第四話 笑顔
庭に出て星を見ていた。
この辺りは住宅街で街灯もそれほどない。都心よりは星が見える方だ。
最近の世の中が異質に見える。どこが、なにがと聞かれると答えられない。違和感、なのだろう。一連の猟奇殺人事件、その事件に空の親父さんが巻きこまれ亡くなった。空も何に怯えているのか分からない。自分の夢もそうだ。明晰夢とでもいうのだろうか、夢にしてはやけに生々しい。
しっかりしないとな。綾姫を守れない。
……綾姫? 誰だ?
微睡みながら考え事をしていると気配を感じた。予想通りだ。俺は道路に面するフェンスを飛び越え、門扉の方に向かった。ちょうど空が慎重に金属製の扉を閉めているところだった。俺に気付き空は再び逃げ始めた。今度は遅れは取らない、が手を伸ばせば空の手を掴むこともできたが、そのまま空を追い続けた。走れば走り、歩けば歩き、止まれば止まった。やがて空が振り返った。
「しばらくぶりにゆっくりできました。ありがとうございました。私は行きます」
「そうか」
空が再び歩き出す。もちろん俺もついていく。空が時々腕を上げ顔を拭っている。俺は下唇を噛み、ただ見守った。
「なんでついてくるんですか! 迷惑です! 帰ってください、人を呼びますよ!」
「構わない。警察が来てお前を保護してくれるなら、それが一番いいんじゃないかな」
空が泣きそうになり、背を向けると再び歩き出す。
夏虫が静かに鳴いていたのが静かになった。
雨が降り出す。今晩は真夏並みの暑さで夜の雨でも気持ちがいい。
「空」
返事はない。ただ歩き続ける。
「ごめんな」
「なんで謝るんですか」
「最後の夏勝てなくて」
空の歩みが少しだけ遅くなる。
「高坂になあ、めっちゃ怒られた。皆悔しがって泣いているのに、なんでお前は笑ってるんだよ! ってな。そんとき、ああ、こんな時は泣かないとダメなのかとか、考えちまった。まぁだめだめだったんだろうなぁ」
「違います。先輩の笑顔は、いえ、なんでもないです」
空が振り返りそうになったが、慌てて前を向く。
「楽しかったんだ。高校三年間。全部やりきった。後悔はなかった。相手も強かったし、いいゲームだった。あと、二センチ。その二センチさえ届いていたら。インターセプトできていたら。俺らの勝ちだった。肝心な時に俺がミスったんだ。結局、なにも守れなかった」
「知ってました。部室で一人泣いていたのも、ロッカーを原型が分からなくなるまで殴りつけてたの、知ってます」
「うへえ。まじかあ」
「ひょうひょうとしているくせに、人一倍責任感強くて、誰にも、私たちにも話をしてくれなくて。それが一番悔しかったんです。笑っていたのも最後だったからですよね。お陰で私たちの最後の思い出は先輩の笑い顔だったんです」
空が立ち止まり、俺を待つ。
「先輩有難う。部活の事も、今日の事も。これで私も先輩みたいに笑えるかな」
空は笑顔で泣いていた。
「私は行きますね」
俺は優しく微笑んだ、そして、
「だめだ」
「ええ? なんかいい感じで別れる雰囲気だったじゃないですか!」
「それとこれとは別だ。頼むから俺と一緒に家まで戻ってくれ。じゃないと」
「じゃないと?」
後ろからやってきた車が急ブレーキをかけて俺たちの横に止まった。車のウインドウが下がって現れたのは般若面の母だ。
「殺される」
「ふうううううちゃああああん! あんたって子は!」
器用な母は俺を車に引き込むと首4の字を掛け、本気で締め上げる。流石は合気道九頭竜館師範代。と感心していると目の前に星がちらちらと輝き始めた。
「そ、ら、逃げると、こ、ころ」
そこで俺の意識は失われた。たぶん車にはねられた時よりダメージが深刻だった。
「おば様、先輩が気が付きました!」
「いやねぇ、おば様なんて。お母さんって呼んで?」
「え。あ、お、おかあさん?」
「空、相手にしなくていいよ」
首をさすりながら起き上がると、空がほっと胸をなでおろしていた。
「ほんと、情けない! 弱り切った女の子を守れないなんて!」
「そんなんじゃないんだって」
「あんたが頼りないから空ちゃん、どっかに行こうとしたんじゃない!」
あー。ごもっとも。
「いえ、おかあさま、私が勝手に」
「え? 何て言ったの?」
「私が勝手に?」
「じゃなくて」
「え? あ。おかあさま?」
なんか母が悶え始め、床をどんどんと叩いている。空はたぶんストライクなんだろう。
「でもおかあさまじゃ堅苦しいわ。咲子ちゃんでいいのよ。たかちゃんもそう呼んでるし」
「たかちゃん、さん?」
「そ。高坂隆くん」
「あー。高坂先輩」
「とにかく。今晩はお風呂に入って、軽くご飯を食べて、歯を磨いて寝るの」
「でも、おかあさま」
む。と言う顔で空を睨む母。空も頑固だが、うちの母の頑固はジュラルミン製だ。
「咲子……さん」
妥協点をそこに置いたか。グッジョブだ。あまり母を調子に乗らせないで欲しい。
母がふぅと溜息をつくと、空の頭を撫でた。