第四十八話 月下美人
腕を引かれ柔らかい感触が頭を包み込む。やがて訪れた衝撃は苺に抱えられながら床に叩きつけられて倒れ込んだという事。頭を数度振り視界を取り戻そうとするがまだ目がパチパチする。
「お姉ちゃん、怪我はない!?」
「眼が痛いくらいかな」
「ちょっと! 目から血が!」
「そなの? 今はいいよ、鬼は?」
「なんか暴れてるけどこっちを認識出来ないみたい。何をしたの?」
「使っちゃった」
「羅刹眼?」
「うん」
苺は私に抱きつくと少し震えた。
「ごめん、私が弱いから」
ほんと優しい子だ。昔もいつも側に居てくれて、嬉しそうに頬をすり寄せては甘く泣いていた猫又の苺。ちっちゃいくせに野犬から私を守ったり、ご機嫌な時は尻尾を高く上げてゆらゆらと振ってみたり。
「いい? 苺、多分、眼は完全には効いていない。理由はわからないけど、少し経てばまた襲ってくる。でも時間は出来た。何か考えよう」
「うん」
苺は私から顔を離すとくしゃくしゃの泣き顔を見せて必死に落涙に耐えていた。あーもう可愛い。普段は高飛車なお嬢様っぽく振る舞うのに、これがギャップ萌え? 奏のオタク心理が少し分かった気がする。
「ほら、お鼻チーンして」
「ちーん」
素直か!
苺の背後から朦朧とした様子で鬼が近づいてきていた。私の視線に気づいた苺は立ち上がり腰の刀に右手が延びる。
「お姉ちゃんの愛、受け取りました! まだ頑張れる!」
「え? あ、う、うん」
そんな苺から少し離れる。背に連結ドアの冷たい感触。少しづつズレながら左側のシートに身を隠し、鬼の様子を見る。視線は定まってはいないが気配を捉えている。落ちてたペットボトルを投げると普通に当たった。脅威度を推し量って防御手段を選択しているのか、気付けなかったのかは分からない。ナイフなら? 試すにはまだ早い。そこで疑問が浮かぶ。
羅刹眼から受けたダメージとは何か。
物理的? 生物的、言わばウイルスを含む細菌兵器や化学的作用か。今、皮膚に外傷はないが、吐血や神経に影響が出始めてから昏倒している。先日の鬼は肌が爛れて生き絶えた。なら外から?
否、その崩壊はおそらく内部から生じる。内部から外部への影響のスピードは早く、細菌類の類じゃない。
毒だ。神経毒だけじゃない。壊死も含むなら蛇毒に近い。でもこの即効性は? 鬼自身の特性と絡んでるからだ。そして最悪な答えに辿り着く。
これ、人にも効果を発揮する。
当たり前だ、もともと鬼が人に使う呪いだった。羅刹鬼がこれを使って多くの人を殺していたんだ。
暇さえあればよく朧さんと桜花さんと話をしていた。ある昼下がりに浮かんだ疑問を投げかけた。
「朧さん、鬼さんたちの能力って、例えば桜花さんみたいな癒しの力を望んで得られるものですか? なんというか訓練とかで」
「欲しくて得られた力ではありますが、生半可な想いではありませぬな。例えば桜花、話せるか?」
黒猫のぬいぐるみに入っていた桜花さんが猫のように背伸びをすると右足で顔を洗いながら欠伸をした。
「あれは我らが分けられて間もなく、各々が伴侶を持つようになった頃の話です。私は鶉という農夫に嫁ぎ二人の子を授かって平穏な日々を過ごしておりました。ある日、野伏たちが永遠の命が授けられる鬼の臓物「母神の肝」というもの探して私の村を襲ってきました。まだ鬼の姿のままの私でしたから当然、警戒をしていましたが毒混じりの煙と火で炙られ、あっという間に殺戮は終わりました。私は一人も助けることができずに我を失い、野伏に必要以上の苦しみと痛みを与え、噂を流した者には家族を差し出すまで拷問し、その末には目の前で子供以外の家族を一人づつ殺しました。やがて」
黒猫は布地の顔を歪ませて私を見た。
「流れ出る血を見ても我が子が帰って来るわけじゃない、破壊や殺しの技なんて役に立たない、癒せる手が一番必要だった事に気づきました」
私は思わず桜花さんを抱きしめた。
「ごめんなさい」
「いいんですよ。貴女様なら、むしろ聞いていて欲しかった。私は聖女なんかではなく、この手は血に塗れていることに。それでもこの桜花は空様のお側にいたいのです」
「いてください! いなくなったら探しに行きます! 絶対に!」
思わず力を込めた指に桜花さんは頬を寄せてくれた。
「嬉しゅう御座います。そのお言葉だけで私の命、惜しくはありません」
「ダメです、惜しんでください。私はすっごく泣くんです。誰が慰めてくれるんですか」
「空様は存外、我儘でいらっしゃる」
「甘えちゃダメですか?」
「また返答に困る事を仰いますね。貴女様のお好きになさいまし。桜花はもう知りません」
体を丸めて膝の上の桜花さんを抱きしめて、
「何処にも行かないでください」と呟くと、身動いで顔をだした。
「ふう。行きませんとも。貴女の花嫁姿を見るまでは」
「え、結婚しなければずっと居てくれるんですね!」
「また、そんな事を」
そう言うとぬいぐるみは力が抜けたように腕の中でしなりとなった。
「あー桜花さーん」
くすくすと笑う朧さんが「これはげに珍しいものを見せて頂いた」と、さらに笑い転げていた。
「よもや桜花が恥ずかしすぎて顔を見せられなくなるとは」
「ふふ。私は幸せ者です。色んな人に見守られて。朱ちゃんや蒼ちゃんにも早く会いたい、って話それちゃいました。じゃあ、羅刹鬼は何でこんな能力を持ってしまったんですかねぇ」
「想像でしかありませぬが、やはり桜花のように大切な者を人に殺されたか、虐げられたか、そのようなところでしょうな」
「可哀想な鬼だったんですね」
「全く奇なる事を仰いますな。鬼ですぞ?」
「だって皆さんも鬼ですよ? 人も鬼も変わりません」
朧さんは少し黙って笑った、ように見えた。
「だから若様は貴女様をお選びになられたのですな」
少し照れくさい。だから立ち上がって窓を開けた。
「多分、そうじゃないんです」
そういう私に朧さんは寂しそうに俯いて、やがてテーブルから降りて「茶が冷めました、淹れなおしましょう」と言って台所に行った。ぬいぐるみの小さな手で支度をする朧さんはほんと器用だ。




