第三話 疲弊
視界が光に覆われていく。事故で頭を打って今頃ダメージがきたのか? どんだけ鈍感だよ。
視界が滲むと火花が咲いて粒子が舞った。
「そんな名前、名前じゃないです。名無き、なんて。わかりました。私がつけてあげます」
空の声? じゃないが似ている。名無き? 俺の事だな。そんな感じがする。
「私のために会いに来て。そう、死んでも。何度でも生まれ変わって会いに来てください。だから、貴方の名は」
思いっきり酸素を吸い込んだ。しばらくぶりの空気な気がするが、変な夢を見ていた間、息を止めていたんかなと重い瞼を開けると、目の前に空の顔が間近にあって思わず叫ぶ。
「なんだなんだ!」
驚く俺の反応を見て空は泣き出した。というか俺の顔が濡れているのは、ずっと側で泣いていたのか。ぽかぽかと俺の胸を叩いてくる。
空よ、おそらく俺は怪我人だと思うんだ。
「先輩、しんじゃ……たかと、でも……びくび……でも息し……」
「いや、何言ってるかわからん、まずは落ち着こう」
空は一旦泣き止んだが、顔がピクピクしてやっぱり泣き出した。
「なんで生きてるんですかぁ」
理不尽な言葉だが思わず「ええぇぇ? いや、すまん」と謝る。
「息してなかったんですよぉ」
「息してなくてすまん。ん? どうやって確かめた?」
空は口をとがらせ「知りません!」と、機嫌を損ねる。
うむ。可愛い。
力が抜けたのか溜息をついた後、脱力して項垂れた。しばらく沈黙が続く。俯いた顔の表情は見えない。肩に手をかけ「空?」と声を掛けると、俺の手の重量でバランスを崩し倒れてしまった。
「あー」と、何と言うか間抜けな声を出しながら空を見る。女の子らしさはともかく、服は薄汚れ、髪も乱れ気味。家に帰っていないのは一目瞭然。顔は公園か何処かで洗っていたのか綺麗なままだが。
まあ、まずい。
この状況を他人に見られると、まずい。
昨今の騒動のせいで人の目は厳しい。通報されるのは間違い無いだろうが、それは空の弁明でなんとかなる。問題は空は警察すら避けている。犯人から逃げたいなら警察に保護を頼むのが一番安全だ。それをしなかった理由があったんだろう。
気乗りはしないが最後の手段しかあるまい。母親を呼んで迎えに来てもらうしかない。
ポケットから液晶が粉々になったスマートフォンを取り出した。
「うむ」
なにが、うむだ。ただのゴミになった物をまたしまうと、取り敢えず空を背負い歩きだす。
うん? 俺、車に轢かれたよな?
体は鍛えておくべきだな。いつ車に轢かれてもいいように。
静かに玄関を開け後ろ手で鍵をかけると、
「ふうちゃあん、帰ったのぉ?」と母の声が届いた。
ぬう。気づかれてはならぬ相手に気づかれてしまった。空を背負ったまま靴を脱いでると足音がパタパタと聞こえてくる。せめてこの状況を空自身が説明できるまでばれないようにと思っていたんだが。
「もう! 電話くらい! おろ? あれ? あらあら?」
背負った空に気づいた母が、とんでもない勘違いをして顔を真っ赤にして怒り始める。こうなると思ったんだよ。昔からまっすぐな人だからなぁ。
「ちょっと酔った女の子をお持ち帰りって良くないわよ!というか、未成年でしょ! あなたも!」
「ちげえよ! それだったらこっちには帰ってこないよ!」
こっちというのは現在いる家は母屋で、普段俺は離れで生活している。以前祖父が住む家屋だったもので他界する前、俺に住むようにと不思議な遺言を残した。
「ふむ? そりゃそうね。で、どうしたのその子、具合が悪いの? ああ、なんてこと!」
「ど、どうした!」
「めっちゃ可愛い!」
「あ、まぁ、そうだな」
「あ。この子、ふうちゃんの初恋の子じゃないの」
「なんでその情報を!」
「たかちゃんから」
高坂隆! コロス!
高坂はうちの母親を「咲子ちゃん」と呼んで、母からも可愛がられていた。
きっかけは俺が小学校の頃、風鈴という名前が原因で虐めにあっていた頃、忍耐の限界を超え、扇動者の高坂を思いっきりぶん殴った事があった。親同士が呼ばれ大騒動になるかと思いきや、高坂の父親は我が子を殴り始め、我が母親はその高坂をかばった。「これから良い事、悪い事を覚えていけばいいんです!教えていなかった私たちが悪いんです! ごめんね隆くん、ふうちゃんの、痛かった?」と声を掛けられて高坂の奴は号泣した。それ以来、家族同士の付き合いが始めり、あいつは親友となったが機密情報を渡してはならぬ相手に渡すとは。
う。かあさんがじっと俺を見てきた。
「ふうちゃんの事だから信じるけど」
いや、さっきめっちゃ疑ってたよね!?
「事情があるのよね。茜ちゃんの娘さんか。やっと会えた」
「空の母親を知ってるのか?」
優し気に空の髪を撫でる。父親の事件の事も当然知っているはずだ。
「うん。友達だったもの」
「まじか」
「私たちはどっか繋がってる、とか言って仲が良かったの。きゃあ恥ずかしい!」
そういって頬に手を当て身をよじる。身長150センチのチビ母は我に返ると、
「んで、大丈夫なの? ふうちゃんが怪我だらけなのは毎度だからいいけど」
いいんだ。
「あまり寝ていないと思うんだ。あんな事があって疲れがたまってるんじゃないかな、ぐっすりだよ」
「そうね。まだ高校生なのに。にしても初めて女の子と密着しているのに残念ね。しかも初恋の子、うぷぷぷ」
「うるせぇ!」
そう言われて背中の温もりを意識し始めてしまった。
「男の子ねぇ。ともかくソファーに運んで。起きたらご飯か、お風呂。女の子だから先にお風呂かも。あたしがご飯を」
「俺が作る。母さんはお風呂を頼んでいいか?」
両こぶしを振り回して「納得いかない!」と口を尖らせた。仕方がないんだ、母の食事で最悪、空が死に至るかもしれない。基本、冷凍食品かレトルト。それ以外だと素材を得体のしれないものに変えてしまう錬金術師、それがうちのマザーだ。
母の手を借りて空をソファーに静かに降ろす。ひとつ身じろぎをすると自ら掛布を引き寄せて寝息を立て始めた。食事は起きてから作るか、とその場から離れようとするとトレーナーの裾を空に掴まれた。
「お父さん」
そう言って空は寝言と一緒に涙を流した。様子を見ていた母が「傍にいてあげなさい」と言って風呂の支度に行った。