赦すこと
マリナと別れ実家に戻ってきたリュカは、ほとんど食事も喉に通らないほど辛い毎日をすごしていた。
心は無限に虚しく、砂を噛むような気持ちは永遠に続くように思われた。
(マリナと過ごしたあの夢のような時間。マリナに数えきれないほど愛していると伝え、マリナからも数え切れないほど愛していると言われた。あの愛は本物の愛ではなかったのか……)
リュカの心は来る日も来る日も、虚しさと悲しさと悔しさと怒りで暴れた。
心が荒れ狂ううちにリュカの悲しみはいつしかクロードにむけられ、マリナを奪ったあの傲慢な忌まわしい強欲資本家を懲らしめてやりたいという衝動が大きく膨らんだ。
(大切な家庭がありながら家族を裏切り、人の愛を奪い、お金で人を買う悪魔。悪魔なら滅ぼされて当然だ!)
そう思う気持ちでリュカの心はかき乱れ、憎悪の渦に呑み込まれそうになる。
リュカはマリナへの失望とクロードへの恨みと憎しみで悩み苦しみ、荒れ狂う心に振り回されながら、思いつめては気を取り直し、気を取り直しては思いつめる毎日を過ごしていた。
そんなある日、リュカはマリナがお世話になっていたブリジットのことを思い出した。
(あの占い師さんに、復讐が成功するか訊いて見るとするか)
リュカがブリジットと話したのは、マリナと一緒に行ったときの一度だけだったが、とても優しくて人格の高い人だという強い印象が彼の記憶に残っていた。
リュカはさっそくブリジットに電話した。
「今日の午前中なら空いてますよ」
タイミング良く予約を取ることが出来た。
彼はすぐに出かける準備をする。
「欲の深い資本家め! 必ず懲らしめてやる」
そう呟き、約束の時間に間に合うよう家を出た。
リュカは約束の時間より少し早くブリジットの家に着いた。
玄関先で親しみのある優しい笑顔のブリジットが迎えてくれた。
(あのときもブリジットは優しい笑顔で迎えてくれたけど、今日はあの時とは比べられないほど笑顔が心に沁みてくる)
リュカはマリナと一緒に初めてここに来たときのことを思い出した。
ブリジットの優しいオーラにリュカの傷ついた心はすこしばかり癒やされた。
応接室に通されたリュカは椅子に腰掛けてブリジットを待っていると、少ししてブリジットがハーブティーとクッキーをもって部屋に入ってきた。
「お久しぶりですね」
そう言いながらブリジットはリュカにお茶をすすめる。
リュカはハーブティーの甘い香りを楽しみながら、温かなお茶を少し口に含んだ。
「香りがとてもいいですね」
本当に美味しく感じる。
「まぁ、ありがとう。リフレッシュというお茶よ。少しは疲れがとれたかしら?」
ブリジットはあでやかに微笑む。
「はい! とても癒やされます」
リュカはマリナと別れて以来、こんなにも安らいだ気持ちでお茶を飲むのは、ほんとうに久しぶりだと思った。それほど心が疲れていたのだろう。
ブリジットは、にこにこしながらリュカを見ていたが、
「かなりお痩せになりましたね。体調でも崩されましたか?」
急に心配そうな顔をして尋ねた。
「いえ、食事がすすまなくて……」
リュカの顔がみるみる曇る。
「病院にいかれたほうがいいのでは?」
ブリジットは心配するような目つきになる。
「……」
リュカは一瞬ためらい、少し沈黙したあと、思い切ってマリナと別れたことをブリジットに打ち明けた。さらに、今マリナがつきあっているクロードという男に会って、マリナを本気で幸せにする気があるのか確かめたいとも言った。
ブリジットは驚いてリュカの話をしばらく黙って聞いていたが、
「あなたの気持ちはわかるけど、その男に会ってはだめです」
とリュカが話し終えると最後に強い口調で諭した。
リュカはブリジットなら賛成してくれるとばかり思っていたので、意外な返事に失望した。
「なぜですか? わたしは、ただあの男と話したいだけなのです」
リュカの心は恨みと憎悪でいっぱいだった。
「弾みがこわいのです」
ブリジットの脳裏には、リュカとクロードが揉み合う姿が見えていた。
「弾み、ですか?」
リュカは何を言われているのかなかなか理解できない。
「ものの弾みです」
次の映像はリュカと揉み合うクロードが何かに躓いて勢いよく道路に頭をぶつけるところだった。
「よくわかりません。私は話し合いをするだけなのです。決して暴力に打って出るようなことはしません」
リュカの目は言葉とは裏腹に悪魔のように暗く鋭かった。
「リュカさん、あなたのもつ悲しさ悔しさ怒り恨み憎しみという憎悪のエネルギーが、今、あなたの心の全てを占めています。それが強い念となって想定外のことを引き起こそうとしているのです」
ブリジットの目も、ここで止めねば大変なことになると真剣そのもの。
「どういう意味ですか?」
憎しみに囚われたリュカには到底受け入れがたい話だ。
「話し合いのつもりが、ハプニングに繋がりそうです。万が一あなたと相手が揉み合いにでもなれば、あなたの念が相手に伝わり、どちらかが死ぬような大事故につながりそうです。憎悪を持ったときの弾みほど怖いものはありません」
ブリジットはそう言ってリュカを静かに見つめた。
「まさか……」
そう言われたもののリュカはそんなことには絶対にならないと思う。
ブリジットもまた、憎悪に囚われた今のリュカにすぐに理解してもらえるとは期待していない。
「どうです、チャネリングを受けてみませんか?」
ブリジットは神様の言霊を降ろして説得するしか無いと思った。
「チャネリング?」
ブリジットの提案にリュカは意表を突かれたようにポカンとなる。
「どうしてマリナとこのような残念な結果になったのか、それを神様に訊いてみるのも良いかと思うの」
ブリジットはリュカを真っ直ぐ見据えた。
「……それではお願いします」
リュカはチャネリングのことは知っていたが、今まで受けたことはなかったので半信半疑だ。しかし、今はブリジットの申し出を快く受けることにした。
「では始めます」
リュカのチャネリングがきまると、ブリジットは部屋の祭壇の前で跪き、胸の前で十字を切り手を組んで祈りはじめた。
「神様……」
祭壇の上にはマリア様の像や絵がたくさん飾られている。
ブリジットは黙々と祈り続けていたが、五分くらいすると「ありがとうございます」と言って胸の前で十字をきり立ち上がった。
「メッセージです」
ブリジットは椅子に腰掛けて、天界から降りてきた神様の言霊をリュカに告げた。
「赦しを学びなさいと神様は言われています」
ブリジットはなおも胸の前に手をあてて目を閉じている。
「赦し……」
リュカには信じ難いメッセージだった。
「赦すことです。あなたは家族を裏切ったお父様をまだ恨んでいるでしょう。恨みを手放して赦してあげなさいと言われています。同じようにマリナのこともクロードのことも怒りや悲しみ恨みや憎悪を手放して赦しなさいと。赦しを学ぶことが今回の課題ですよと言われています」
当惑するリュカを尻目にブリジットはマスターの言葉をストレートに告げた。
「わかります。ですが悔しくて赦せそうにありません。完全に赦しきれるまでまだまだ時間がかかりそうです。そんなにすぐに赦せません」
リュカの本心、心の叫びだった。
「そうですか赦せませんか」
ブリジットは再び手を合わせて目をとじた。
それからなにやら声を聞いているような感じで、うなずいたり応えたりしていたが、目を開けてリュカを見るとマスターから言われたことを再び告げた。
「赦せると思えば今すぐにでも赦せます。赦すのに時間がかかるといっていたら、一生かかっても赦せないでしょう。気合いで赦せませんか? 神様はそう言われていますよ」
ブリジットはリュカの前に向き直って天界から降りてきた言霊を告げた。
「気合いで今すぐ赦せと……」
リュカは歯を固く閉じ両手を爪が食い込むほど握りしめた。
額に脂汗が滲む。
「リュカさん、あなたが辛いのは十分承知しています。でも今回の経験はあなたが赦しを学ぶために与えられた神様のギフトなのです」
ブリジットはリュカに思いとどまらせようと、さらに話し続けた。
「人はこの世に魂を磨くために来ていて、学びきれなかった課題を克服するために、魂は何度も転生を繰り返しているのです。今回の課題が赦しならば、あなたは今が赦しを学ぶ絶好のチャンスだとは思いませんか?」
リュカはブリジットの言葉を噛み締めた。彼女の愛に満ちた言葉がリュカの魂に響いたのは言うまでもなかった。リュカはしばらく考え込んでいたが、いつもの優しい目にもどってブリジットに宣言した。
「赦します。どこまで続けられるか自信ないけど。父もマリナもクロードもみんな一緒に赦しますよ。もう好きなように何処にでも行って下さいってね」
そう言いきるとリュカは吹っ切れたように爽快な顔をして苦笑した。
「ああ、よかったわ」
ブリジットは目に涙を浮かべて微笑んだ。
「心配かけて済みません」
リュカもつられて目に涙を浮かべ、照れくさそうに頭を掻く。
「リュカさん、赦しとは赦し続けることよ。このことを忘れないでね」
ブリジットはとても真面目な顔をして念を押した。
「赦しとは赦し続けること……」
リュカは彼女の言葉を胸の内で反芻した。
「今赦せても、またなにかあれば、人間は赦したことをすぐに忘れて悪魔に取り憑かれたようになる。今日ここに来たばかりの時の、恐ろしい目つきのあなたのように。だから負けずに赦し続けるの。そして赦しきったとき、あなたは勝利し階段をまた一段上がれるわ」
ハーブティーをブリジットは口に運ぶ。
「階段ですか?」
リュカもつられてお茶を口に含んだ。
「人生の試練は神様が用意した階段なのよ。階段を上る度に魂は磨かれ、私たちは神様の愛に近づく」
ブリジットとの対話が続けられた。
「神様の愛に近づくために階段を上るのですね」
熱心なクリスチャンであるリュカだからこそ彼女の言葉が胸に染み入る。
「そうよ。神様の愛は私たちには想像もつかないほど深い深い愛なのよ」
ブリジットは目の前の彷徨える旅人に何とか神様の愛を伝えようとした。
「赦しとは愛なのですね!」
リュカの顔がより明るくなった。
「そのとおりよ。よく気がついたわね! あなたはマリナをまだ愛しているのでしょう?」
ブリジットは思わず手を組んで大きく喜んだ。
「はい……。たしかに愛しています」
リュカの心は少しだけヒリヒリしたけれど、マリナを愛しく思う気持ちに変わりはない。
「マリナのことを愛しているのならあの娘を赦してあげて。マリナは親の愛を知らないで育ったから愛がわからないの。でもいつか必ずあの娘も真実の愛に目覚めるときがくるはず。わたしはそう信じています。愛に目覚めた今のあなたならわかるでしょう!」
ブリジットはテーブルの手焼きのクッキーをリュカに勧めた。
「マリナは天使のように美しい魂をもっていると感じました。彼女ならきっといつか真実の愛に目覚めてくれると信じています」
リュカは嬉しそうにクッキーを口に含みお茶を飲んだ。
「マリナのために祈りましょう」
そういわれリュカもブリジットと一緒にマリナの幸せを祈った。
その日以来リュカは優しさをとりもどし、傷ついた心も時間と共に癒やされていった。
どうしても赦せないものを赦せたリュカ。
その後、彼は母や妹を大切にしながらいつも通りの会社勤めを続け、こつこつと父親の借金を返していった。




