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愛すること

 マリナがセンターを訪れておよそ二ヶ月半が経とうとしていた。

 ジャンに会わないが週に一、二回はセンターを訪れ介護士の案内で、父の様子を見に来ていた。その都度、幼い頃のDVの記憶が蘇るのを自分なりに克服しようと試みた。

会ってみようという気持ちは起きるのだが、やはり恐怖や怒りで心と体が萎縮し震えてしまうのだ。

 このまま会わずにいて他人のまま死んでいくのもいいのではないか。今更どうして再会する意味があるというのだ。そう、あたしは何のためにあの男と会おうとしているのか。

 愛と赦しだとブラック・ヴァージンは仰る。

 父親との問題は克服しなければならないわたしの人生の第一の関門だというのか。

 マリナは迷いが生じる度に「愛と赦し」と小さく祈るように呟いた。

 

 そして青空が広がるある日曜日の朝。

 マリナは祭壇の前で跪くと手を組み祈り始めた。

 どうか黒マリアさま、わたしに勇気をお与え下さい。わたしは決意しました。今日、父に声を声をかけてみようと思います。介護士の人とも連絡をとっています。だからきっと上手くいくと思うのです。どうかわたしにほんの小さな勇気をお与え下さい。今更会って何もかもわかり合えるとは思えません。もしかしたら二度と姿を見たくないと言われるかもしれません。その時は黙ってその場から離れようと思います。でももし解り合えたなら、わたしは父を赦そうと思います。

 マリナは長い祈りを終え、最後に黒いマリア様のペンダントを首に掛けた。それから静かに立ち上がって居間のテーブルに置いていた菊の花の束を抱きかかえた。

 今日は白い菊ではなくてわざと黄色い菊を持っていくことにしたのだ。

 マリナはアパルトマンの玄関の鍵を閉めてゆっくり階段を降りた。それからタクシーを拾って墓地に向かった。

 もう何ヶ月この道を通っただろうか。

 通い始めの頃を思い出す。

 久しぶりに父の姿を目にしたときの驚きと衝撃。

 殺してやりたいほどの憎しみの塊がやがてマリア様の愛で溶けてしまった。

 溶けた憎悪は消えたわけでは無いけれども心の奥底に沈んでいった。

 いつまた浮かび上がってくるかもしれないけれど、今はそれすらも愛で受け止めようとしているけなげな自分がいる。

 思いに耽っているとタクシーは墓地の前に車をつけた。

「ありがとう」

 マリナは黄色い菊を抱えて墓地に入っていく。

 まだミモザ介護センターの車は来ていない。

 先回りしていつもの場所に隠れよう。

 マリナは母のお墓に行くと、いつもの白い菊の代わりに黄色い菊の花を添えた。

(お母様、あたしは決心しました)

 マリナは胸の前で黒い聖母子像のペンダントを固く握り締め小さくつぶやく。

 ペンダントを握りしめた手が少し震えた。

 そろそろ父親が現れるだろう。

 いつもの所に身を隠さねば。

 少しするとステッキのコツ、コツという音と靴を摺る音がした。

 介護士の声もする。

 マリナはすぐに近くの墓石の裏に隠れる。

 もう、長いこと父の姿を見てきた。

 今の父から、あの頃の殺気は感じない。

 でも体は小刻みに震えている。

 父といつもの介護士の青年がマリナが隠れている墓石の前を通りすぎた。

 二人は母のお墓の前に立って、祭壇の黄色い菊の花を不思議そうに見ている。

「どなたかがお参りに来られたようですね」

 介護士の青年がジャンに話しかける。

「そんなはずはない。身内は私だけだから……」

 ジャンはなおも不思議そうに黄色い菊を眺め続けた。

 マリナはゆっくり隠れていた墓石のところから出てきて、二人の前に姿を現した。

「お父さん」

 マリナは勇気をだしてジャンに声をかけた。

ジャンはびっくりしてマリナの顔を見上げた。

 およそ二十年ぶりの父娘の再会だった。

 あまりの歳月にジャンはしばらく信じられないようマリナを見ていたが、マリナにエマの面影をみると、途端に地べたに頭を擦り付けるようにして何度も謝った。

「わたしが悪かった。赦しておくれ、赦しておくれ……」

マリナは恐る恐る地面に膝をつき、涙ながらに赦しを乞うジャンの背にそっと手を添えた。

「わたしが悪かった。赦しておくれ」

 なおもジャンは謝り続けた。

「……」

 マリナは涙を浮かべ父親の肩をそっと抱き締めた。

「良かったですね」

 介護士の青年もマリナのそばにかがみ込んでジャンの背中をやさしく摩る。

「……」

 ジャンは両目から、はらはらと涙を落とす。

「黄色い菊はわたしが添えました。お父さん、祈りましょう」

 マリナが父親の顔を横からやさしくのぞきこむ。

 父娘はエマの墓の前で手を組んで目を瞑った。


 マリナは父親と一緒に我が家に帰ってきた。二十年ぶりの我が家。薄汚れたキッチン、壁紙が変色してはげかけた部屋、少し傾いたテーブル。マリナは自分の部屋だったところに入ってびっくりした。十五のとき家を飛び出してきた時の、そのままの状態だったから。ジャンはマリナがいつか帰ってきてくれると信じて、マリナの部屋をそのままの状態にしてくれていた。そこだけが時間が止まっているように。

 どうしてそこまで思っていてくれたのなら、家出するほど暴力を振るったの……。

 その夜マリナは温かなベッドの中で、子供の頃にもどったように幸せそうに深い眠りについた。

 

 翌日からマリナは以前からあたためていた慈善事業の活動をはじめた。

 国のセーフティー・ネットワークにかからないような貧しい人々に社会復帰の手助けをし、貧しくて病院や施設にいけない人々を支援できるような団体を作ろうとしたのだ。

 父親のジャンも不自由な体を押してマリナの活動に加わった。マリナは敬虔なクリスチャンだったので、教会へも支援を呼びかけ、企業にも支援してくれるよう呼びかけたが、貧しいマリナを相手にしてくれる団体はほとんどなく。マリナは自身も生活をしなければならなかったので、占いのアルバイトをブリジットから紹介してもらいなんとかやりくりをしていた。

 もちろん父親の介護もそれに加わった。

 そんなある日、マリナはジャンが複雑骨折した足が痛むと言って苦しんでいたので、ベッドに横たわるジャンの足を優しく擦ってあげていた。しばらくしてジャンがなにかおかしいと言い始めた。マリナは何がおきたのかわからずジャンの方をみると、「指が動かせる」と言いう。そして「見ていてくれ」と言うと、ほんとうに今まで動かなかった足の指が動いたのだ。マリナはこの奇跡のような出来事が信じられなくて呆然としていたが、ジャンが立ってみると言い出したので、ジャンの足をベッドからゆっくり下ろして床につけてあげた。それからマリナはジャンに自分の肩をかすと、ゆっくりと立ち上がった。するとジャンはマリナの肩を離れ松葉杖も使わずに一人で歩き始めたのだ。

 奇跡がおきた、としか思えなかった。

 ジャンはしばらく歩くと、たどり着いた反対側の壁に両手を着いて体をささえた。マリナはすぐそばに来て抱きかかえるようにしてジャンを椅子に座らせた。親子はお互いを見つめるとそのまま抱き合って涙を流しながら喜び合った。

 それからというものマリナが触るといろんな病気や障害が奇跡のように治った。マリナは次々と病や障害に苦しむ人々に光を送りながら奇跡の治療をおこなっていった。神様は愛に目覚めたマリナを赦し、天国で天使だった時のパワーを返してあげたのだ。

 

 その後、マリナの奇跡の噂は瞬く間にパリ中に広まり、多くの人々がマリナを頼ってきた。それと同時に沢山の人々からの支援もいただき、マリナが目指していた慈善団体も小さいながら設立できた。設立の時の寄付金のリストには個人やさまざまな企業まで沢山の名前が書かれてあったが、その中にクロードの会社の名前も入っていた。彼も影ながらマリナを応援していた。しかし、自分の過去の行いを恥じたのかクロードは決してマリナの前に姿を現すことはなかった。

 

 マリナの社会活動が少し落ち着いた頃、マリナは気がかりだったお祖父さんのことをジャンに聞いた。ジャンも気がかりだったらしく、いつか訪ねようとしていたのだが、子供の頃虐待されていたことが忘れられず動けずにいた。実はジャンもDVの被害者だった。

 マリナは勇気を出してお祖父さんに会いに行こうとジャンに言った。ジャンも娘の言葉に勇気づけられて、祖父に会いに行くことを決意してくれた。

 三十年以上も音信不通の祖父。

 生きているかどうかもわからないけれども、ジャンとマリナの赦しと癒しの旅がはじまった。

 マリナに伴われてジャンは祖父がいるはずのパリ郊外サン・ドニのはずれにある小さな町に向かった。

 祖父の住む町は今も変わらず静かな田舎町だが、ジャンは十五歳の時にこの町を去って以来一度も訪れたことはなかった。

 ジャンは子供の頃のかすかな記憶を頼りに町を歩く。

 懐かしい光景が目に入り、彼は自分がかつて住んでいたところを思い出した。

 ジャンはマリナと一緒に古びたレンガ造りの建物に入ると玄関のベルを鳴らした。しばらくすると中から四十代半ばの女の人が出てきた。

「どなたですか?」

「私はジャン。これは娘のマリナです。昔この家に住んでいたものですが、父に会いに来ました」

 女は驚いたようにジャンを見ると言った。

「あなたが息子さんなのね! 私はここのお祖父さんのヘルパーでお世話をさせていただいている者です。お祖父さんからいつもあなたの名前を聞かされていたのですよ!」

 そういうと女は二人を部屋の中に案内した。

 薄暗い部屋の奥に祖父は寝ていた。

 ジャンは年老いて小さくなった父親を見て愕然とした。

 女はお祖父さんに「息子さんが来られましたよ」と耳元で言うと、祖父は聞き取れないほど小さな声で言った。

「わたしが悪かった……赦しておくれ……」

 声はそれ以上聞き取れなかった。

 ジャンは父親の手を優しく握りながら話した。

「もういいんですよ。あなたを置き去りにして家を出ていってすみませんでした。これからはいつも一緒にいますよ」

 ジャンがそういい終わると、ジャンの父親は見えない目から涙を流した。

 ジャンの父は病気で目が見えなくなっていた。

 マリナとジャンが祖父を訪れて数日後、二人が見守る中、祖父は天国に旅立った。ジャンの父親は息子に謝りたいと、ただそれだけを告げたい為にジャンを待ち続けていたのだ。

 ジャンは父を赦すことで自分も愛せるようになった。そしてマリナも……。

 その後、マリナの社会活動は順調にすすみ、たくさんのボランティアが交代で来てくれるようになった。活動の拠点となる施設も少しずつ増改築が進み、設備の整った施設になってきた。


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