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闇を彷徨う

 リュカと別れたマリナは心の隙間を埋めるように、クロードとの関係を深めていった。クロードにはマリナの他に複数の愛人がいたが、マリナはクロードを独占しようと、彼の傍をかたときも離れようとしなかった。

 マリナは欲と嫉妬と寂しさに狂い、クロードを妻から奪いたいと欲し、あらゆる手段を使って彼を引き留め、家族のもとへ帰らせまいとした。

 ところがクロードはマリナを見抜いていたので、なかなかマリナの思惑どおりにはいかない。クロードにとってマリナはあくまでも愛人の一人にすぎないのだから。

マリナがリュカと別れて数週間後、突然、クロードがマリナの店にやってきた。

「待ってたのよ。幸せ!」

 マリナはクロードに駆け寄った。

 ところがクロードは物凄い形相でマリナを睨み、

 バシッ

 マリナの頬を激しくひっぱたいた。

 あまりの勢いにマリナがふらつくと、クロードはマリナの髪を鷲掴みにしながら、

「この売女が! おれをこけにしやがって!」

 と大声で叫び、マリナの頬を繰り返し殴った。

 マリナが口から血を流し床に倒れると、クロードは床にうずくまる彼女に唾を吐き、

「リュカという奴と同棲しているそうだな! 貴様は俺を侮辱した! このクソが!」

 と口汚く罵った。

 マリナよりも疑り深く嫉妬深いクロードは、部下に命じて、密かにマリナの身辺調査をさせていたのだ。

マリナは床にうずくまったまま沈黙した。

「なんとか言ったらどうだ!」

マリナは背中で息をしながらかすれた声を発した。

「ごめんなさい……」

クロードはそれを聞くと、マリナのわき腹を蹴上げた。

 店内には青ざめた使用人の女の子が茫然と立ち尽くし、床にはクロードにむしられたマリナの髪の毛と、口の中が切れて出た血が、あちこちに飛び散っていた。

 クロードの姿が消えるとマリナは気を失った。

 気がつくとマリナは病院のベッドにいた。


 何もかも失ったわ。

 マリナは生きる亡霊のようにやつれ果てていた。


 事件から一週間後、マリナは病院を退院した。

 占いの店を再開しようとしたが、クロードは全ての資金を引き上げていた。

「お店の預金がなくなっているわ」

 マリナは事務所の金庫を開けてみた。

「現金だけじゃない。貴金属も金貨も株券も何もかもなくなっている」

 マリナは愕然となり金庫の前にへなへなと座り込んだ。

「お店のものは全てあたしの名義になっていたはずなのに」

 マリナが床を叩いて悔しがっていると、

「入院している間にクロードさんの弁護士が全て引き上げていきました」

 留守を守っていた事務員が全てを話した。

「仕方ないわね。これからはあたしの信用でお店を再建してみせるわ」

 そう決意すると、マリナは取り引きのあった銀行や仕入れ先に契約の継続を申し入れたのだが、

「クロードさんが保証人に立ってくれないんじゃ取り引きは出来ません」

 と、どこも相手にしてくれない。

 クロードの後ろ楯を失ったマリナを信用してくれる取引先はまったくなく、瞬く間に資金繰りに行き詰まった。

「ちくしょう!」

 それでもマリナは自分の信用で店をやっていけると思った。

 ところが追い討ちをかけるようにお客が日に日に来なくなり、ある日を境に、とうとう誰もこなくなった。

「どうして客が来ないの?」

 どう考えてもマリナに心当たりはなく、

「クロードのせいに決まっているわ」

 使用人の前で露骨に彼を罵る。

(もうこのお店もおしまいね)

 マリナを見かね、事務員達は次々と辞めていく。

「人間なんてしょせん薄情なものよ」

 マリナは悪いのは全て人のせいにしてしまった。

 実は、お店から客足が遠のいたのは、他ならぬマリナ自身が原因だった。

 マリナは自分が気に入らないお客達に、悪い方に進むような占いの結果を伝えていたことが恨まれたのだ。当然、不愉快に思った人達は、マリナは当たらないと噂し、その噂はネットで瞬く間にパリ中に広まり客足が途絶えたのだった。


 マリナは自力でなんとか頑張ろうとしたが、一度失った信用はなかなか戻らなく、資金繰りも行き詰まり、失意のまま占いの店を閉めることになった。

「せっかく手に入れたチャンスだったのに」

 空になった店舗のシャッターをガラガラと真ん中辺りまで押し下げ、二階の事務室の窓ガラスを見上げる。

 窓の向こう側にクロードの勝ち誇った顔が薄ら見えたような気がした。

「勝手に笑えばいい。どうせあたしは馬鹿で愚かな女よ」

 マリナはシャッターをハイヒールで蹴飛ばして歩き出す。

「アッ」

 右のヒールが折れた。

「チクショー」

 マリナはヒールを脱ぎ捨て裸足で歩く。

 小雨が降りだした。 

 冷たい風がセーターに染みこんでくる。

 肌寒さが増す。

「あたしのような貧乏人は、いつもお金持ちの気まぐれにもて遊ばれる。そう、おもちゃ。彼らにとって底辺のあたしらの人生なんて暇つぶしのゲームの駒に過ぎない」

 マリナはリュカのいない、二人で借りた部屋に戻ってくると、いつまでも泣き叫んだ。

「もうおしまいだわ」

 マリナはアブサンをラッパ飲みして睡眠剤を胃に流し込む。

 セーターの左の袖をめくりあげ、ナイフを右手に握りしめた。

(もう人生にうんざり)

 彼女は呟いた。

 生き地獄のような現実に比べれば死ぬことは恐くない。

 マリナは鋭い刃をたてて左腕の手首をざっくり切った。


 突然、目も眩むほどの光が差し込んできた。

「……」

 ひどい吐き気がする。

 頭が割れるように痛い。

 こめかみの辺りから単調な電子音が聞こえてくる。

「マリナさん、しっかりして下さい」

 処置室でマリナは切断した手首の縫合をされ、右腕に輸血用の点滴が差し込まれていた。

「マリナ先生、しっかりしてください」

 店の残務整理を最期まで手伝ってくれた学生スタッフが、店の鍵を握り締めながら、心配そうにマリナの顔を覗き込む。

(鍵を届けるように頼んでいたのか……)

 

 退院後のマリナは、なにもかも失ったショックから精神的にさらに不安定になり、抗うつ剤や安定剤と睡眠誘導剤をたくさん服用して、苦しさから逃れようとお酒もたくさん飲むようになった。

 マリナの心は酷く荒み、肌は荒れ、男達を魅了した美しい面影は見る影もなくなった。薬の副作用で体は鉛のように重く疲れはとれず、それどころか溜まる一方だった。

 闇であがきながらもマリナは占いの仕事を続けたいと思い、元のバイト先やそのほかのお店も色々あたってみたが、どこも相手にしてくれず、貯金も底をついたので、生きるために仕方なくモンマルトルのカフェバーの仕事に戻ることにした。

 店の日系人オーナーの好意でマリナは元いたバーにスタッフとして戻ることができたが、頂点を極めたときのプライドや贅沢が忘れられなかった。

 マリナはバーの仕事を馬鹿馬鹿しいと思い、真面目に働く同僚の女の子を見下して、自分はこんな所にいるような女ではないと、仕事の手抜きばかりしていた。

ある晩、マリナが仕事中にお店の女の子と酒を飲みまくってばか騒ぎをしていると、酔ってはしゃぎ過ぎた拍子に足が絡まり、弾みでフロアーのテーブルに顔をぶつけ倒れた。テーブルのグラスは粉々に割れ、マリナは顔面血まみれになって床にうつ伏せたまま起き上がれなくなった。しかも大量にアルコールを飲んでいたので出血が激しく、マリナが病院に担ぎ込まれたときには意識がないほどだった。

 幸いマリナは一命を取り留めたが、怪我をした場所が悪く、マリナの眉間に縦長の深く醜い傷が残った。

 退院してからアパルトマンに戻ったマリナは鏡で額の傷をみながら思い出した。

 昔、マリナが父親の暴力に耐えかねて家を飛び出すとき、父親の頭を花瓶で殴って大怪我させたことを。

「血まみれになって床にうずくまる父を見捨ててあたしは家を出てきた。あの時あたしがしたことが自分に返ってきた……あたしを信じてくれたお客さんを傷つけたことが返ってきた……なにもかもブラック・ヴァージンを裏切ったあたしのせい」

その後、マリナはお店のオーナーから、

「少し体調を整えてから復帰したほうがいい」

 と勧められたので、しばらく自宅で静養することにした。

 マリナがお店を休んでいる間、同僚たちが入れ替わりマリナの様子を見に来てくれ、差し入れをしてくれた。

 マリナは皆の温かさや優しさに触れて涙が止まらなくなり、お店の同僚たちを見下していた自分を恥ずかしく思った。

 何もかも失い残ったのは額の醜い傷だけとなったマリナだったが、傷口の抜糸もおわり精神的にも少し安定しかかると、ブリジットに会いたいと思った。

(今のあたしはあまりにも情けなくて、とてもブリジット先生に合わせる顔がない。でもブリジット先生にどうしても会いたい)

 マリナがさっそくブリジットに電話すると、

「すぐにでも遊びにおいで」

 と優しく言ってくれたので、その日のうちに会えることになった。

 マリナはブリジットの声を電話越しに聞いただけで涙がこぼれて止まらなかった。

 鏡を見ながらマリナは前髪で額の傷を隠して、約束の時間に間に合うように出かけた。 マリナがメトロに乗りブリジットの家に向かっていると、最後に話してから今日まで何十年も経ったような気がした。

マリナがブリジットの家に着くとブリジットは思いっきり彼女を抱きしめた。

「よく来てくれたわね。遠慮なく上がって」

 ブリジットはすぐにマリナを家の中に案内し応接室に通した。

 マリナは部屋のソファで待ちながら、ブリジットが変わらず質素な生活をしているので、(先生ほどの能力があればどんな贅沢な暮らしでも望めるのに、どうしてこんな質素な生活をしているのかしら)

 と不思議にさえ思った。

 ブリジットが、香りのいい紅茶と美味しそうなクッキーを持って、部屋に入ってくる。

「ほんとに久しぶりね!」

 はじめて会ったときのようにブリジットはにっこり微笑む。

「先生、ご無沙汰しています」

 マリナも彼女の前でなら心を素直に表現できる。

「随分痩せたみたいだけど、体調はいいの?」

 ブリジットはマリナの顔をのぞき込んだ。

「ダイエットのしすぎで……」

 マリナは目をそらした。

「おやおや、なんでもやりすぎは良くないよ。ほどほどにしなくてはね」

 ブリジットは紅茶の香りを楽しむようにして口にはこぶ。

「先生……」

とマリナは言いかけて躊躇った。

「どうしたの?」

 ブリジットはティーカップをテーブルの上に静かに置いた。

マリナは黙ったまま俯いていたが、しばらくして、リュカと別れたことやお金に目が眩んでクロードの愛人になってしまったこと、クロードから捨てられて店を失ったこと、占い師になる夢も破れてバーの仕事に戻ったこと全てを話した。そして洗いざらい話し終えると、マリナは我慢していた悲しみをすべて吐き出すように大声で泣きながら叫んだ。

「あたしは何もかも失った! もう何もありません! あたしは汚れた女、生きる場所も生きる価値もありません!」

ブリジットはマリナのそばに立つと、泣き叫ぶマリナの肩を抱きしめながら優しく背中を擦った。

「先生」

 マリナはいつまでもシクシク泣き続ける。

「よく頑張ったわね。あなたは自分に誇りをもっていいのよ」

 マリナが少しずつ落ち着いてくるとブリジットは優しく言う。

「いいえ、私はお金に体を売った汚れた女です。しかも何もかも失いました。もう生きる価値はありません」

 マリナはむせび泣く。

「マリナ、よく聞いて。あなたは自分がしてきたことがどんなことだったのか理解しているでしょう。そして自分は間違っていたと気付いている。人間は誰でも過ちを犯すものよ。だけどそこから色々なことに気付きを得て人生を学ぶの。あなたは間違ったけど今はその過ちに気付いているでしょう。だからあなたは神様が下さった階段をまた一段上ることができたのよ」

 ブリジットはマリナの両肩に静かに手をおいた。

「先生、あたしは身も心も汚れ、愛もお金も失った。こんな汚れたあたしに神様の階段を上がる資格なんてありません。もう何もかも終わりです」

ブリジットはマリナの深い悲しみを自分のことのように感じとても胸を痛めた。

「マリナ、落ち着いて聞いて、あなたは身も心も汚れたというけれども、あなたの魂は汚れたりはしていない。あなたはなにもかも失ったと言うけれども、あなたはなに一つ失ってはいない」

 ブリジットは我が子をなだめる母親のように言う。

「あたしには、おっしゃる意味がわかりません」

 マリナは顔を伏せたまま泣きじゃくる。

「あなたの魂は大きなダイヤモンドの原石のようなもの。原石のままのダイヤはただの石ころみたいなものだけど、カットすれば輝きだすでしょう。ダイヤはたくさんカットされて輝きを増し、あの美しいダイヤモンドになるの。今のあなたの魂は荒く削られたダイヤの原石。ダイヤは削られれば削られるほど輝きを増すように、あなたの魂は大きな試練という荒波に削られて輝きを増したの。マリナ! 自分の魂の輝きを信じて!」

 ブリジットは語気を強めた。

「魂は削られるほど輝く……」

 マリナは少しばかり顔を上げる。

「ええ、そうですとも、あなたの魂は輝いているわ!」

「あたしの魂が輝いている……」

 ブリジットの確信に満ちた目が心と魂に飛び込んでくる。

「マリナ、あなたはとても大きなダイヤモンドの原石のような魂を神様からいただいて、この世に転生してきたの。だからそれだけ試練も大きいのよ。あなたは納得できないかもしれないけど、激しい荒波で削られたあなたの魂は、いまどんどん輝きを増しているところなの。だからあなたは何も失っていない。それどころか今のあなたの魂は、まぶしくらいに輝いているわ」

マリナはブリジットの言葉を深く、そして何度も噛み締める。

 ブリジットはそんなマリナを優しく見守り続けた。

「先生……あたしが何もかも間違っていました。人と自分を比較することばかり考えていて、嫉妬したり、僻んだり、妬んだりして、自分のことばかり考えていました。愛されることばかり期待して、愛することをしませんでした。もしあたしが愛することをしていれば、嫉妬や妬みや僻みで心が暴れても、それに振り回されずにすんだと思います。思えば、命がけであたしを生んでくれた母は、命がけであたしに愛を教えてくれたのですね……愛とはただ与えるものだと今わかりました」

マリナが話し終わると、ブリジットは涙を浮かべながらマリナをわが子のように抱きしめ、マリナもまた涙を流しながらブリジットをきつく抱きしめた。

 ブリジットの愛に溢れた話を理解したマリナはようやく他者を愛するという気付きを得たのだった。

 ブリジットの所からアパルトマンに帰ってきたマリナはあることを決心した。それはパリを出てマルセイユに行くことだった。

 リュカと一緒に行ったマルセイユでマリナは生まれて初めて海をみた。あのときマリナは初めて心に光を感じ、占い師になるという夢を持ったのだ。

 全ては黒いマリア様のお導きだった。

 マリナはもう一度、サン・ヴィクトール修道院で黒い聖母子像を拝みたいと願った。あそこで自分の心の声を魂の声を感じたいと思った。

翌日、さっそくマリナは部屋のものをすべて整理した。

 高く売れそうな高級バッグやコート、ヒール、ブーツ、アクセサリーを売却すると、旅費と当面の生活費になった。家具やテーブル、その他日用品はすべて処分し、バーには退職することをオーナーに伝えた。

 三日後、マリナはブリジットにだけ行き先を伝えると、手荷物一つ持ってマルセイユに向かう列車でパリを去った。



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