きくなっていたので、お店の仕事もあまり真剣にしなくなり、そのうえさらに、魂の悪いクセ、虫が好かない相手に対して徹底して冷たくなり、嫉妬に狂えば仲間ですら攻撃してしまうという悪いクセがマリナの中で暴れだした。