第3局 不芒
「ま、まいった」
男が項垂れながらそう言う。左上の白石は死滅し、黒が盤上を支配していた。
数えるまでもない。黒の大勝だ。
男は黙って胸元から巾着袋を取り出すと大豆くらいの大きさの銀色の塊を机の上に置いて席を立った。たぶんこれがお金なのだろう。
「ひっひ、豈庸が負けたのは小娘に気押されたからじゃのう。そうでなければまだ勝機はあった。あやつは気持ちで負けたのじゃ」
気付くとガリガリの骨まで浮き出ているような老人が目の前の席に座っていた。
「今度はわしが相手じゃ。世間知らずのお嬢ちゃんに囲碁の奥深さを教えてやろう」
周りから『不芒が打つのか』『白棋士に勝ったこともあるのに女が勝てるわけねぇよ』とざわざわ聞こえてくる。不芒と呼ばれた老人は周りのヒソヒソ声を聞くにかなりの腕前のようだ。
だけど強者との戦いを断る理由はない。身を切るような全身が高揚するような勝負がしたいのだ。
「お願いします」
挨拶をして2戦目を始める。私は両方とも星を、相手は目外しを打ってきた。
目外しは非常に珍しい型だ。1000戦して私も1度か2度しか見たことない。星、小目、高目など陣地を作りやすい隅に初手を打つことが囲碁のセオリーだ。目外しは隅からひとつ外れた場所に置くことになる。
のらりくらりとした打ち筋だ。距離を詰めたいのにかわされる。それなのに相手はしっかりと地を確保しゆっくりと差を広げられる。
蛇に纏わりつかれてそして少しずつ周りを齧られているような気分だ。決定打はない、ただじわじわと身を削られていく。
「ひひっ、戦いが全てではない。相手より少し、ほんの少し地が多ければ勝ちなのだ。お前さんは多少読み合いに強いようだが、囲碁で一番必要なのは大局感だ。盤上を見通す力が勝敗を分ける」
パチと打たれた手はまたしても不透明な一手だ。意図が読めない、何を目的として何を求めているのかわからないのだ。
さっきからこういう一手が私をじわじわと追い詰めている。革新的な一手ではない。だけど十数手先で実に扱いにくい場所にこの手は置かれているのだ。真っ直ぐ進みたいのに置かれた小石に進路変更を余儀なくされる、そんな感覚だ。
自分の碁をさせてもらえない。窮屈で息苦しくて圧迫される。人の嫌がることを知り尽くしている打ち方だ。
形勢はそんなに悪いわけではない。ほんの僅かだけこちらが悪いだけだ。だけどそんな僅かな優位を維持し続けるのがこの人の碁なのだろう。
ダメだ、このままだと終始相手にペースを握られたまま終局することになるだろう。そんな展開で終わりたくはない。
碁笥の中の石を握りしめる。勝負こそが私のすべて、死ぬなら戦って死ぬ。
パチリと打ったのは相手の陣地の真っ只中、左辺白のすぐ下。これが生きれば私の勝ち、死ねば相手の勝ちだ。
「ひひっ、お主はそちらの型の人間か」
不芒がパチリと石を置く。つけた黒に対して真っ直ぐ白は伸びた。こちらの仕掛けに付き合うつもりはないらしい。
「そちらって?」
「わしと打つ人間はだいたい二極化するのじゃよ。この局面をずるずると続け最後まで行く者と流れを変えようと一か八かの勝負に出る者、お主は後者のようじゃな」
パチパチと互いに打ち合う。なんとか戦場に引きずり込もうとする黒をひらりひらりと白は躱していく。なかなか手が見つからない。
「だが、冷静に考えてみるのじゃ。白と黒を交互に打つだけのこの遊戯で、白石が数多くある場所に黒が踏み込んで勝てると思うのか」
パチリと打たれた白の一手は黒から少し離れた場所に置かれている。だけどわかる。このまま進めばこの白は黒の目を奪う場所にいる。
ゆっくりゆっくり首を絞められる。すぐには死なない。だけれども息苦しい、確実に命を断ちにきている。
だけど私の命にはまだ猶予がある。
「確かに数の優位は永遠に覆らない。だけどもそれが勝敗の全てでないよ」
「ほう、じゃがお前の黒石は息絶えそうだぞ?ここからどうするというのだ」
「私の石が死に絶える前に貴方を殺す」
バチン。打った瞬間、指先が痺れる。ああ、そうだ。勝負はここからだ。
黒を覆っていた白を切り飛ばす。殺せばいい。私が死ぬより先に相手の息の根を止める。
『ば、馬鹿な。そんな無理手が通用するわけがないじゃろ』と不芒が言う。貴方には盤上を見通す力があるのかもしれない。それはとても強かった。ここまで苦しめられた。
だけど生死の読み合いならば誰にも負けない。
深く深く盤上の世界に入り込む。ここは戦場で乱戦だ。けどこの手は相手の首を落とすまでけして止まりはしない。
切る。当てる。繋ぐ。私の攻めは続く。盤上は白と黒が混ざり合い複雑だ。
今は白番だ。ここでの相手の選択肢はふたつある。
ひとつは切り。私の跳ね上げた黒を切り分断する手。ここを打たれれば複雑で盤上は乱戦となる。そして、この勝負にけりがつくだろう。
そして、もうひとつは、
「ひひひ、その手。どうあがいても石のせめぎ合いに持ち込みたいのじゃな」
不芒が笑う。そして血管の浮き出た手でジャラリと碁笥から白石を取り出した。
「豈庸との戦いもそうじゃったな。お主はすぐ戦いに持ち込もうとする。短気な豈庸はすぐに乗ったがわしはそうはいかん」
パチンと不芒が打つ。打った場所はもうひとつの選択、“引き”だ。
不芒は戦いから逃げた。
「お主の思う通りには打たん。戦場に引きずり込もうとしても無駄じゃ」
「いや、ここは戦うべきだった」
パチリと白が切らなかった黒を補強する。これで黒の体勢は整った。
「切られてたら終わっていた。先は長いが私の石が持たなかった。貴方はただ逃げただけだ」
「小娘が。適当なことを言いおって」
「勝負所で勝負できないならばただの臆病者だ。貴方は恐れたんだ。私の力を恐れて攻め合いから逃げたんだ。盤上を見通し先を見てるのかもしれないけど、勝負を決めるのは今。未来なんかじゃない」
そのツケを今払うことになる。
不芒の打たなかった切りを防いだことで黒は安定した。そこから逆襲の始まりだ。
白の陣地に入り込んだ黒は生き、そして周りを覆う白を喰らい殺していった。
元々そこが白地だったとは思えないほどの無惨な有り様だった。左辺は死に絶えた。
「こ、こんなことが」
ガクリと不芒が項垂れる。そして黙ってアゲハマ(取った石のこと)を碁盤に置いた。投了だ。
勝った。勝った。私の勝ちだ。
全身が熱い。顔の横を汗が伝い頭がクラクラする。私は生きている。生きているのだ。自分の生を噛み締める。
この瞬間の為に私は囲碁を打っている。
「70年生きてきてこれ程の才能の持ち手に出会うのは初めてだ。お主、名前は?」
ゆっくりと顔を上げた不芒と目が合う。名前、私の名前は夜乃空綺星だ。だけど囲碁を打つときに名乗る名前は決めている。
「星天。私はこの盤上に輝く星、星天だ」
「そうか。良い名だな」
そういうと不芒は銀色の小さな塊を机の上に置き席を立つ。するとギャラリーの男達がその席に座ろうと互いに押しのけ合った。
「あの不芒がやられるなんて」
「くそっ、だからって女にやられっぱなしにされてたまるか!次は俺だ!俺が相手になる!」
「お前はこの前俺に負けただろ。俺が先に相手だ!」
どうやらまだまだ対戦相手には事欠かないらしい。ああ、いくらでも囲碁を打てるなんてここはいい場所だな。