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愛の光に包まれて

 マリナがマルセイユに来て五年が経っていた。

 旧港の西側にマリナは狭いアパルトマンを借り、そこから歩いて十分ほどのところにあるパン屋で生地をこねたりパンを焼いたりする仕事で生計を立てていた。

 マリナは好きなタバコもお酒もやめ、腰まであった長い髪をバッサリ切り、肩に軽くかかるほど短くした。

 しなやかで美しかった手は、手作業で荒れたり火傷したりして、かさかさになっていたけれど、マリナは苦もなく生き生きと働く。

 彼女はこの仕事を通して心も魂も磨かれていくような心地よさを感じていたから。

マリナは通勤途中の港の坂道にあるサン・ヴィクトール修道院での祈りを日課にしていた。

 毎朝、マリナはこの聖堂で一日の平和を祈り、帰りはその日が平和に過ごせたことを黒いマリア様に感謝し祈りを捧げた。

 仕事がない日は海をみにでかけることが多く、日が暮れるまで澄んだ海と宇宙まで突き抜けるほどの青い空を眺めて過ごすのだ。

 マルセイユの碧の地中海、白いカランク、突き抜ける青い空、柔らかそうな雲はマリナの傷ついた心を少しずつ癒やした。

 マリナはマルセイユに来てからこの五年間、一度もパリに戻らなかった。友達と連絡も取らなかったが、ブリジットとは手紙のやり取りを続けていた。

 それまで友人との連絡はスマホでチャットのやり取りばかりだったので、手紙を書きなれていなかったマリナにとって、ブリジットとのやり取りはかえって新鮮だった。

 そんな平和で静かな日々を過ごしていたマリナだったが……。

 

 その日、一日の仕事を終えたマリナは、黒いマリア様に祈りを捧げるため、いつも通うサン・ヴィクトール修道院に立ち寄った。

 太陽が沈みはじめ、青かった空がピンク、赤、朱、黄金、刻々と変化する。

 修道院の要塞のような硬い城壁が、空の美しいグラデーションに伴って幻想的なシルエットを浮かび上がらせていた。

 マリナが聖堂に入ると、いつものように地下礼拝堂に入る扉の鍵を管理人が開けてくれたので、彼女は真っ暗な階段をゆっくり下りた。

 白い照明が灯る地下の礼拝堂には誰一人いなくて、そこに居るのはマリナだけだった。

 マリナはいつものように礼拝堂の最前列で跪き、左の壁にひっそり掛かる黒い聖母子像を見上げた。

 胸の前で手を組み目を瞑る。

 無限の静寂が彼女を覆う。

 無心に祈るうちに温かさに包まれる。

 その時、目も眩むほどの閃光が走った。

「あっ!」

 マリナはびっくりして目を開けた。

 目の前に金色に光り輝く玉が現れたのだ。

 光の玉は一瞬にしてマリナを包み込み、礼拝堂のすべてをピンクゴールドの光で満たした。

 マリナは何が起こったのかわからずただ茫然とたたずんだ。

 溢れるほどの光がマリナに降り注ぐ。

 頭からつま先まで雷に打たれたような衝撃が走った。

 それは黒いマリア様の愛の波動だった。

 愛の波動はマリナの全身を稲妻のように突き抜け、彼女は光に体が溶けてしまうのではないかとさえ思った。

 マリナは体中の力を失いその場に倒れそうになったが、両手で必死に支えた。

 黒いマリア様の深い愛のバイブレーションはマリナの魂を激しく揺さぶり、彼女の魂はマリア様の愛の波動に打ち震えた。

 マリナは黒いマリア様の愛の光に包まれて、魂からこみ上げてくる歓喜の声に涙が溢れて止まらなくなった。

黒いマリア様はマリナに語りかけた。

「愛しなさい。赦しなさい」

黒いマリア様の声は一瞬だったが、愛に満ちた優しい響きはマリナの魂を貫いた。

 マリナはすべてを悟った。

 辛かった子供時代、優しいブリジットやリュカとの出会い、彼を裏切り闇を彷徨ったこと、何もかも失って転落したこと、導かれるようにしてマルセイユに来たこと。すべてはこの日のためにあったのだと。

 黒いマリア様の声がしなくなるとマリナを包んでいた光はいつのまにか消えていた。

 マリナは崩れるように床に倒れ、光が消えた後も薄暗い礼拝堂の中で涙を流し続けた。

「愛と赦し……」

マリナの心の中で〝愛と赦し〟という言葉が無限に繰り返された。

 彼女はついに人生の使命を知ったのだ。

「愛と赦し」

 黒いマリア様の言葉をマリナは何度も噛み締めて魂に刻み込んだ。

「わたしは愛すること赦すことを学び、多くの人に伝えねば」

 人生の使命を悟ったマリナはもう一度、占い師として多くの人の役に立ちたいと思った。


 その夜、マリナはブリジットに手紙を書いた。

 パリに戻ることを告げるため。

翌日、マリナは再び、サン・ヴィクトール修道院を訪れた。

 港の坂道を上っていく。

 陽気に恵まれ二月だというのに、ほのかに温かく心地よい風がマリナの頬を優しく撫で、長くなりかけた黒髪を優しく梳いてくれる。

 空を見上げると太陽がまぶしく輝く。

 吸い込まれそうな青空。

 ふわふわの雲。

 今にも天使たちの笑い声が聞こえてきそうな春の陽気。

 マルセイユに来て五年、マリナにとってここは第二の故郷になった。

「見渡す限りの広い空、透き通るほど綺麗な碧い海。全てが光で美しく輝いている……リュカと此処に来て、生まれて初めて海をみて、生まれて初めて夢をもった。そして今、この土地で真実の愛に目覚めることができた。ここは私の魂の聖地」

マリナは思わず胸の前で手を組んで、天を仰ぎ見る。

 気がつくといつのまにかサン・ヴィクトール修道院の前に立っていた。

 いつもより人が多く感じる。

「おはようございます」

 顔なじみの管理人に挨拶する。

「おはようございます。今日は、二月二日、聖母のお潔めの祝日なんですよ」

 マリナの姿が見えると管理人は緑のローソクを持って、クリプトへのドアを開けてくれた。

「ありがとうございます」

 マリナは輝くような笑顔を見せて地下に降りていく。

「ブラック・ヴァージン……」

 黒い聖母子像の前でマリナは跪き手を組んだ。

 ほんの一瞬でも祈りは心を清らかにしてくれる。

「ブラック・ヴァージン。わたしは他者を愛します。自分を愛します。他者と自分を赦します。わたしは平和を祈ります……」

 

 サン・ヴィクトール修道院で祈りを済ませたマリナはアパルトマンに戻りシャワーを浴びた。

 いつもと同じ温度なのにお湯がとても温かく感じる。

(給湯器の故障かしら)

 マリナは早々とバスルームから出てきて、ドライヤーで髪を乾かし始めた。

 洗った髪を乾かしながら、マリナは額の髪をゆっくりとかき上げた。

「まさか……」

 眉間を指先で触ってみる。

「な、ないわ」

 マリナは鏡に映る自分の顔をみてびっくりした。

「傷跡がない」

 マリナは繰り返し傷のあった所を指で触ってみたが、傷跡やシミひとつなく。

「奇跡が」

 マリナはその場に跪き胸の前で手を組み、

「ああ、ブラック・ヴァージン、ブラック・ヴァージン、ブラック・ヴァージン……」

 涙を流しながらくりかえした。

 それは黒いマリア様からのギフトだった。


 そのころ昏睡状態に陥ったクロードは生死の境をさまよっていた。医師が家族に別れが近いことを告げると、クロードの妻と子供たちは彼に天の奇跡が起きることを必死に祈り続けた。

 酸素マスクをつけられて苦しそうに呼吸するクロード。

 彼の肉体はどんどん衰弱する一方だった。

 昏睡状態が続く間、彼の魂は闇を彷徨った。闇の中でクロードの魂はとても悲しんだ。(こんなことになるのなら愛に生きればよかった……)

 闇の中でクロードの魂は激しく悔やんだ。

(私は多くの人の愛を奪い、多くの人を傷つけ、多くの人の幸を奪ってきた……)

 闇の中でクロードの魂は気づいた。

(もし生まれ変われるのなら今度は愛に生きようと……)

 そう思った瞬間、クロードの魂の方に金色の光が向かってきた。光はどんどん近づき、次第に大きくなるとクロードの魂を金色の光で包んだ。

 金色の光に包まれながらクロードの魂は神様の深い愛を感じ激しく震え涙した。やがて彼の魂は神様の愛で満たされて安らいだ気持ちになった。

 その途端、クロードは激しい痛みと吐き気を感じ意識を取り戻した。目を開けると妻や子供達が涙を浮かべて彼の顔をみていた。クロードは死の闇から戻ることが出来たのだ。 信じられない光景をまのあたりにして戸惑う医師と看護師たち。

 妻や子供達を見つめる彼の目は愛に溢れていた。クロードは涙を浮かべながら妻や子供たちの手を握り締め、生かされていることを神様に感謝した。

 意識を取り戻してからのクロードの回復はめざましく、首のこぶはなくなり二度と再発することもなかった。奇跡的に一命を取り留めた彼は、数週間後、家族に付き添われながら病院を退院すると別人のように愛に溢れた人になった。ようやく彼は愛より強いものは宇宙には存在しないことに気づいたのだ。

 クロードはすべての財産を失ったが家族を失わずにすんだことを神様に感謝し妻や子供達をとても愛し大切にした。

 彼は(愛は家族からはじまり、心の平和も世の中の平和も家族の愛からはじまる。物質で人の心も愛も買えると思った傲慢さが自分を破滅に追い込んだのだ! もしあのとき仕事仲間が愛で繋がった関係だったなら、彼らは何があっても私を見捨てることはなかっただろう。愛は見えなくて、信じることが出来ない者にとっては不安なものだが、愛を信じ愛で結ばれた関係なら、これ以上強い絆はない。なぜなら愛は宇宙で一番強いのだから……)そう何度も心の中でくりかえした。

 その後、妻の献身的な愛に支えられ、クロードは小さいながらも会社を再建し事業を再び続けることが出来るようになった。そして利益が出たときは慈善団体にその一部を寄付するようにした。幸せを分かち合うことで自分も世の中の人も幸せになれるという真理に気づいたから。


 神様の言葉を聞いたマリナは真実の愛に目覚め「愛し赦しなさい」という神様の言葉を何度も噛み締めて魂に刻み込んだ。マリナはようやく自分の天命を悟った。

「わたしは愛と赦しを学び多くの人に教え広めなくては」

 こうしてマリナは世の中の恵まれない多くの人に光を送ろうと決意した。

 マリナが部屋の荷物のかたづけをはじめた時、偶然、空の香水の瓶が荷物の中から出てきた。それは、昔、リュカからプレゼントされたスミレの香水の空き瓶で、リュカが仕事でニースに行ったとき、わざわざトゥーレット・シュール・ルーから買ってきてくれた物だった。マリナは懐かしくなって、思わずその瓶を手に取ると、蓋を開けて空の瓶に鼻を近づけた。マリナは瓶に微かに残る、スミレの甘くて気品ある香りを嗅ぐと、リュカとの幸せだった思い出がよみがえりとても切なくなった。急に思い立った彼女は、予定を急遽変更してその村まで行ってみることにした。

 ニースからカーブだらけの山道を、マリナはバスに揺られながらトゥーレット・シュール・ルーに着くと、ものすごい人出でごった返していた。トゥーレット・シュール・ルーはスミレ祭りの真最中だった。

 マリナはとても嬉しくなって、バスから急いでおりると、その村の中心広場に向かった。広場のたくさんの露店には、お菓子、クレープ、スミレの花飾りや香水など、スミレの商品がたくさん売られていた。そして、村のメインストリートではすでにパレードが始まっていて、スミレやミモザ、ガーベラなど、たくさんの春の花で飾られた山車、クラシックカー、ワゴンや演奏隊が行進していた。その日マリナは、スミレやミモザで飾られた山車やワゴンの写真をたくさん撮ったり、スミレの花飾りやお目当てのスミレの香水を買ったりして、スミレ祭りを心ゆくまで楽しんだ。

 その翌日、マリナはマルセイユを発った。


 マリナは五年ぶりにパリに戻ってきた。

 真っ先に向かったのはブリジットのところだ。

「先生、ただいま帰りました」

 玄関先でマリナとブリジットは抱き合い、久しぶりの再会を喜んだ。

「マリナさん、おかえり。マルセイユは如何でしたか?」

 ブリジットはマリナを部屋に通すと、キッチンにお茶をいれにいった。

「はい、全てが美しい街でした」

 テーブルに腰掛け、マリナは懐かしそうに部屋をみまわす。

 祭壇のマリア様の像や壁の高いとこに掛けられたキリストの絵。

「サン・ヴィクトール修道院はどうでしたか?」

 少ししてブリジットがお茶とクッキーを持ってきた。

「はい、ピンクゴールドの光をいただきました」

 マリナはクリプトの聖母子像の前で突然禁色の光りに包まれた奇跡を話した。

「まあ、それは黒いマリア様の愛の光ですよ」

 ブリジットはマリナの話を聞いても驚きもせず、自分の事のように喜ぶ。

「奇跡も頂いたのです」

 マリナは指先で前髪をかき揚げて額を見せた。

「傷が無くなってるわ!」

 ブリジットはマリナの両手にそっと手を添えた。

「ブラック・ヴァージンは、こんなあたしでも愛し赦して下さりました」

 マリナの目頭に涙が滲む。

「マリア様の愛はとても大きく深いわ」

 ブリジットも両目に涙を浮かべた。

「はい……」

 マリナはブリジットに抱きしめられ、咽び泣いた。

「これからどうするの?」

 ブリジットは心配そうにマリナの顔を覗き込む。

「パリに部屋をさがして仕事を見つけます」

 何もかも失ったマリナだったので、何もあてはなく、兎に角生きるために仕事を見つけなければならないと思った。

「仕事なら前に勤めていたパリの天使のお店が求人しているそうだから、あたってみたらいいわ」

 咄嗟に、ブリジットは天使のお店のオーナーから、よい占い師がいたら紹介して欲しいという話を思い出した。

「……でも」

 もう占い師としては再起できないとマリナは覚悟していたので、その話に躊躇いをみせた。

「あそこのオーナーは知り合いだから、あなたのことを話してあげるわ。あなたの力を世の中のために役立てないともったいないからね」

 そんなマリナの不安など意にも返さず、ブリジットは自信を持って彼女を紹介するつもりのようだ。

「あたしは占い師、失格です」

 マリナはそういってうつむく。

「大丈夫よ。人の噂も七十五日って言うでしょ。もう心配ないわ」

 ブリジットは微笑み、そんな彼女を勇気づけた。

 こうしてマリナは天使のショップで再雇用が決まり、部屋もオーナーの友人が不動産屋なのですぐに見つかると、占い師として再スタートした。



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