恋人たちのマルセイユ
七月に入りフランス革命を祝う花火がエッフェル塔で打ち上げられると、パリはバカンスのシーズンに入った。
このシーズンになると多くのパリジャンが都会を離れ、自然の多い郊外へと旅行に出かける。
「パリからでたい! 海が見たい! 海が見えるところなら何処でもいいから旅行したいわ!」
コロナもずいぶん終息して、マスク着用の規制も解けた開放感も手伝ってか、マリナは毎日のように、リュカの顔を見ると旅行のおねだりする。
「海が見えるところなら何処でもいいの?」
リュカがにっこり微笑み優しく訊く。
「あなたにまかせるわ」
猫なで声のマリナ。
こんな時のマリナが一番用心しなければならない。ころころ考えが変わるのだ。
「それが一番難しいんだよね」
マリナが我が儘なのを知っている彼は、せっかく立てた計画でも気に入らないからと、呆気なく却下された苦い経験を思い出す。
「西海岸のモン・サン・ミシェルを見にいく? それとも南の海かな?」
リュカは数冊の旅行雑誌を大きく開き、リビングのテーブルの上に広げた。
雑誌の一面に地中海の碧い海が載っていた。
「こんな碧い海が見たいわ」
マリナは背中から両腕をリュカの首に絡ませ、まるで子供のように振る舞う。
「碧い海か」
リュカは彼女のリクエストに応えようと、色々な旅行雑誌を見て、
(マリナは碧い海を見たいって言ってるから、マルセイユに行って地中海を見せてあげよう)
と目的地をマルセイユに決め、さっそくマリナに旅行の計画を話した。
「嬉しいわ!」
マリナは大声で喜び、まるで少女のように部屋中をはしゃぎまわる。
話が決まると二人はさっそくマルセイユ旅行の計画を立てたのだが、お互いの休みの調整や、ホテルの予約を入れたりして、なんとか一緒に休みが取れたのが八月に入ってからだった。しかもたった四日間しか休みがとれなかったのだ。それでも二人はとても幸せに浸れた。
旅行する余裕などなく、生きることで精一杯だったマリナ、ただ生きるために働き続けてきた毎日。そんなマリナにとってパリから外に出ることは、彼女を夢見心地にした。
待ちに待った出発の日、早起きした二人は午前中に家を出てパリ・リヨン駅でサンドイッチとアイス・ティーを買ってTGVマルセイユ行きに乗りこんだ。
快適に走る列車で二人は車窓の景色を楽しんだりサンドイッチを食べたりしているうちに、およそ三時間後にはマルセイユのサン・シャルル駅に到着。
駅の高台に立った二人をマルセイユの美しい街と潮風が迎えた。
「見て、見て! あそこ!」
マリナが市街地を越えたところの小さな丘を指さした。
なにか建物が建っている。
「え、どこ」
リュカはマリナが何を興奮しているのかわからない。
「ほら、あそこよ!」
マリナは頬と頬が触れるぐらいリュカに密着して遠くを指さす。
「あ、あれ」
リュカが目を凝らすと丘の上に、片耳が短い猫の頭のような建物がたっている。
寺院のようだ。
「ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂よ」
マリナは両手を腰にあて鼻高々に言う。
「まいったな。詳しいね」
リュカは人差し指でマリナの高い鼻を優しくタッチする。
「行ってみたくって、電車の中で調べてたの」
そう言ってマリナはさっさと駅の大階段を降り始めた。
「マリナ、メトロは駅構内からだよ」
リュカは慌ててマリナを呼び戻そうとするが、彼女はどんどん階段を下りて行く。
(もう遅いわね)
そう思ってマリナが振り返ると、リュカはまだ階段の高いところに立っている。
「メトロは駅構内からだよ!」
リュカは声を張り上げてマリナを呼んだ。
「どうしてもっと早く止めてくれなかったの!」
マリナはカンカンになって階段を駆け上がる。
「わざとじゃないよ」
リュカはふくれっ面のマリナから荷物をそっとあずかる。
「意地悪な人だこと」
マリナは鼻をツンとしながら駅にむかって早足で歩く。
「待てよ」
リュカも急いで後を追う。
「あたし今すぐ碧い海が見たいの」
わがまま全開のマリナ。
「それならマルチーグのビーチがとても美しいそうだよ」
マリナに振り回されっぱなしのリュカ。
さっきは丘の上の教会が見たいって言っていたのに、今度は海が見たいという。
「そこに行きたいわ!」
マリナは今までとはうってかわって、まるで少女のように無邪気に振る舞う。
さっそく二人はタクシーでマルチーグに向かった。
開けた窓から入る潮風が胸にひろがり、絵はがきのような港の景色が流れる。
タクシーから降りた二人を出迎えたのは神の芸術のようなマルチーグの碧い海だ。
「宝石……」
マリナは思わずつぶやく。
それっきり物思いに耽るように沈黙した。
「マリナ、どうしたの」
リュカが心配そうに彼女の顔を覗き込む。
「海を見ただけで嬉しいの。あたしどうしちゃったのかしら」
マリナは目に涙を一杯潤ませている。
リュカはそっとマリナの肩を抱きしめた。
恋人たちは海を眺め写真を撮り、砂を確かめるように歩く。
浜辺を小さなカニたちが素早く横切る。
海面にときおり煌めく小魚の群れ。
砂浜で日光浴を楽しむ多くの人。
海に飛び込んではしゃぐ子供たちや、沖でウィンド・サーフィンを楽しむ人の姿。
白い岩場に腰かけてのんびりと釣りをする人たち。
海岸の沖合にはフォス港を出入りする、大小さまざまなクルーザーや巨大な貨物船が浮かんでいる。
マリナは打ち寄せる海の水を手で触ったり、裸足になって水の感触を肌で抱いたりしながら、まるで少女のように笑い声をあげ、はしゃいだ。
リュカには大人のマリナと少女のマリナが、彼女の中で交互に入れ替わっているように見える。
「だから水着をもってくるべきだったのよ」
悪いのはリュカだと言わんばかり、マリナが彼に文句をいう。
いつものパターンだ。
「水着? 君は泳げないはずじゃ」
リュカが意地悪くからかう。
「なんて酷い人なの。泳げないんじゃ無くて、泳いだことがないだけよ」
マリナはムッとして、リュカを恨めしそうに睨み、プイとそっぽを向く。
「冗談だよ」
慌ててリュカは弁解したものの、
「あなたなんて大嫌い!」
マリナはひどく怒り、浜辺の海水をバシャッとつま先で蹴ってリュカに浴びせる。
「わぁ!」
やったなぁと慌ててリュカが彼女を追いかける。
恋人はたちは子供のように追いかけっこをはじめた。
「ごめん、悪かった」
リュカはやっとのことでマリナに追いつき、真顔で謝る。
「じゃあたしの足にキスして」
マリナは悪戯っぽい目で彼に微笑む。
「……ぼくは君のもの」
リュカは砂の上に跪き恋人の足に接吻しようとする。
「可愛い人、あたしに繋がれたいのかしら」
マリナはかがみスカーフをリュカの首に軽く巻く。
燃えるようなマリナの唇が彼の唇に何度も押しつけられる。
二人はもつれるように砂の上に倒れ、もうこれ以上ないと思えるぐらい、お互いをきつく抱きしめた。
リュカが先に立ち上がりマリナに手を差しだす。
マリナも華奢な指先で彼の手の先を掴み立ち上がる。
「砂まみれよ」
マリナが小さく笑う。
リュカも砂まみれのマリナを見て、
「君こそ砂まみれだ」
優しく笑いながら、彼女のシルクのような美しく長い黒髪や、淡い色彩の上品な柄のワンピースについた砂をはらう。
潮騒にかき消される蝉の鳴き声。
水平線に煌めくエメラルドのような碧い海。
マリナとリュカは、彼方まで続く浜辺を潮風に吹かれながら歩く。
恋人達は美しい海の眺めを魂に焼き付けた。
次に二人は港から船に乗ってイフ城を見に行った。イフ城につくとリュカが海を見るマリナの横顔を見ながら「ここは政治犯や異教徒たちの牢獄として使われていて、デュマのモンテ・クリスト伯の舞台で有名なんだよ」と島にまつわる話を熱心に語り始めた。ところが彼女は美しい海を無言で眺めるばかり。
マリナの心と魂は、目の前に広がる青い海を人魚にでもなったように、自由に泳まわる感覚に浸っているようだ。
二人がイフ城から再び船で港に戻り、レストランから匂い立つサフランの香りに誘われお店の中に入った。そして美味しい白ワインを飲みながらマルセイユ名物のブイヤベースを味わった。
二人はお昼をすませると、今度はパニエ地区のパステル調の美しい町並みに惹かれたので、青空にはためくカラフルな洗濯物を時々みながら海に向って歩き続けた。エメラルドグリーンの海に出たマリナとリュカは、目の前に広がる青と石灰岩の白が美しいカランクの景色に二人して歓声をあげたのだ。
翌日、マリナとリュカはプチトラン(観光用のミニ電車)に乗って、高台にあるノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂に行った。
「マリア様よ」
マリナが鐘楼の上の我が子イエスを抱く黄金のマリア像を見上げる。
「ボンヌ・メール」
リュカが呟くように言う。
「やさしいマリアさま?」
マリナがキョトンとする。
「うん。地元の人たちはそう親しみを込めて呼ぶんだ」
リュカがマリア像を見あげた。
「いい響きね」
マリナも言葉の美しさに震えた。
「だろう」
リュカはあらためてマリア像を見上げる。
「ボンヌ・メール」
マリナも囁く。
寺院の鐘楼の上に立つ黄金色のマリア像が、二人を優しく迎えてくれた。
夕日が傾いているが、マリナとリュカは寺院のテラスに急ぎ行き、そこから無限に広がる茜色の空、マルセイユの町、地中海に浮かぶイフ島、その後ろのフリウル島の姿を、反対側のテラスからは赤い屋根の建物が立ち並ぶ町並み、その街を青い山々が取り囲む美しいパノラマの景色を楽しんだ。
マリナは夢のような景色と和かな潮風に、身も心も魂でさえも洗われるような感覚に身震いし、思わず、
「マリア様ありがとうございます」
と声を発した。
心の底から感謝の言葉が溢れてくるように感じた。
リュカは魂を奪われたようになって海を見るマリナが本当の天使のように見えた。
そう思った瞬間、リュカは急に激しい寂しさと不安に襲われた。
(いま僕の目の前にいる美しい天使は、そのまま翼を広げて、僕の手が届かないどこか遠いところに飛んでいってしまうのではないか)
リュカはそう思うと反射的にマリナのやわらかく細い手をギュッと握り締めた。
「どうしたの」
マリナは不思議そうに彼を見る。
リュカは何かから彼女を守ろうとするかのように愛しい手を握った。
「何でもないよ」
リュカは心を悟られまいと咄嗟に目を逸らせた。
珍しい瞬間だった。
「うそ」
マリナは恋人の、一瞬の心の動きを見逃さなかった。
何が起こったの?
「ホントに何でもないよ」
リュカは赤面する。
「何があったの?」
マリナは気になってしょうがない。
「きっと笑うよ」
リュカは恥ずかしそうに、しかし真剣な眼差しを彼女にみせた。
「笑わないから」
マリナは真剣な眼差しをむける。
「君が天使のように翼を広げて、どこか遠くへ飛んでいってしまいそうだったから」
マリナは深い黒の澄んだ瞳でリュカをしばらく見つめ、やがてやさしく微笑んだ。
「あたしの愛しい人」
マリナは両手で彼の頬を包み柔らかな唇を彼の唇に重ねた。
「……」
リュカは放心したようになって彼女の腕に抱かれた。
「あなたにも天使の翼があるわ」
マリナがリュカの背中に手を触れる。
「ぼくにも?」
リュカは子供のように自分の背中を振り返った。
「もちろんよ。二人で翼を広げ、高く高く飛び立つの」
遥か水平線のかなたまで広がる海。
刻々と変わる夕焼け空。
二人の魂は溶け合う。
恋人たちは天使の翼を広げ、天高く舞い上がった。