ソウルメイト
年が明け、すぐにラ・シャンドゥレール(聖母お清めの祝日)を祝う二月二日がやってきた。
家族も友達もいないマリナは、いつもなら何もしないで休日を過ごすのだが、今日は珍しくクレープを作ろうという気分になった。
「ネットでレシピを調べ、動画で焼き方を見れば完璧ね」
マリナはさっそうとオレンジ色のエプロンを身につける。
レシピ通りの具材を揃え、ボールに卵、ミルク、砂糖を入れて、溶かしていたバターを入れて粉を混ぜ合わせた。
「フライパンなんて使うの何年ぶりかしら」
熱くなったフライパンでマリナは生地を焼く。
「これからが勝負ね」
エプロンのポケットに入れておいた縁起担ぎのコインを取り出して、左手で握りしめながら、
「エイ!」
と右手でフライパンの生地を勢いよくひっくり返した。
「やったぁ」
偶然としか思えなかった。
はじめてなのに生地は見事にひっくり返り、美味しそうなクレープができあがった。
「今年は幸運星がついてるわ」
マリナは調子に乗って二度三度やってみた。
ところがどれもうまくいかなくて、それっきりクレープを焼こうとはしなかった。
日々の忙しさにかまけているうちに二月も下旬になった。
パリの木々に芽がふくらみはじめ、春が近いことをしらせてくれる。
チェーンソーの激しい音があちこちで響き、春先の街路樹は木々が茂りすぎないよう幹だけにされていた。
マリナがブリジットに出会ってから早、半年。
彼女は毎日の忙しさの中でブリジットから言われていたソウルメイトとの出会いのことや、サン・ヴィクトール修道院のことなどすっかり忘れ、日々の生活に追われるように過ごしていた。
そんなある日、いつものように単調な仕事をしていると、一人の青年がマリナのお店にやってきた。
裏町の安いカフェバーに来るには少し場違いな、いかにも育ちが良さそうな好青年だった。
「いらっしゃいませ」
マリナをはじめ定員が声を揃える。
「お好きな席にご自由にどうぞ」
青年は迷わずカウンターの椅子に座りスタッフから渡されたメニューをパラパラめくり、
「これをお願いします」
カウンターの女の子にメニューのキールを指さして注文した。
「タバコ吸っていいですか?」
スーツからシガーケースを取り出す。
「ええ、どうぞ」
バーのスタッフが素っ気なく返事してオーダーを通すために下がる。
お酒を待つ間、青年は落ち着かないのか、煙草をくわえて周囲をきょろきょろ見回しているのが初々しい。
「あたしが持って行くわ」
マリナは何故かその青年にとても好奇心をそそられたので、出来たキールを持って彼のところへ行った。
「お待たせしました」
マリナはそう言いながらグラスをそっとコースターの上に置いた。
「あ、ありがとう」
青年はぎこちなくそう言って顔を上げると、洗い立ての白いシャツに真っ黒なエプロンのマリナと目が合った。
「このお店初めてですよね?」
マリナは微笑みながら話す。
「ええ、初めてです」
青年が少し照れくさそうに返事をする。
「バーは初めてですか?」
マリナは青年の顔をのぞき込む。
「そうでもないです。ただ、この辺りで遊ぶことが殆どないので、どのお店がいいのか見当もつかなくて……駄目もとでこのお店に飛び込んでみました」
マリナはその青年が少年のように初心だったので、すこし絡んでみたくなった。
「まあ、駄目もとって酷い言い方ですわ!」
マリナに絡まれた青年は一瞬で、しまった、と慌て顔になり、
「いえ、このお店の雰囲気がとてもよかったので入ってみたのです!」
とっさにお店を褒めてみせた。
「まぁ、おょうずなこと。入った瞬間に後悔されたでしょう?」
マリナは青年の慌てぶりがとても可笑しくて、もっと困らせようと、より強い口調で言ってみた。
「そ、そんなことはありません……」
たちまち青年は硬い表情になり、気の毒なほど恐縮して俯いてしまう。
「ごめんなさい!」
マリナはかえって申し訳なくなって責めたのを謝る。
「いえ、こちらこそ」
青年は頬を赤らめハンカチで額の汗を拭った。
「あたしはマリナ。お店の支配人です」
マリナはにっこり微笑み青年の顔を覗き込む。
短めの金髪で目鼻立ちがはっきりした顔立ち。
「リュカです。よろしく」
青年もマリナにぎこちなく笑顔を見せる。
「リュカさんよろしくね!」
マリナは愛想良く振る舞う。
「お若いのに支配人だなんて凄いですね」
リュカは本当に凄いと思った。
「ようするにオーナーの使いっ走りよ」
マリナは照れくさそうにヴィトンのシガーケースから煙草を一本つまみ、ぷるんとした小さくて肉厚な唇にくわえた。
「どうぞ」
リュカが慌ててライターの火を差し出すと、マリナは彼をチラと見て、目を細めながらタバコを美味しそうに吸う。
「ありがとう。優しいのね」
マリナはチラとリュカの横顔を見る。
鼻筋が通っていて端正なわりには童顔だ。
「いいえ……ここは室内で喫煙できるから嬉しいです」
そう言ってリュカも煙草をくわえると、今度はマリナがさっとライターを差し出した。
「ありがとう」
リュカが静かにタバコを吸うと、二人は優しく微笑み見詰め合った。
「オーナーが日系人だから、日本人のビジネスマンが多いの。あの国のバーは喫煙出来るお店が多いそうよ」
マリナは煙草を吸うリュカを見て、なぜか不思議な親近感や懐かしさを感じた。
「だからこのお店は喫煙者に優しいんですね」
リュカは嬉しそうにステンレスの灰皿でタバコの灰をはらう。
金属の質感がとてもいい。
「ええ、とっても」
マリナは会話が弾むのを楽しんだ。
退屈しのぎにはもってこいだ。
「あ、この絵、ゴッホのアルルの女ですね」
リュカは絵描きに憧れていた青春時代を思い出していた。
「もちろんレプリカよ。オーナーが好きで飾っているんです。お詳しいんですね」
マリナは絵に関心などなく、店の備品としてしか気にとめていなかった。
「十代の頃絵描きになりたくて美術専門学校で学んだことがあるんです。だけど家庭の事情で諦めなきゃならなくなって」
そういってリュカは壁に掛かったレプリカを懐かしそうに眺めた。
「絵なら浮世絵のレプリカも沢山飾っているわ」
狭い店内ながら壁の空きスペースにドガやシャガール、ピカソなど様々な絵が飾られている。
「お店、一番のお気に入りになりました」
様々な絵画がお店の最も目立つところや細部に飾られていた。
「嬉しいわ、毎日遊びに来てね」
マリナは馴れ馴れしくリュカの腕を軽く掴んでみる。
「もちろん」
リュカもまんざらでないようだ。
「もう、無理しなくてもいいのよ」
マリナは意地悪そうに腕を放す。
「じゃ、時々」
二人はタバコを吸いながら、たわいのない会話を続けた。
時間が流れるように過ぎていった。
その日からリュカはマリナが気になって時々お店に通うようになり、マリナもなぜかリュカが気になって仕方がなく、彼が来るとすぐに話し相手になった。
マリナはリュカに出会ったばかりなのに彼と話ていると、遠いはるか昔どこかで出会ったような家族や友人以上の懐かしさや温かさを感じる。まるで長い間ずっと一緒に連れ添ったパートナーのような安らぎと幸せさえ感じるのだ。
一方のリュカもマリナと話をする度に、安らぎと温かさを感じ、遙か遠い昔から知っている友人、あるいはそれ以上の深い運命的な何かを感じ、その感覚は日増しに強まるばかりだった。
二人に共通の話題は何一つないのに、生まれも育ちもまったく違うのに、一緒にいると居心地が良く心が幸せで満たされ、会話が弾み、お互いの笑顔やしぐさをみているだけで魂が愛で満たされるのを感じる。
やがて二人はお店が終わってからも一緒に帰るようになり。休みの日は二人で出かけるほど仲良くなった。
あれほどお金に執着していたマリナだったが、ブリジットの占い通り、二人は約束されていたかのように惹かれあい恋に落ちた。
マリナにとってリュカは今までの恋人とはまったく違うタイプの男性だった。
見かけが好みというわけでもなく、沢山お金を持っているというわけでもないのに、なぜか心の奥深くから強く魅かれる。
リュカにとってもマリナは今まで出会ったことのないタイプの女性だったが、なぜか心の深いところから強く彼女に魅かれた。
まさに彼女は運命の恋人だと思った。
二人はすぐにパリに安いアパルトマンを借りて同棲することにした。
マリナにとって男との同棲は何度も経験していたが、リュカにとっては初めての経験だ。
リュカはマリナとの結婚を望んでいたし、マリナもまたリュカとの結婚を意識していた。ところがマリナは両親のように貧乏になりたくないと思っていたので、生活が安定するだけの収入や貯金ができるまでは誰とも結婚しないと決めていた。
たとえそれが愛するリュカであっても。
マリナが愛を強く望みながらも愛に臆病なのは、金銭問題だけが原因ではなかった。愛すること愛されることを、マリナは生まれて初めて知ったから。だから、マリナは愛にひどく臆病になり愛を失うことをとても恐れた。
ようやく幸せを掴んだと思ったら、どんなにしっかり抱きしめていても、いつも泡のように消えてしまう、そんな悲しい出会いと別れをマリナは幾度となく経験していたから。
恋人たちはパリ十区に築八十年の古びたアパルトマンを借り、部屋に必要な家具やランプを近くの骨董市で買い求め、室内の雰囲気にあうように手を入れた。
リビングのテーブルとソファと寝室のベッドは、新しいものにしようということになって、二人は休みを一緒に取ると、車を借りてさっそくパリ郊外のショッピングセンターまで買い物に出かけた。
マリナはリュカから、父親の借金を返済していることを打ち明けられていたので、リュカにできるだけ負担がかからないように、買い揃えるものを絞り込んでいた。
「部屋が狭いから家具は出来るだけ背が低いものがいいわ」
そう思いやりマリナが提案する。
「ベッドは脚のないマットにしよう」
リュカも部屋を広く見せるアイディアを出した。
脚がない分部屋の空間を大きく見せることが出来る。
「シンプルでお洒落なテーブルとソファがいいの。そうね、ベッドカバーは白いシンプルなものがいいわ」
マリナはまるで初めて二人暮らしを始めるように胸がときめく。
今までの恋はただの恋。でもリュカとの恋は本当に愛した恋だから。
二人はリビングコーナーから寝具コーナーを見て回り、脚がついていないマットレスを見ると、掛け布団やシーツを見に行った。それからカーテンコーナーに来たところで、枕を見忘れていたことに気付き、再び寝具コーナーにもどる。
「足が棒のようになったわ」
マリナが前屈みになって息を絶え絶えになって言う。
近くに椅子を見つけて腰掛け足を投げ出した。
「カフェでひと休みしよう」
リュカも足や腰が痛くてすぐに賛成した。
マリナとリュカはショッピングセンター二階のカフェに入り、サンドイッチとシチューとパスタを注文した。
話すのも忘れて二人は黙々と食事をとる。
二人ともよほどお腹を空かしていたようだ。
「びっくりするほど大食いだね!」
リュカは目の前の美しく華奢なマリナが沢山食べるのを見て驚く。
「あなたも、もっと食べなきゃ体力がつかないわよ。あたしの仕事は体力勝負なの」
恋人にそう言われリュカもつい食べすぎてしまう。
「お腹いっぱいね」
二人はすぐに動けそうにない。
お腹がぽっこり出るほど食べたのは久しぶりのことだった。
「きっと三日分は食べたに違いないよ」
リュカは大げさにそう言って思いっきり椅子に仰け反る。
「あなたは大げさね」
恋人達は背もたれにとても深く腰掛けまどろんだ。
しばらくしてお腹が落ち着くと、二人はカフェから出て今度は台所用品と食器コーナーを見てまわることにした。
「食器はその白いの、カップはこの可愛いミモザの柄がいいわ。それに大きなお皿も二枚いるわね。スプーンやフォークは?」
「スプーンやフォーク、それにナイフは家から持ってくるよ。いただき物のセットがあるんだ!」
リュカが数ヶ月前に結婚した友人夫婦からもらった引き出物が実家の棚に眠っているのを思い出した。あの一ケースで全て揃う。
「じゃ、あとはポットね。予算があれば少し大きめのキッチンマットもほしいわ」
二人はぴたりと寄り添い、まるで夫婦のように幸せそうに見つめ合いながら、手をつないで指を絡めたり、腕を組んだりしてショッピングを楽しんだ。
マリナはどうして自分がこんな優しい気持ちになれるのか不思議でならなかった。
いつもなら男に借金をさせてでも欲しい物を貢がせているのに、リュカのためなら何でもしてあげたいという気持ちになり、どんなに辛いことでも一緒に乗り越えていけると思える。しかもリュカにだけは、まるで少女のように純粋で素直になれるのだ。
同じようにリュカもマリナに対して、まるで少年のように純粋に一途に尽くしたので、二人はお互いをまるで繊細なガラス細工で出来た宝物のように大切にした。
出来上がった部屋は、すべてが二人の理想通りにはいかなかったが、落ち着いた家具とインテリアで揃えたリビング。モノトーンで統一したベッドルームは二人を十分に満足させ、こうして二人の新しい生活は始まった。
引っ越して初めての晩。
キッチンで料理を作るマリナと隣で手伝うリュカ。
二人はずっと昔から夫婦だったように自然に夕食の準備をした。
出来上がった料理をリビングのテーブルに並べ、全てが揃ったところで二人は急いで椅子に腰掛ける。
マリナが慣れた手つきでよく冷えた白ワインをグラスに注ぎ終わると、二人はグラスを摘んで微笑み「乾杯!」と合わせた。
テーブルに並べられた沢山の色彩豊かなオードブル、仔羊料理やラタトゥイユ、カボチャスープとバゲット。
二人はテーブルをはさんで向かい合い、美味しい料理を楽しみながら、時折くだらないジョークをとばして笑い声をあげた。
こうしてマリナは生まれて初めて家庭的な幸せを味わった。
リュカも、長いあいだ身勝手な父親に翻弄され、生活に追われるばかりの毎日を送ってきたので、マリナと一緒に過ごす日々に天にも昇るほどの幸せを感じた。
二人が借りたアパルトマンは小高い丘にあって、部屋は最上階の五階にあったので、窓からパリの中心部に向かってのびる美しい街並みや、遠くのエッフェル塔とその側を流れるセーヌ川をみることができた。
夕食を終えた二人はバルコニーで寄り添い、心地よい夜風に癒やされながらパリの美しい夜景を眺め、夜が深まると部屋に戻ってきてバスルームでシャワーを浴びた。
先にバスルームから出たリュカはベッドに横になり、マリナが少しクセのある黒くて長い髪を乾かす間、枕元の小さなランプを点け、静かな音楽を聴きながら彼女を待つ。
しばらくしてマリナがリュカの横に滑り込むように入ってきて彼の肩に頭を乗せた。
リュカは腕を伸ばしてマリナを優しく抱き寄せる。
「あたし、不思議な感じがしているの」
マリナが優しくささやくようにいう。
「不思議ってなにが?」
リュカが体の向きを変えてマリナをじっと見つめる。
「笑わないでね……」
マリナはリュカを確かめるように彼の青い瞳を覗き込む。
「あたし、初めてあなたと出会った時、すごく懐かしさを感じたの。ずっと昔からの知り合いだったような不思議な感じがしたわ。もしかしたらそれ以上かもしれない。昔から夫婦だったようなそんな感じがして、すぐにあなたを好きになったの」
マリナはリュカから笑われやしないかと、不安そうに彼の目を窺う。
「僕も君と初めて出会ったとき凄く懐かしさを感じたよ。不思議な感じがしたんだ。ずっと前から君を知っているような感じ、夫婦とか恋人とか、家族の一員だったようなそんな感じがして、君のことが気になって気になって仕方がなかった」
リュカは優しくマリナをすきまがないほど抱き締め、彼女は心の底から幸せに包まれた。
「あたしね、前世ってあるような気がするの」
しばらくしてマリナが思いがけないことを言った。
「僕もそう思う時があるよ。人って生死を繰り返しながらこの世で様々なものを学んでいるに違いないんだ」
リュカはビックリした様子もなく彼女を見つめる。
「あたし達もしかして前世で、何度も一緒だったんじゃないかしら!」
マリナはそう言って目を輝かせた。
「そうかもしれない。だって初めてであったときどこかで出会ったような不思議な懐かしさを感じたから」
リュカもあたりまえのように頷く。
「きっとソウルメイトよ」
マリナがリュカの手を握って自分の胸に押しつける。
「ツインかも」
リュカもマリナに体を密着する。
「凄すぎ」
マリナはこのあり得ない話を恋人と自然にやりとりできていることの不思議さに感激した。
「僕らずっと一緒に転生してきたのかもしれないね」
二人の話題は時空を超越した。
「生まれてくる前にあたしたちどこにいたのかしら」
マリナが瞳を輝かせながらそう言うと、
「もしかしたら僕たち天使だったのかも」
そう言って、彼はマリナのとび色の肌と、深い神秘的な黒い瞳をみつめた。
「あなたって極めつけのロマンチストなのね」
マリナはとても満足そうに微笑み、リュカの唇に軽くキスをする。
「……」
マリナの柔らかく甘い唇の感触はリュカの欲望に火を点けた。
リュカは腕を伸ばしてマリナをきつく抱きしめ、二人はむさぼるように唇を重ね合わせ手や足を絡ませ愛し合った。