第1局 天上
生まれた時に『この子は10歳になるまで生きられないでしょう』と言われた。心臓に疾患があって治る見込みはないのだと。
自分の家の天井よりも病院の天井の方が見慣れている。来年の為にとランドセルを買ってもらったけどおそらくこれを背負って学校に行くことは一生ないのだろう。
毎日無機質で無気力で何も感じない。鏡に映った私の目はクレヨンで黒く塗り潰したみたいにぐちゃぐちゃだ。
命があるから生きていて、それがなくなれば枯れるだけ。植物とあまり変わらない。
やりたいことなんて何にもなくてボーと廊下の長椅子に座っていたら隣の病室の源じいちゃんがジュースを奢ってくれた。ちびちびオレンジジュース舐めてたら部屋に遊びに来ないかと言われたので付いて行く。
源じいちゃんの病室には何人かのおじいちゃん達がいて、木の板の上に白と黒の石を置いて遊んでいた。
これは囲碁という遊びだと源じいちゃんがいう。19マスの木の板の上、白と黒の石を代わりばんこに置いて自分の陣地を増やして広い方の勝ち。
源じいちゃんが『やってみるか?』というので黒い石を掴み板(碁盤というらしい)の上に置いて行く。
自分の領地を広げて行くだけでなく、相手の石を囲うと取れるらしい。そして、取った石は最後に相手の陣地を減らすのに使われると。ふーん、じゃあ石を取った方がお得だね。
追う。囲う。追い詰める。碁盤の端は自分の石が置いてあるのと同じ扱いだから隅っこの方が相手の石を取りやすいらしい。
追い詰めて追い詰めて囲いきる。源じいちゃんが息を呑んだ。盤上では隙間なく白石が黒石に囲われていた。
『っ、まいりました』といって源じいちゃんが頭を下げる。それは負けを認める時に言う言葉らしい。勝った。私がこの勝負に勝ったのだ。
心の底から何かが湧き上がる感覚があった。顔が熱い。叫びだしたいような泣きたいようなそんな感情が溢れ出してぐらりと体が揺れた。
気付いたらその場で気絶していた。病弱な身体は心の揺れ動くエネルギーに耐えれなかったのだろう。看護師さんやお医者さんがたくさん駆けつけたらしい。
皆に心配をかけた。身体に負担をかけた。だけれどもこの高揚感は忘れられない。
世界が色づく。この日初めて生きているっていう実感を得た。
で、次の日も私は源じいちゃんの病室に行って囲碁を打ってほしいとせがんだ。『また、体調が悪くなったら、』と源じいちゃんは渋ったけどジタバタ駄々をこねてゴリ押しした。
よし、今日も勝つ。次も勝つ。ずっと勝つぞ。
と思って臨んだ1局でズタボロに負けた。私の黒石は死にまくって盤面は白に征服された。
序盤を有利に進める形である定石とひと目で石の生死が決まる手筋、これらを知らないと囲碁で勝つのは難しいのだと源じいちゃんはいう。経験者が真剣に戦えば初心者は絶対に勝てない。
悔しくて悔しくて2度と負けたくないからその定石と手筋とやらを覚える。
3目中手は真ん中が急所で4目中手はすでに死んでいて5目中手もど真ん中に置くと相手の石が死ぬ。
取っても取られる“打って返し”やどこまで逃げても取られてしまう“シチョウ”、助けようとすれば助けた石まで取られてしまう“追い落とし”、手筋だけでもかなりの数だ。それに加えて、序盤にはある程度研究された流れがあるらしく定石を覚えないと相手に有利な盤面を作られてしまう。
基本的な定石は教えてもらったけど、定石にも流行があるらしく今のはやりを知りたければプロの対局を見るのが1番だそうだ。
源じいちゃんにテレビで囲碁のチャンネルをつけてもらうと今1番大きな大会であるという名人戦が行われていた。
挑戦者であるという黒鶫という男はボサボサの黒髪に目の下が黒ずんでいて陰気で病弱そうな感じがした。親近感。
だけどそんなまっくろくろすけみたいな見た目なのにアホみたいに強かった。出鱈目に打っているとしか思えないのに石と石が繋がって黒を征服していく。側から見ても手合い違いなのが見てとれた。
相手のおっさんは顔中から脂汗流していて四六時中ハンカチで顔を拭っていたが、やがて頭を下げた。投了したのだ。
黒鶫 月人は名人になった。
すごい。かっこいい。強い。強い。私もあんな誰にも負けないくらい強くなりたい。
それから夢中で黒鶫の対局を碁盤に並べた。碁盤に齧り付いて毎日毎日黒鶫の碁を覚えるほど並べた。
1ヶ月もしないうちに源じいちゃんとお友達さんたちにはみんな勝てるようになった。源じいちゃんは私のことを天才だといって、『こんな強い子は大人だっていない。将来はプロ棋士だな』と笑っていた。
源じいちゃん達の退院が近くなり、相手がいなくなってしまうと言うとタブレットがあれば世界中の人と戦えると教えてもらった。お母さんとお父さんにお願いすると囲碁のアプリを入れたタブレットを用意してくれた。画面で囲碁を打つのは最初はよくわからなかったけど、慣れるとたくさんの人と囲碁ができてとても便利だった。
毎日囲碁を打った。勝てる時もあった。負ける時もあった。
負けると悔しくて悔しくて身が捩れるようだった。負けた勝負を思い出して眠れぬ夜もあった。
勝ちたい。勝ちたい。とにかく勝ちたい。
何の感動もない人生だった。勝負に勝つということが初めての衝動だった。
勝つことは生きることなのだ。だから真剣に全力で勝負に臨んでいる。
命懸けで囲碁に打ち込んでいる。
囲碁を打って、打って、打って、私は10歳になった。病状は進んでいた。
一度でも発作が起これば戻ってこれないかもしれない。明日を迎えられるかもわからないとお医者さんに言われた。
囲碁を控えるように言われた。勝った負けたの極度の興奮は心臓に負担がかかると。
1日に1度1局だけ、囲碁を打つことが許された。それで終わり、明日は来ないかもしれない。
それなら真剣な勝負が打ちたかった。相手の顔がわからないネット碁は形勢が悪いと突然相手に回線を切られることがあった。そんなことに私の貴重な1局を消費してたまるか。
“天上世界”という囲碁サイトがあるらしい。入会費3000円でランキングにより賞金が支払われるが、下位20名は強制的に退会させられるという仕様から本気の人しか登録しないという。
親に頼み込んでアカウントを作成する。私が、夜乃空
綺星がこの盤上に在って欲しいのだからアカウント名は、
“星天”だ。
毎日1局だけ打った。全身全霊を注ぎ込んで戦いに臨んだ。明日なんてこないかもしれないんだから、今勝つ。今目の前の敵を倒す。
勝つ為に生きている。生きる為に戦っている。
この高揚が私の生きている証だ。
打って、勝って、打って、勝って、そして3年が経った。私は勝ち続けた。
1000勝0敗、それが私の3年間の戦績だった。気付けば『星天』はランキング1位にいた。支払われた賞金は私の入院費くらいは賄えるくらいはあり、それが目的ではなかったけど、親にずっと迷惑をかけていたからちょっとは返せるものがあってよかった。
その間に4回発作が起こった。毎度お医者さんには今夜が峠かもしれないと言われたがそれでも戻ってきた。まだ勝ちたい、勝ち続けたい。まだ生きていたい。
私はまだ満ち足りてなんかいないんだ。
そんなある日1通のメールがメールボックスに入っていた。“頂上戦”への招待だった。
頂上戦とはあらゆる大会の優勝者を集め、トップを決める戦いらしい。天上世界でランキング1位になってから3年、トップを取り続けたことから特別に参加枠を獲得したのだと。
出たい。この大会に出て強い相手に勝ちたい。ありったけの力を出し切りたい。
だけどもリアルでの戦いだ。パソコン越しではなく対面で、しかも1局だけではなく4局打たないといけないらしい。最後まで体力が保つか、いや命が保つかわからない。
両親は反対した。なんの医療設備もないところに行って発作が起こったらどうするのかと。ただでさえ最近は体調が安定しないのに心臓に負担をかけるようなことはしないでくれと。
だけど大会に出ようと出まいと発作は起こるかもしれない。回数を重ねるごとに戻ってくるのが難しくなっている。明日終わるかもしれない命なのだから、後悔を残したくない。
両親は涙ぐみながら大会に出るのを許してくれた。我儘を言ってごめん。でも私は戦いたいのだ。
一生懸命生きたいのだ。
一生着ることはないと思っていた中学の制服を着て頂上戦に向かう。歩く体力はないから車椅子だ。電自動の物だったけどお母さんが押してくれた。
一回戦の席についた。相手はおじさんでアマ棋聖の人らしい。ジャラリと掴む碁石の感触が冷たくて心地よい。対面で囲碁を打つのは源じいちゃん以来だ。緊張と高揚で胸が熱くなる。
『おねがいします』と言って対局が始まった。碁盤に石を置く感触や対局時計を押す動作がしっくりこない。ネット碁とは違う感覚。やっぱりリアルは慣れてない。
対面からは相手の熱気が伝わってくる。表情、呟き、石を打つ音の強弱、それが全て圧力となり私に降り注ぐ。だけど、それが心地よい。
ああ、これだ。こういう戦いをしたかった。真剣に戦うっていうのはこういうことなんだ。相手を感じたい。その上で相手を上回る。
命を賭けてこの戦いに勝つ。
打つ。攻める。打つ。囲う。上級者の戦いではあまり石が取られることはないらしい。駒の優越がなく代わりばんこに打つ囲碁では1手で大きく相手に差をつけることが難しいからだ。
だけど私は相手の石を取ることに全力を尽くした。相手の石を殺す。そのことにどうしようもなく胸が高鳴った。
攻めて、攻めて、攻め続ける。引きはしない。相手の息の根を止めるまで進み続ける。
左隅の大石が死んだ。『あり得ないだろ……』と呟いて相手の人が投了した。
1戦目は勝った。私はまだ生き続ける。
2戦目はアマ本因坊の人だった。勝った。
3戦目は中国の代表の人だった。勝った。
決勝戦、相手はアマ名人だった。プロを除いて囲碁が最も強い人。
鍔迫り合いを臨むのに躱される。距離を空け、のらりくらりとこちらの間合いには入ってこないのに相手に地は作られる。強い。
おまけに胸が苦しくて息が詰まる。1日4戦するのは初めてのことだから体力的にもしんどい。
だけど泣き言なんて死んでも言わない。心が折れるのは命尽きた時だけだ。
緩めない。引かない。押し切きる。
お互いの領地の境がなくなって細かくなっていく。寄せて寄せて攻めてそして最後、私の地が残っていた。白の地は35目半、黒の地は37目。私の1目半勝ちだ。
勝った、私が勝ったんだ。
「まさかアマ名人に勝ってしまうなんて、実力は本物だね」
上から声が降ってくる。顔を上げると星のない真っ黒な目をした人が碁盤を覗き込んでいた。
「どう見ても棋譜が黒鶫そのものだ、“星天”の中身はお前だろって色んな人に詰められるから、どんな奴なのか会いに来たんだけどまさか女の子だったとは」
手に持っていた扇子をガジガジと咥えながら、和装をしたその人が言う。マナーが悪い。モラルもなさそう。そんな常識外れのその男を私は知っていた。
実際に会うのは初めてだ。けれども気持ちとしては毎日対局していた。この3年でこの人が打った碁は全て並べた。
初めて憧れを抱いた人。目の前にいる男は囲碁界の頂点に立っている黒鶫名人だ。
「せっかくだから1局打とうか」
黒鶫名人が対面に座る。盤面の石を片付け碁盤がまっさらになる。
黒鶫名人、今の囲碁界で間違いなく最強の棋士だ。最初に取ったタイトルが名人だったから黒鶫名人と呼ばれているが、7大タイトル全てを制覇している。
一度も負けることなくタイトルを保持していることから、欠けることのない月と言われている。満月を背負った男、それが黒鶫月人だ。
身体が昂ぶるのがわかる。あの日の憧れが目の前にいる。届かないと思っていた月に手が届く。
今日憧れを殺す。月を落として私が盤上の頂点になるのだ。
「いいよ。命を賭けて貴方を倒す」
「命を賭けるの?じゃあ、君がそうするなら僕も命賭けで勝負しよう」
私が黒だ。『お願いします』と頭を下げて対局が始まる。
1手目黒、右上隅星。そして、2手目白、左下隅星。黒鶫がパチリと白石を置く。
なんだろう、ただ石を置いただけなのに空気が重くなる。さっきまでも対戦相手から圧のようなものを感じていたけどこれはその比ではない。まるでずっしりと上から岩がのしかかってきたかのような感覚だ。これが強者と戦うということなのだろう。
痺れのようなものが身体を駆ける。じっとなんてしていられなくてこの衝動をどこにぶつけたくて堪らない。
勝つ。勝つ。絶対に勝つ。貴方を殺して私は生きるよ。
3手目黒、右下隅星。4手目白、左上隅星。左下隅の白にかかる。白は受けずに右上隅の黒にかかる。私も受けずに左下白にかかる。両がかり、急襲だ。
場が急変していく。互いに受けを最低限に殴り合い。盤面は複雑になっている。
「死に場所を探しているのかと思った」
黒鶫がぼそりと呟く。パチッと黒鶫が打ち込んだ一手が光ったように見えた。右上の黒の目がなくなった。黒の大石を狙う強烈な一撃、
「っ、死ぬつもりなんてないけど」
「だろうね。今から死ぬって奴が打つ碁じゃない。あまりにも生気のない顔色してるから人生最後の1局を望んでいるのかと思ったんだけど、そういうわけでもないんだね」
追撃がくる。流星群のように光輝く次々と放たれる一手が私の黒石を追い詰めていく。
受けきれない。戦況は不利。なんとか盤面をひっくり返したいけど急に感じた胸の苦しさに思わず咳き込む。やばい、発作の前兆だ。
「ゴホッ、ゴホッゴホッ」
「どちらにしろ君は死んでしまいそうだね」
お墓参りにはちゃんといくよ、と黒鶫が言う。倫理観とモラルを失っているんじゃなかろうか。だけど失った人間性の代わりなのか囲碁はアホみたいに強い。
咳き込みながら盤面を考える。3の七…、いや、17の二に打たれると本当に黒石が死ぬかもしれない。やっぱりここは手を入れるしかない。だけど、そうすると地合いが、
咳き込み過ぎて目が潤む。視界は滲むが思考は止まらない。
黒石を生かす、それはただこの場を凌ぐだけの手だ。死なないように生きているだけ。
違う。違う。そんなわずかな延命のための一手を打ちたいのではない。緩めるな。
戦うとは自分の命ギリギリを込めた一撃を放ち続けることだ。
バチンと指先が鳴る。電流のような痺れが爪先を掠め熱を帯びる。
2の九ハサミ、白を攻める一手。手を抜いた右上の黒は死ぬかもしれない。殺せるものなら殺してみろ。その前に左辺の白の息の根を止めてやる。
攻める。攻める。攻める。ひと呼吸の間も与えず攻め続ける。
胸が苦しくてもやがかかったかのように視界がぼやける。周りの声もよく聞こえなくなっていく中、碁盤だけが鮮明に見えた。
なんだろう、不思議な感覚だ。苦しくて苦しくて呼吸すら楽ではないというのに指先に力が灯る。石を持つ手が熱い。
みえる。戦況が戦場が変わりゆく世界が見通せる。
盤上が光輝いている。
もうどちらが勝っているかなんかわからないくらい盤面は複雑だ。あちこちで鍔迫り合いが行われて殺し合いが行われている。
だけど次に打つべき手がわかる。この世界の行く末がわかる。
私は天上に至った。
黒鶫が放った一手が強烈な光を放つ。勝負をかけた黒鶫の渾身の一手。
だけど、その一手は読めていた。
チャリと碁笥から黒石を取り出す。今まで創り上げてきた世界を破壊する一手。これが私の最高手。
碁石を盤面に放つ。瞬間、指先に稲妻が走る。石だ。私の打った石が輝いているのだ。
不思議な感覚だ。盤上の石がまるで夜空に浮かぶ星のように煌めいている。
光は伝染し道筋を作る。これが天上の視点、終局図まで見えた。このまま互いに最善手を打つと、……私の半目勝ちだ。
勝った。勝ったよ。私が黒鶫名人を倒した。月を堕とした。
ぐらりと視界が揺れる。脳みそが揺さぶられて身体が傾く。起き上がっていられなくてそのまま前方に倒れ込んだ。
ああ、終わり。タイムリミットか。10歳まで生きれないと言われた身体がついに限界を迎えたのだ。
勝ったのに。黒鶫名人を倒したのに。月を捕まえたのに私には時間がなかった。
悔しい。悲しい。苦しい。つらい。私はこれで終わるのか。
生きたかった。せっかく輝く世界を手に入れたのに、この世界で生きていきたかったのに神様は許してくれなかった。
何も見えない、何も感じない。ゆっくりと意識が消えていった。
------------暗転、
目が覚めた。周りが明るい。私はどこかに寝そべっている。
さらさらと木漏れ日が降り注ぐ。背中が硬い。視界に広がった景色を見るにたぶん私は大きな木の根元で眠っていたのだろう。
ここはどこだろう。確か黒鶫と対局の途中で発作が起こって、勝負には勝ったけど意識が遠のいた。死んでしまったと思ったけどどうやら助かったようだ。だけどどうして病室ではなく外にいるのだろう。
のそりと身体を起こす。だけどもそこで目に入ってきた光景に思わず口が開く。
「…ここどこ?」
石造の道や建物に赤い屋根、周りには屋台がたくさんある。行き交う人々はダボっとした服を腰回りに帯で留めている。
なんとなく現代っぽくないところだ。日本ぽくもない。中国?でもそれなら何故私は中国にいるのだろう。
ごつごつとした感触の大木に手をついて身体を起こす。その時私は身体の異常に気がついた。
あれ、動く。苦しくない。
手を握ったり開いたりその場に跳ねてみたり、体が嘘のように軽い。呼吸ひとつするだけでも胸が苦しくなったというのに何も感じない。
目が覚めたら知らないところいるし身体は元気になっているし訳がわからない。
だけど私は生きている。そうか。私は生きているのか。
さらさらと風が木の葉を揺らし私の髪も靡いた。
見知らぬ町並み、何不自由ない身体。誰かの気紛れか神様の悪戯か、夜乃空 綺星は異世界で新しい人生を得たらしい。
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