第七話 慟哭
「母は私を生むと、すぐに亡くなりました。難産だったと聞いてます。写真は咲子さんと撮った一枚だけ。どんな人だったのか……優しい人だったのか、寂しい人だったのか。……父に尋ねても教えてくれません」
「空、辛いなら話さなくてもいいんだ」
空は首を振る。
「いえ、大丈夫です。全部お話しないと……。えっと、これからのお話、馬鹿げてるときっと思います。自分でも変じゃないのかなって、自分がおかしいんじゃないかな思うくらいですから……じゃあゆっくりお話します」
「分かった」
微笑んで見せて安心させようとしたが、うまく成功したのか分からない。ひきつってるのかもしれないし、もしかしたら笑えてないかもしれない。そんな不安気な俺を気遣ってか空は少しだけ微笑んだ。
「父が何も教えてくれないので母のことを知ろうと戸籍を調べてみました。母の生まれは京都で、海に面した街で私もそこで生まれたみたいです。……憶測でしかありませんが。でも初めて母の生まれた街に行ったとき懐かしい匂いがしました。ああ、私はここで生まれたんだって。でも私の記憶にないので多分、小さい頃に鎺に越してきたんだとおもいます。そして父は鎺大学で教授として」
俺はそこで空の言葉を遮ってしまった。
「教授? 水無月教授なんて名前、聞いたこともないが?」
水無月なんて滅多に無い苗字だ。この大学に入って水無月なる教授の講義なんて聞いたことが無い。
「先輩が入学する直前に出れなくなったんです。去年までは一度も休んだこともなかったのに」
「病気なのか?」
「父は父では無くなりました。事件が起きる、ずっと前に兆しはあったんです」
空の俺の腕を掴む手に力が入る。
「兆し、か」
「はい……“あれ”はかって父であったモノです」
“あれ”とはなんだ?
「すまない、少し理解が追いつかない」
「ですよね、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。親父さんが変わってしまったってのは、その、空の体みたいに」
「あれは、もうお父さんじゃない。お父さんの姿をした何かです。人が変わった、性格が変わった。とか、そういうのではなく。なんというか、お父さんの皮を被った獣が立って歩いてるみたいでした。何も食べなくなり」
瞬きもしていないのに涙が溢れて固く閉じた太腿の上に落ちていく。空は自身の落涙に気付いていないのかテーブルの一点を睨みつけていた。
「夜になると姿が見えなくなくって、なのに私は安心してベッドで寝ているといつの間にか帰ってきていた父が眠っている私のベッドの傍でずっと立っているんです。何かの葛藤に耐えているかのように、駄目だ駄目だ、と呟いて。私はお布団を頭から被って、怖くて怖くて怖くて、朝までずっと震えてて……。大丈夫、大丈夫、お父さんは病気なんだ。いつか治るから、治るから……。そんな何もしないのに治るわけはないのに! 駄目でした。次の夜も、その次の夜も! お父さんが段々とお父さんじゃなくなってくる!」
俺を見て空が俺の腕をつかみ体を揺さぶる。それで否定できれば元に戻るかのように、激しく揺さぶる。
「二人っきりだったけど家の中は明るくて楽しかった。お父さんは優しくていっつも笑っていて……笑っていてくれてたんです! お父さんがなにをしたの? 私が何をしたんです!? なんであんなことが? なにもかも壊れてしまったの! 全部! 全部!」
激しく感情に振り回される空。こんな空を見るのは初めてだった。どこにもぶつけようのない怒りで、悲しみで小さな肩を揺らす。大粒の涙が頬を伝い、抱きついている俺の腕を濡らしていく。腕に感じる布越しの柔らかい膨らみの感触が伝えてくるのは、嗚咽と慟哭、感情の奔流。一気に噴出した感情を抑えることが出来ずにいるのは、心臓が止まっていても空が生きている証だ。
空の肩を抱いた。ちょっと力を加えるだけで砕けそうな肩。空は段々と溶けるように体を倒し、俺の膝の上で泣き始める。
空はずっと一人で泣いていた。
声を出さずに泣いていた。
俺の告白なんて届くはずもない。毎晩怯えて、絶望と恐怖に包まれて眠っていたんだ。
ぎりっと下唇を噛んだ。
どうして俺はその声を聞けなかった!
なぜ告白したときの、空のあの躊躇う様子を察せなかった!
当たり前だ、俺は空を見ていなかったからだ。
情けない、なにが護鬼だ!
空は泣き続けているのに何が、お守りします、だ!
また俺は繰り返すのか!
熱を帯びた俺の頭もいかれているらしい。
今はどの言葉も感情も正しいと感じている。
夜の雨は優しい。
不規則な雨音のリズムはジャズそのものだ。
膝の上の空も不規則にしゃっくりを上げながら、徐々に落ち着きゆっくりと頭を上げる。
「あーもう。すっごい泣きました」
渡したフェイスタオルで腫らした顔を隠して、「ごめんなさい」と小さく謝る空。
「せっかく風呂に入ったのに酷い顔だ」
「女の子にそんなこと言います?」
「また洗えばいいよ。また綺麗になるさ。いやお前はその顔でも可愛いがな?」
「酷い言葉の弁護にもなりません」
俺は肩をすくめて笑う。
「何か飲み物を用意するよ。コーヒーか紅茶か、緑茶もあるが」
「先輩、ビールが似合いそう」
「そうか、俺がおっさんに見えるわけだな、まだ未成年です!」
「いじけても可愛くないです」
「酷い言われよう」
空はふふっと笑うと「お水をお願いします」と言って立ち上がってソファの方に向かう。
ああ、なんとかお尻を隠しているシャツから覗く生足が目に毒だ。ソファに座ってるときの太ももがヤバい。空の笑顔で気が緩んだのか不謹慎な事を考えてしまう。
「あの、空? お前下を履いてないんじゃ?」
「だって流石に大きすぎてウエストからストンとトレーナーが落ちちゃうんです。パンツないですし。あ、それが見たいんですか? えっちですね」
「ちがうわ! いや俺だって男だぞ」
ましてや好きな……。
「先輩はそんなことしません」
「男は怖いんだ。いい人ぶってるだけかもしれん」
「先輩ならいいですよ」
なんですと。それはどうゆう?
いかんいかん、今日だけで何度勘違いしたんだ。落ち着け俺。
「先輩の、良い人であろうとするところが私、好きです。それは偽善じゃないと知ってますから。素で優しい人なんて滅多にいません。誰もが何かしら繕って、誤魔化して、騙そうとして。でも先輩は違うから」
危ない危ない。もう少しでダイブするところだった。
「お前こそ俺を買いかぶり過ぎだ」
「ずるいのは私。先輩の気持ち、利用してる。怖がっていれば先輩が守ってくれる。そんな事を考えている私が嫌いです。でも、私も強くなりたい。笑って立ってたい」
空はテーブルに空になったグラスを置いた。




