第五十三話 わだかまり。
空が目覚めたのは一昼夜を過ぎ、深夜一時ごろだった。今は空き部屋となっているマンションの一角で身を隠している。念の為、持ち込んだランタンの灯りが漏れないように窓に目張りをしていた。横たわる空に寄り添った苺が時折半身を起こして姉の様子を伺い、また横になるというローテーションを繰り返していたが、いきなりドタドタと慌ただしい音が聞こえ、隣の部屋に居た俺はドアが開閉する音に警戒をした。どうやら目覚めた空の食事を用意をする為にキッチンに駆け込んだらしい。容体の急変なら俺のところに来るだろう。その様子からほっと胸を撫で下ろした。様子を伺うために念の為、ドアをノックして中からの返事を待つ。「はーい」と寝ぼけ声に安心してドアを開け、ベッドの上の下着姿の寝惚けた空を見て慌てて閉めた。
「空、まず服を着てくれ」
「ほーい」
よかった、まだ寝ぼけてる。と、後ろを振り返ると苺から喉元に包丁突きつけられた。
「覗きましたね?」
「ちゃんとノックして返事を確認したぞ!」
「斬り落としますよ?」
「なにをだよ!」
ふん、と言い放つと意味ありげに俺の下半身に目を向けながら反対の手のひらに包丁の腹でぴたんぴたんと音を立てながら再び台所に戻った。
怖ェェえ。
苺は俺の前で弱音を吐いたのが気に入らない(俺の責任ではないとしても)らしく、昨日からとても不機嫌だ。とてもとても、だ。作ってくれた玉子焼きは半分炭化し、味噌汁を作ってくれたんだろうが味噌は存在していなかった。まあ怒っているというより心ここに在らずだな。
ベッドの脇に椅子を寄せ、苺がせわしく空の口へと粥を運ぶ。まるで幼児退行した空は、未だ寝惚け眼で口を開くその姿は最早、親鳥がくれる餌を待つ雛同然だった。まあ苺が嬉しそうだから良しとしよう。あわよくば機嫌が治りますように。
「苺」
「却下です」
「その気がないなら仕方がない」
空の口に粥の最後の一口を流し込んで器に匙を置いた。しばし目を伏せていたが俺の方に向き直ると膝に手を置いて黙り込んだ。多分、今更、と言いあぐねているんだろう。
「だけど、そんな事を言っている場合じゃないんでしょう。話をどうぞ」
「簡単な話だ。九頭龍分家の技で気操練、と言うのがある。俺は使えんがお前なら使いこなせるだろう」
「鬼の技量でも使えない技?」
「鬼だから使えんのだ。鬼を殺す技だからな。つまり正確な話をすると俺は使えなくなった。この技の由来は兎も角、俺ですらその存在を信じられなくてな。だって鬼を殺すんだぞ? 何処にそんな化け物いんだよ。存在しないものへの技とか、何の為にあんだよって馬鹿にしてた。んでもお前なら使える可能性が高い」
「胡散臭い」
「だよな。ま、気にしなくてもいい。忘れてくれ」
「何処に、あるいはどなたに師事されれば?」
「いま胡散臭いって」
「習っておいて損はないでしょう。九頭龍の有用性はお母様の強さを見ればわかります。それに鬼化前の兄さんにも負けていますしね」
それだけ渇望しているということか。こいつが九頭龍を使いこなせばどれだけ強くなるだろう。恐らく俺や兄弟並みに伸びてくるはずだ。
「母に習うといい」
「お母様は分家の技まで会得を?」
「全ての九頭龍を、だ。ほんと転生したのが母であればと何度も思ったくらいだ。身内贔屓を差し引いても母は天才だよ」
「分かりました。機会があれば教えを乞います。それでこれからどうするおつもりですか」
「怪異対策室に行こう。由良とも合流したい」
「由良、様とは?」
「あーお前が殺そうとしていた鈴鳴りだよ」
苺が頭を抱えた。そりゃそうだな。
「一体、どういう経緯で。あ、説明はいいです、頭痛い」
突然、空が苺をベッドに引き込み「頭痛いの?」よしよし、と言いながら頭を撫で始めた。二人とも満更でもない様子だったので放っておいたら、苺が艶かしい声を上げ始めた。なんか空が胸やらお腹をさすさすしている。これは前世の苺が猫だった時の記憶だろう。鑑賞すべきか止めるべきか悩んだが、苺が息を切らしてベッドから飛び出した。
「このド変態!」
地を這う右拳が打ち上げられ俺の顎にクリーンヒット。鬼退治どころか世界を狙えるぜ。だがまたしても俺は何もしていない、と思うんだ。
理不尽だ。
「と言うわけで怪異室に行くぞ」
早朝、空は大分回復したのか顔色も良く、食事も摂れていたようだ。俺の声に小さく頷いて立ちあがる。そして何故か口数が減っている苺の手を取った。
「いい? 私はあなたがどんだけ強くても、世界一強くても同じ事を言う。私はあなたのお姉ちゃん。だからあなたの背中には隠れない。私より先に死ぬ事は許さない。わかった?」
何だこの違和感。以前の空とは違う雰囲気だ。
そう言えば。
「お姉ちゃん、覚醒、しましたよ」
一昨日の苺の台詞! 性格にも影響が出た!?
苺の口が震えている。数秒、言い淀んで、
「私は行けない」
「なんで?」
空は理解している。だがあえて苺の口から言葉を引き出そうとしていた。
「邪魔だから逃げろって言われた」
ぬ。俺に見せない苺のこの表情、目がうるうるして今にも泣きそうだ。そんな妹の頭を撫でる姉。解せぬ。
「そんな事言ってないよ。妹を守るのがお姉ちゃんなのです」
俺は何を見せられている? ひしと空に抱きつく苺。大団円ってことか? 俺はただ無意味に苺の八つ当たりを受けただけか?
へこむ。
気を取り直して玄関を出た。
「あ」
「あ?」
二人は仲良くハモる。
朧のことをすっかり忘れてた。




