サン・ヴィクトール修道院
三日目の朝。
マリナとリュカはホテルを出てすぐの、旧港、ベルジュ埠頭の活気溢れる魚の市場を見に行った。
澄んだ青空には沢山のカモメが市場の餌にあやかろうと飛び回り、海岸に駐車した車のタイヤの陰からは猫たちが魚を狙っている。
港には沢山の漁船や観光用の船が繋がれていて、海沿いには様々なレストランが建ち並んでいた。
市場の見学に来たのか、小学生の団体が魚屋の屋台を取り囲んで、キャッキャ、はしゃぎまわっている。
「うちのブイヤベースは極上だよ!」
屋台のかっぷくのいい料理人の親父がよく煮込んだスープを勧めてくる。
「取り立てのタコはいかが!」
屋台や店の前の客寄せたちが、旅行者を引き付けようと声をあげる。
「賑やかね」
マリナは満足そうに頬を緩め目を細める。
「元気な港だ」
リュカも楽しそうだ。
マリナとリュカは海を眺めるため、お店や屋台を通り抜け入り江の先に出た。
繰り返す波の音。
蝉のジージーという単調なリズムの鳴き声。
それらの見事なハーモニーが二人の耳に心地よく響く。
「旧港ってすごく綺麗ね」
マリナは瞳をキラキラと輝かせ港の隅から隅を見回した。
「うん、ほんとに美しいね」
リュカはここに来てほんとに良かったと胸をなで下ろす。
港にヨットの白いマストが整然と並び、その上をカモメが翼を思いっきり左右に広げ、サーフィンをするみたいに心地よさそうに行き来している。
港の入り口には聖ヨハネ要塞やマルセイユ大学の赤い屋根。
丘の上には駅で見たノートルダム・ド・ラ・ギャルドバジリカ聖堂の黄金の聖母子像がマルセイユの港や町を守護するように見下ろしていた。
「もう少し見て歩きましょう」
マリナはリュカの手をとり、どんどん先に歩いていく。
ジージージー、
「元気いいね!」
リュカは蝉の単調な鳴き声に耳をそばだてる。
「潮風が美味しい!」
マリナは胸を張りゆっくり息を吸ってゆっくり吐く。
鼻と口の中が潮の香りや貝殻と海藻の匂いでいっぱいになる。
「港町って最高ね!」
リュカも鼻と口を大きく開けて貝殻や潮の香りを楽しむ。
「すぐにマルセイユに引っ越しましょう」
マリナはいきなり彼の腕をギュウと掴んで彼を上目遣いでみた。
「ええ!」
引っ越したばかりなのにとリュカは本気で青ざめる。
「冗談よ」
悪戯っぽい目でマリナは彼を見て笑う。
「本気かと思った」
リュカはほっと胸をなで下ろし額を左手で拭う。
「でも、いつか此処に住みたいわ」
マリナはうっとりした眼差しで遠くの海へ目をなげた。
「いつかね!」
リュカは、うん、と頷く。
「あんなところにお城があるわ」
マリナが港から坂道の上を見上げた。
城壁の凹凸が目に飛び込んだ。
「ほんとだ。城みたい」
リュカは城に間違いないと思った。
「行ってみましょう」
マリナはどんどん先に歩きはじめる。
坂を少し上ったところに、凹凸のあるどっしりしたお城の硬い城壁があらわれた。
「サン・ヴィクトール修道院だって」
リュカが近くの案内板を指さす。
「サン・ヴィクトール修道院……まさか、ここが……」
マリナは瞬間的にブリジットの言葉を思い出し、胸の黒い聖母子像のペンダントを固く握り締めた。
運命としか言い様がなかった。
マリナは引き寄せられるように建物の中に入った。
「マリア様と幼いイエス様だわ」
聖堂の入り口で新しい時代のものと思われる黒い聖母子像が二人を出迎える。
「イエス様がマリア様の膝に腰掛けているのが可愛いね」
リュカがやさしい眼差しで微笑む。
「小さいけど大人びたイエスさまね」
マリナがちょっと水を差す。
「そう言われてみるとやけに大人びてるね」
言われてみればリュカも同意せざるおえない。
「こんにちは」
聖堂に入った二人は、売店のマダムから声をかけられた。
「ここがサン・ヴィクトール修道院ですね! ずっと来たかったんですが、今日、偶然見かけて……」
マリナは売店のマダムのところに駆け寄った。
「サン・ヴィクトール修道院はマルセイユで最も古い宗教建築のひとつですよ。三世紀のローマの迫害によるキリスト殉教徒の墓地に、ジャン・カシアンによって建てられた西欧最初の修道院なんです」
マダムは売店から出てきて身振り手振りをおりまぜて、二人を相手に教会の歴史を熱弁し始めた。
「そんなに古い建築物なんですか」
リュカはそう言って天井を見上げる。
「ええ、初期キリスト教徒のたくさんの石棺がクリプト(地下礼拝堂)に安置されていて、礼拝堂には、ブラック・ヴァージンと呼ばれる黒い聖母子像が祭られています」
「ブラック・ヴァージン!」
マリナは心臓がドキッとした。
「お嬢さんは黒い聖母子像のペンダントをしていらっしゃるわね」
マダムはすぐに気づいたようだ。
「これは亡くなった母の形見なのです。幼かったのであたしは憶えていなくて」
マリナは黒い聖母子像のペンダントを手にとった。
「きっとお母様もブラック・ヴァージンを信仰されていたのでしょう」
マダムは古い知人にでも会ったように笑みを漏らした。
「どうしてこのマリア様は黒いのですか?」
マリナはあらためてペンダントの黒い聖母子像を見た。
「なぜ黒い聖母子像なのか? さまざまな説があります。よく言われるのは、大昔、フランスがガリアと呼ばれていた頃、古代信仰だった大地の母神が、キリスト教に習合されたという説です」
「大地の母神?」
マリナの目が大きく見開く。
「太古の人々は黒という色に神秘さを感じていました。黒は大地の色、子を孕む母の胎内の色なのです。いわば生命の源を意味します。だから人々は黒い石を霊石として祭ったのでしょう。たとえばメッカのカーバ神殿に祭られているのも黒い石であるように」
「なるほど、でも黒い石がどうして聖母子の姿になったんですか?」
リュカの探究心に火が付く。
「イシス信仰です」
マダムから思わぬ返事が返ってきた。
「イシス? 古代エジプトの神ですよね」
二人はびっくりして声をそろえた。
「聖ヴィクトールをご存じですか?」
マダムが突っ込んだ質問を投げかけた。
「ええ、ローマ皇帝マクシミアヌスのキリスト教徒迫害によって、聖マウリティスとともに殉教した六六六六人のテーパイ軍団の一員だった聖者」
リュカがすらすら言ってみせる。
「はい、この修道院はその聖ヴィクトールのお墓なのです」
マダムは厳かに語る。
「エル・グレコ作の聖マウリティスの殉教ですね」
リュカが得意げに言う。
「その通りです。よくご存じで」
「たまたまです」
「テーパイとはエジプトの聖都テーベのことです。イシス像はそのテーパイ軍団の一員だった聖ヴィクトールたちとともにマルセイユに持ち込まれたのではないかという説があるのです。なにしろイシスが我が子ホルスを膝に乗せる姿が、黒いマリア像とそっくりなのですから」
「なるほど、パリのサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の黒いマリア像がイシス像だったようにか」
リュカは感慨深げに腕を組み大きく頷く。
「毎年、二月二日の聖母お潔めの祝日、信者たちは緑のローソクを持ってこのクリプトに入り、船の形をしたパンと新しい緑の蝋燭を持ち帰りますが、イシスは緑の神、船はイシスの船だという学者もいます」
マダムはそう言って船の形をしたナベット菓子を二人に勧めた。
商魂たくましいマダムだ。
二人は試食用のナベットを口に含んだ。
「大地の母神として崇拝されていた黒い石が、イシスの信仰やキリスト教と習合して、黒い聖母子像が生まれたのね」
マリナは黒い聖母子像のペンダントを胸のあたりで強く握り締めた。
「マリナの祖先は、ガリアと呼ばれた大昔から、ここマルセイユでブラック・ヴァージンを信仰していたのかもしれないね」
リュカは自分の事のように喜ぶ。
「大いにあり得ます。ブラック・ヴァージンが見つかるのはガリアでもプロバンス地方を含む、特定の三ヶ所に集中しているのですから」
「あたし、自分が何者なのか考えてもみもしませんでした……でも遠いご先祖様がこの地でずっとブラック・ヴァージンを信仰していたのかと思うと、胸が一杯で……」
マリナは黒く大きな瞳に涙を浮かべた。
「クリプトはここからお入り下さい」
マダムはそう言って地下に入る扉の鍵を開けた。




