第四十六話 生存の糧
「違和感はあった」
白鬼は吐息混じりに呟いて、切り落とされた腕を拾う。
「何を知って、いいや、どこまで知っている?」
「何も知らないと言った方が良い。全てが憶測に過ぎん」
「草薙は女を連れて来い、障害は排除しろとしか言わなかった。西方の鬼らは綾姫をよく知らんのだが、その女が鍵なのか?」
どう答えたものか。始まりは鬼への抑止のために神が遣わした調停者という噂からだ。しかし羅刹の能力は鬼が持っていたものであって、神人の鈴鹿御前ではない。
神は何故、人ではなく鬼に超生命たる能力を与えたのか。人が自身を守る為には何を与え賜うたのか。空海、綾姫の羅刹眼は偶然が重なって生まれた武具にすぎない。
人、羅刹眼、鬼、九頭竜。
そして神。
数日前の空殿との会話を思い出す。
「朧さん、鬼は何故、人を」
昔の綾姫のように言葉を選びながら、だが口ごもったまま押し黙ってしまった。
「そうですな。我々は人を食べなくても生きていける。現に我ら九頭竜は人を喰ろうた事はない」
記憶のフラッシュバックの気分の悪さを誤魔化そうと話題を持ちかけたんだろうと「問いの内容を間違えましたな」と苦笑いをした。
綾姫、と言いかけ、現世の名でお呼びした方が良いと思いなおす。
「空殿は若が人喰いだとやはり抵抗ありましょうや」
普通の人、しかも学舎に通うているうら若きお方なら当然な答えの質問を少し後悔する。
「うーん。なんかそれは想像できなくて。ほっとしたより、やっぱりなああー、って感じです」
嬉しそうでも、困惑した感じもなく、ただ淡々と話す空殿の表情は至って平常だ。そう、彼女は若様を信じていらっしゃるのだ。ご自身の記憶の中の若様を。
「私の中の先輩は近寄り難くって、少し遠くから見ているくらいが丁度良かったんです。全然私と違う世界の人だった。みんなから慕われて、いつも世界の真ん中に立っている人だった。暗くてネガティブな思考しか出来ない私は、同じ所には立てなかったんです。想像すらしなかった。でも」
空殿が顔を赤らめ俯いた。
「ふう。先輩はそんな事は絶対しません」
真っ直ぐに前を見据え、儂が憑依しているクマゴロウ殿を抱きしめる。いや、儂が入っているのだが?
「あ、ごめんなさい、つい!」
空殿の強めの抱擁から解放され、痛覚のない布製の頭を撫でられた。この御仁は元竜神の儂が怖くないのだろうか。本当に変わっている女性であるな。
「空殿、お辛い時を過ごされて来たのに、若様の支えになって頂いた事に我ら一同、感謝を申し上げる」
儂をテーブルの上に置き向かい合わせるとソファーの上でなぜか正座をする。
「私も! 有難う御座います。みんなもですけど、桜花さんがずっと守っていてくれてた事、すごく嬉しかったです。辛い事もありましたけど、今、私は幸せ者です。母が二人もいるんですよ!」
おそらくクマのぬいぐるみの儂の表情は緩んでいるのだろうなあ。そして桜花は黒猫のぬいぐるみの中で泣いておるだろう事は想像に難くない。というか猫目が潤んで涙が吹き出しておる。布の体で器用なやつじゃ。
「何故、人を喰らうのか、か。確かに人の肉には、えもしれぬ誘惑がある。味を知らぬ儂らでも欲する衝動を抑えることに苦労する事がある」
「じゃあ先輩はえっちな目で見てたんじゃなく、美味しそうな獲物かもって見てたんじゃ・・・・・・」
「間違いなく前者です。ご安心ください」
「桜花さん、それ安心していいんですか?」
「プライバシーもあるのでお声が掛かるまでは控えておりますが、若様が何かしようものなら、この桜花が全力で若様を肉片に変えて差し上げます」
「まるで母親だな、桜花よ」
「まるでじゃありません。桜花さんはお母さんです」
桜花が憑いている黒猫のぬいぐるみは視線を背け顔を見られないようにしている。その頭を空殿が愛おしそうに撫でるを見て、これも一つの形なんだろうと腑に落ちる。
甲斐があったな。
私のお役目なのです! 私の義務です!
・・・・・・そうであった。
この子は私の全てです。この命を賭しても私が守ります。
念話も静かになり、自然とテラスの木漏れ日を見た。ふと見れば二人も微睡の中、陽の温もりを肌で感じているようだった。その閉ざされた空間の静寂を空殿の優しい声が満ちる。
「食べなくても大丈夫じゃなくて、食べる必要がないって事かもですね」
はっとしたその言葉は憶測を述べたわけじゃなく、そういう世界を空殿が望んだに過ぎないのだろう。恐らくそれは核心を得ている。だが真実に辿り着くには材料が足りなさ過ぎる。必要性? 何のため? 儂は人を喰った事がない。そこに何か重要な要素を見落としているのか? とは言え、人を喰う事はもう出来そうもない。そういえば儂とした事が失念だった。九頭竜全員が経験がないわけではない。
草薙童子。あやつは何人喰らったのだ?




