第五十二話 お姉ちゃん。
初めて乗るヘリに困惑しながら座席に身を滑らし、指示通りにベルトでシートに固定する。義賢さんは忙しそうに無線機のマイクに向かって何かしらの指示を出しているようだった。幾らかでも情報を得ようと思ったが耳に入ってくる言葉は聞こえても理解が出来ない。それもそのはず、おそらくロシア語だ。それより重要な事は無線機を使っているということは携帯電話が死んでいるという事。
参ったな。無線機を目の前にしても使える自信がない。目を盗んであわよくば先輩に連絡をと考えていたが、一歩目からつまずいてしまった。
浅はかだった。この取引の事ではなく、何故、先輩の家を出てしまったのか。
分かっている。私は逃げてしまったのだ。自分がいると足手まといとか、迷惑をかけたくないとか。そんな事なんて先輩は気にしなかったのに。
だけど傷いた先輩を見て怖くなったのは、自分のせいじゃないって思いたかった。それは凄く卑怯だ。
申し訳程度のヘッドレストに頭を預けて、小さな窓の外に答えを探した。
突然、機体が傾くとアラームが一斉に鳴り出した。
「何事!?」
「分かりません、機体が安定しません!」
あーもう、変な事を考えていたからあり得ない幻聴が聞こえる。こんな場所で聞けるはずもない声が。
「空、ここか? 待ってろ!」
ヘリのドアが弾け飛んだ。
煤だらけで、傷だらけで、そしていつもの笑顔で、先輩が顔を出した。
「先輩!」
「すまん! 遅くなった!」
義賢さんの手が動く。すかさず足で押さえるけど鬼の力には敵わない。空いている手が銃を取り出し先輩に狙いを定める。不安定な足場の中で義賢さんの手から銃を奪い外へと放り出した先輩が、他の数名の兵から銃を突きつけられた。
「銃は効かないぞ」と言うと、しゃがんだ先輩の頭の上を弾丸が行き交い、同士討ちを誘った。一瞬怯んだ兵を蹴り飛ばし、落ちゆく悲鳴を背に先輩の姿が霞む。突然、義賢さんの身体が宙に浮くと蹴り飛ばされ、ヘリのパイロットに激突した。
大きく回転し始めたヘリの中、先輩の手が差し伸べられた。
「帰るぞ」
そう言って笑った。
「ずるいです」
笑った私を引っ張り抱き止められた。
「でもどうやって?」
「飛び降りるしかないな。地面に着地する瞬間、空を上に投げる」
「え。それって落下するエレベーターが地面に着地する瞬間にジャンプする、的なあああああああああああ先輩のばかああぁぁぁ!」
はい、知ってました。先輩が無茶する人って。差し迫る地面を見てどうしようかと冷静になってる自分もどうかと思うけど。でも割と落ち着いている。
耳鳴りと風鳴りの轟音は不思議に怖くない。というか心地よい。先輩は私を抱きかかえ地面に背を向け、必死にバランスを保とうとした。そんなに高所を飛んでいたわけじゃない。十秒もかからず地面に激突かな。
頬に先輩の温もりを感じ、目を閉じた。陶器が割れるような音は先輩の左腕がタワーマンションの外壁のタイルを削り取っている音。そうやって落下スピードを落とそうとしているんだろう。
まるで映画みたい。でも大丈夫。そろそろだ。私はあの子に先輩と一緒にって言ったんだ。
だから必ずいる!
「お姉ちゃん!」
マンションとオフィスビルの間に何層にも張り巡らされた蜘蛛の巣が私達を掴み、下段に落ち込むにつれ速度が落ちていく。最下層の巣が緊張の限界で上手い具合に切れた。大した痛みもなく地面に落ち、妹との感動の再会が、と思ったら苺は先輩に馬乗りになり、首筋に刀を突きつけていた。
「兄さん、馬鹿なの? 死ぬの? いや殺す!」
お、久々の沙耶ちゃんモードだ。これはこれで。
「ちょ、ちょっと落ち着け、これには訳があ!」
「言ってみてください」
「いやな? 昔見た漫画でそれで主人公が助かってたんで」
「ほう、漫画の知識で兄さんはそれで助かると。やっぱコロす」
うーん。先輩がスポーツ推薦で大学に行けたって言ってたけど、なるほどぉ。
「なんでだよ! 結果オーライじゃないか!」
苺は項垂れてよろよろと立ち上がった。
「この筋肉馬鹿に教えてあげてください。きっと私が言うよりお姉ちゃんからの説明がキツいと思う」
あー言っちゃった。
「えっと。自由落下速度には限界があって」
「うむ」
「うむじゃねえ」
苺の刀の切っ先が喉元をつつく。
「終端速度って言って時速約200キロって言われてます」
「うむ、あ、はい」と苺に睨まれ目が泳ぐ先輩。可愛い。
「つまりそれを相殺するには反対方向に200キロの速度で投げないと駄目で」
「それくらいは出来るぞ。やっぱ助かってたな」
あははぁ。
苦笑いする私をよそに苺の目が本気になったので、慌てて後ろから羽交い絞めにして先輩から引き剥がした。
「人間の体がその衝撃に耐えられるかあああああああ」
と、苺の刀がぶんぶんと空を切った。
先輩と苺がそれぞれ違う意味の「うわあああああああ」の叫び声を出す。
うるさい。
「す、すまん。うっかり空を殺すところだった」
「うっかり、って」
先輩を引っ張り起こすと違和感に気付いた。なんか先輩、大きくなってる。背も筋肉量も。ちょっと腹筋に触ってみる。服越しでも分かるこの変化。
「先輩、鬼化してる?」
「まあ、そんなとこだな」
先輩に抱きつき体を合わせて寄り添う。あったかい。
「ちょ」
「お姉ちゃん!」
私、何してたんだろ。今も昔も変わらないよ。ううん、そんな昔の話じゃない。奏ちゃん達と遊んでいた頃の、ほんのちょっとの昔。
あー目が霞んできた。もう限界、睡魔が襲ってくる。私の名を呼ぶ二人の声を聞きながら微睡に敗北した。
背に空の体温を感じる。
俺の判断は間違っていた。己の覚悟の足りなさを痛感した。またしても同じ過ちを犯すところだったのだ。今回は間違いでした、次は頑張ります、ではすまないのに。こういうところが鬼の性質何だろう。
次は。
次は。
そう。次があるから試合でも本気になれていなかったのだろうか。俺にとってアメフトはゲームで失敗しても何も失う事がないし、もちろん命なんて落としようがない。そんな軽さに甘えが出ていたんだろう。知らずに鬼基準で考えていたんだ。
当時は懸命にやってたんだけどな。
そう溜息をつくと苺が不機嫌そうに蹴とばしてくる。
「痛い」
「これくらい我慢です。お姉ちゃんの痛みに比べれば」
そうなのだ。空の腫れあがった腕。全身にみえる切り傷、痣。いったい何があったのかまだ聞けてはいないが、その死闘は想像に難くない。
「そうそう、お姉ちゃん、覚醒ですよ」
「まじか」
「ナナキ殿をもうすでに超えていらっしゃいますね」
「そっか」
そっけない返事をする俺を横目で見る苺。溜息をついて目を伏せがちに地面を見ている。
「私じゃだめだった」
問うのはやめる。これは自問自答だ。
「お姉ちゃんから逃げろ、って言われた」
「そっか」
「お姉ちゃんは強い、けど弱いの。昔から。私を震える手で撫でて、大丈夫だよ、大丈夫だよって」
苺の落ちる涙がアスファルトに染みを憑けていく。
「ほら」
そう言って右手を差し出す。
「なんですか、その手。あわよくば女子高生の手をタダで握ろうと?」
「タダって。お前の倫理観は、ま、いっか。ほら手を出せ」
渋々手を出した苺は俺に引かれるまま歩く。
「それでも歩かないとな。走ったりもするかもだ。でもたまには止まって休め」
もう俺の話は聞いていない。手を引かれたまま、もう一つの手で溢れる涙抑えようとしていた。空を起こさないよう、泣き声を聞かれないよう赤く染まり始めた空を見上げ、大きく開けた口から僅かな嗚咽を漏らしていた。
悔しいよなぁ。
俺もなんだよ。俺の背は一人の女の子、俺の小さな手はお前の手を引くだけで精一杯だ。
だが、それでいいわけがない。
そうだな。もう一人じゃ駄目なんだ。




