第五話 死人
「あなたの辛さは私にはわからない。言葉にしてくれても多分、わからない。でもあなたの甘えを受け止める位は出来る。あなたは息子の片思いの子というだけじゃない。私の親友だった茜ちゃんの娘さんなのよ。それだけであなたを守る義務がある。私は自分の息子の面倒を理由に、茜ちゃんから遠ざかってた。一番つらいときを一緒に居てあげられなかった。自分だけが幸せになってしまった」
ちょっと待て。深刻な話だがいまさらっと俺の黒歴史を。
「そんな! 母を知りませんが、咲子さんの幸せを一番望んでいたはずです!今気づきましたが、母の部屋には一緒に映ってる写真が飾っているんです!」
「そっか。茜ちゃん、あの時の写真」
母は赤くなった鼻をすすると「そっか」といって微笑んだ。
「だったらなおさらよ。しばらくうちに居て。犯人には指一本、触れさせない」
「いえ、そんなんじゃ……」
空は視線を逸らし言い淀む。たぶん隠し事があるときの癖だな。俺を振った時も同じリアクションだ。もっと酷い嫌う理由があったとしたらショックだが。もう付き合ってる人がいる、とかな。いかん、想像だけで大ダメージだ。
「空、諦めるんだな。こうなると母さん、空を監禁してでも外に出さないよ」
「母に向かって酷い言いよう!」
「俺たちに危険が、とか思ってるんだったら心配ない。この家は何故か爺ちゃんが、がっちがちにセキュリティ固めたし、そこの母さんは俺ですらかなわない武道家だし」
空は下を向いたまま思案する。そして数分考えて意を決したようだ。
「今晩はお言葉に甘えます」
母もほっとして緊張が緩んだせいか欠伸を始めた。
「じゃあお風呂に入ってきなさいね。女の子が汚れたままなのは感心しません」
「はい、おかあさん。あ。ごめんなさい……つい」
空が赤くなって俯く。母はにっこりとして頷く。
「私は眠いし、明日も早い! 寝るね。おやすみぃ」
「おやすみなさい」
「あ。着替えないのよねぇ。困ったことに私の方が空ちゃんよりサイズ小さいのよね」
まじか。空もスレンダーな方だが、うちの母はどんだけ成長止まってるんだ。
「ふうちゃん、その顔。明日朝稽古は30分早めに来なさい。そしてあなたの新品のシャツを空ちゃんに貸してね。そのシャツを返す時は私に返して。ふうちゃんがおかずにするかもしれないから」
おれは飲みかけのコーヒーを盛大に吹き出した。
「先輩シャツ食べるんですか?」
「そんな性癖ないよ!」
「え? 性へ……ご、ごめんなさい!」
察した空が顔を赤らめる。
「ないから!」
母が意地悪い顔して自室に戻っていく。
くそ。俺のイメージが破壊されていく。あいつをなんとかせねば。
「じゃあ着替え取ってくるよ。離れの方にあるんだ」
そう言ってソファから立ち上がってテーブルの上の鍵を拾おうとしたら空がその手を握ってくる。
「どうした?」
「あの、その、一人で、お風呂は怖いです」
なんですと。それはどうゆう。
「先輩、ちゃんとそこにいますか?」
「ああ。いるいる」
まあ、人生なんてこんもんさとバスルームのドア、じゃなく、もう少し離れた着替えの為の小部屋のドアの前で座っていた。空の台詞にどきどきして損したよ。大損だ。
にしてもだ。水音だけで想像掻き立てられるのは健康的な男子の性なのか、はたまた変質者の兆しか。
いかん、どっちも否定できない俺がいる。
「先輩、合宿のあの時、先輩も覗いたんですか?」
「ああ覗き事件か。俺は! 止めようとしたんだ。本当だぞ!」
高坂率いる隠密部隊が女性時間の露天風呂を襲撃した事件。まったくもって忌まわしき出来事だった。
「覗いたことは否定しないんですね。……えっち」
「なんか今日一日で俺のイメージが粉々に」
「本当に。私は部活の先輩しか知りませんでした。頼りになって、みんなから慕われる、そんな先輩」
「違うよ」
「違いません」
「コンプレックスさ」
「コンプレックス、ですか?」
「こんな言い方、嫌われるだろうが、お前らの珍名コンビ、特に奏が監督と部長に選ばれたとき悔しくてな。まあどこまでやれるか見せてもらおうじゃないかと卑屈になって余裕ぶってただけさ」
「ふふ。私知ってますよ。かなちゃんに納得できずに顧問先生に男子部員が直談判しようとなだれ込んだ時、先輩が止めたって」
「恥の上塗りだ、あんなの。実際、お前らの采配は凄かった。戦術がはまる快感を知ってしまった。なんも文句も言えんよ」
「先輩がいなければ上手くいってなかったです。たぶんかなちゃんは監督にはなれなかったし、私がマネージャーにもなれなかった」
「にしてもだ。俺は最後に笑えた。あの時は本当に最高だった」
「そうですね。先輩は最高です」
「いっや、俺が最高、じゃなくって。ま。そうだな俺は最高だ」
「ですです」
まあ。それでもフられたんですがね。
「先輩上がりますね」
「ほい」
着替えの衣擦れの音が生々しい。俺、理性を保てるんだろうか。
空が出てきて大き目のシャツの袖をつかんでお披露目をする。あろうことか下を履き忘れてるのか生足のままだった。
「おっきいですね」とはにかむ。
ああ。いっそ殺してくれ。おれが犯罪を犯す前に。
空が俺の隣に座り顎を膝の上に乗せて、しばらく黙り込んだ。これは空のシンキングタイム。何か話そうとしているときのルーティーンだ。
「明日出ていきます」
予想された言葉。
「先輩のお母さん、凄く優しいし、先輩も優しい。甘えたくなっちゃうんです。多分先輩は甘えていい、って言うんでしょ? でもダメなんです。きっとこのままだと、みんな私が、私が! ……先輩手を貸してください」
右手を差し出すと、空は自分の胸に引き寄せ押し付けた。
やわらかい感触。普通だったらここで押し倒すシチュエーションだ。
だが、空の言わんとすることを理解する。
「わたし、死んじゃってるみたいなんです」
押し当てられた手からその言葉が真実である証明が伝わってきた。いや正確には「伝わってこない」と言ったほうが正しいだろう。
心臓の鼓動がなかった。