ブラック・ヴァージン
マダムが二人を鉄の扉の奥へ導いた。
「有り難うございます」
マリナとリュカは真っ暗な階段を慎重に一段ずつ慎重に降りていく。
「ほとんど何も見えないね」
リュカはマリナを守るように気をつかいながら先に進む。
辺りは真っ暗で始めは何も見えなかったが、次第に二人の目が暗さに慣れてくると、地下の礼拝堂の様子がわかるようになった。
「奥に長椅子が並んでいるわ」
マリナの声のトーンが上がる。
声がクリプトに響き渡る。
「あそこが礼拝堂だ」
明かりは灯っているが照明の数は少なくて、薄いベールがかかったような感じだった。
「行きましょ」
マリナは見えない糸に引き寄せられるように用心深く歩き始めた。
「マリナ、足下に気をつけて」
リュカも長椅子が並んだ礼拝堂に入る。
「あっ……」
マリナは思わず胸のペンダントを固く握り締めた。
黒い聖母子像が最前列の長椅子の、さらにその先まで行った左側の壁にあったのだ。
「マリナのペンダントと同じだ」
リュカも感動でぶるっと身震いした。
(お母さん……)
マリナは目の前の黒い聖母子像に母の面影をかさねた。
「ブラック・ヴァージン」
マリナはペンダントを強く握りしめ跪く。
胸と頬がとても熱い。
胸にこみ上げてくる不思議な感情に涙がとめどなく溢れる。
(母はなぜ死ななければならなかったのですか? 私はなぜ生まれてきたのですか? すべてあたしが悪いのですか? 父はそう言ってあたしを責めました)
マリナは黒いマリア様に繰り返し問いかけた。
礼拝堂が深い静寂に覆われた。
マリナは長い沈黙を破り、もう一度語りかけた、いや、自分に問いかけ言い聞かせようとした。
(あたしは生まれるべくして生まれてきたのですか)
マリナはリュカの存在を忘れてしまうほど無心に祈り続けた。
その時、どこからか囁くような声がした。
愛しなさい。赦しなさい。人々のために祈りなさい。
「ブラック・ヴァージン!」
マリナは唇を震わせた。
「マリナどうしたの?」
「リュカ! 聞いた? 聞こえた?」
マリナは興奮して立ち上がった。
体の震えが止まらない。
「なにも聞こえなかったけど」
リュカは戸惑うばかり。
「聞こえたのよ! ブラック・ヴァージンの声が」
マリナは唇を震わせ思わぬ事を口走った。
「まさか!」
リュカの体が驚きで硬直する。
「『愛しなさい。赦しなさい。人々のために祈りなさい』って」
握りしめたペンダントが涙で光っていた。
「マリナ……」
リュカは反射的にマリナを強く抱きしめた。
リュカは思った。
マリナのご先祖様が何世紀にもわたって、この大地を愛し、黒マリアを信仰していたからこそ、黒いマリア様は根無し草のようなマリナをその一言で大地に繋ぎ止めたのではなかろうか。
ここはマリナの魂の故郷。
「あたし、すごく幸せで、胸が一杯で」
マリナの心に愛の炎が灯ったのか、そう思っても不思議でないほど彼女の心は愛で満たされた。
胸が熱い。胸が熱い。
「きっと君のご先祖様やお母さんの祈りがブラック・ヴァージンに届いて、奇跡のギフトを与えて下さったのかもしれないね」
リュカが振り返りマリナに微笑んだ。
「あたしもそう思う」
マリナはあらためて跪き、黒い聖母子像に祈りを捧げ、その姿を彼女の目と心にしっかり焼き付けた。
(ブラック・ヴァージン、必ずまた来ます)
マリナは帰りしなもう一度、黒い聖母子像を振り返りそう呟いた。
母胎のようなクリプトから地上階に戻ると二人を真っ白な光が出迎えた。
修道院の大きく開いた扉から光が溢れた。
胎児が初めて見る光とはこんなにも美しいのだと思った。
二人は扉を出て広場に足を踏み出す。
恋人達の目の前に古い煉瓦の建物や港が、その先には青い海が無限に広がっていた。
二人は新生児のようにこのクリプトで新しく生まれ変わった。
旅の終わり、二人は旧港にあるトルコ料理の屋台でビールを飲みながら、ケバブサンドを食べてお腹を満たした。
食事のあと二人はカヌビエール通りのお店で、ラベンダーアールグレイ・ティ─やマルセイユ石鹸、ナヴェット、サントン人形など、かかえきれないほどのおみやげ物を買った。
マリナはおみやげ物を買っているうちに、突然、ブリジットのことを思い出した。
(ブリジットさんの占い通り、あたしは二月にリュカと出会い、今こうしてリュカと一緒に生活をしている)
ハッとしてマリナはリュカを見る。
リュカは熱心にマルセイユのロゴが刺繍されたキャップを手に取ったり被ったりしていた。
(まさか、あの時、ブリジットさんが予言してたソウルメイトがリュカ)
マリナはリュカに出会えた奇跡をあらためて黒いマリア様に感謝した。
あっというまに二人にとって初めての、そしてささやかなマルセイユ旅行は終わった。
マリナはパリに帰る列車の中で初めて将来の夢を想い描いた。
「あたしもブリジットさんのような占い師になりたい」
笑われやしないかと躊躇ったが思い切ってリュカに打ち明ける。
「うん。きみならなれるよ」
リュカは真面目に応援してくれた。
「あたしブリジットさんのように、占いを通じて多くの人を幸せに導く手伝いをしたいの」
マリナが拳を握りしめた。
「それはいい考えだ」
リュカは何度も頷く。
「あたしに出来るかしら」
マリナは遠慮がちに訊く。
「きっとうまくいくよ」
リュカは微笑み恋人を勇気づけた。
「ありがとう。嬉しい」
マリナは思い切ってリュカに夢を打ち明けて良かったと思う。
リュカはまだ正式な家族ではないけれども、家族の応援ほど勇気づけるものはない。
リュカやブリジットの言葉をマリナは次々と思い出し胸がとても熱くなるのを感じた。
ブリジットやリュカから注がれた愛はマリナの荒んだ心を癒やし愛に目覚めさせたのだ。
マリナの人生は初めて光を浴びた。
彼女の愛はまだまだ小さなものだったが、自分を少しだけ好きになれそうな気がした。