第三十二話 微睡みの中
軋むような筋肉痛と寒さで体が動かなかった。凍るような寒さは気のせいではなく、バスタブに沈んだ体が薄氷まじりの水に浸かっているせいだ。その事でパニックにならなかったのは傍にいた空の泣き腫らした目が安堵と共に微笑んだおかげだった。
「氷姫か。世話をかけた」
若様の馬鹿! 転魂まもない体がホノカグラの熱に耐えられましょうや! お体の血はたぎり、心の臓まで焼いていたのですよ! これも考えもなしに焔が火を入れたせいで!
言ってくれるなぁ。あの時はあーでもしないと坊ちゃん、死んでたんだがなぁ。
言うな! 我らの役目はなんぞや? それになにが「坊ちゃん」ですか。身の程をわきまえなさい!
その氷姫の言葉に焔は応じなかったが、冷たかった水があっという間に湯気が立つほどの温度になった。沸騰しなかったのは焔が怒りに乗じて氷を溶かしたわけでもなく、ただ俺の冷えた体を暖める為なのだろう。
氷は、氷は心配で溜まりませぬ。私の、た、た、大切な、若さ、いえ、我らの大切な若様に、もし大事あれば、氷の心も焼け爛れてしまいます。
疾風の「そのまま溶ければ?」の言葉に氷姫が喚き散らし始めたので、手で払い声を消した。
寝ている間、色々思い出した。九頭竜の面々や草薙との因縁、そしてこの千年間の転生を。
そして瞼を開けていられないほどの睡魔が襲ってくる。完全に視界が閉ざされる前に空の心配そうに俺の名を呼ぶ声が微かに聞こえた。
再び目を開けると空が心配そうに覗きこんでいた。
「ごめん。心配、かけたな?」
と、最後まで言い切る前に空の平手が軽く俺の頬を打った。
「何故ですか」
空の目尻から涙が一つ零れた。
「何故そんなこと聞くんですか。当り前じゃないですか。先輩が目を覚まさないから、私ずっと眠れなくて。ごはんも食べれませんし、勉強も出来なかった。桜花さんの手当てが済んでも、体のあちこちについた傷消えないし、頬だって、びーーって、傷入ってるし、それでも、先輩、起きないし。……起きないし!!」
空がバスタブまで入ってきて俺に抱きついてくる。その柔らかさと暖かさが心地良い。
「なんで先輩が! 先輩が!」
俺の肩に顔をうずめ、空の小さな手が俺の肩を叩くたびに水しぶきがあがり、顔を濡らしていった。
空が泣くまいとして肩を震わせている。
「なぁ、空。俺、分かったんだ。なんでお前を守りたかったのか。俺は昔、お前を守れず死んでしまった。幾度も。幾度も。次こそは、とか情けないことを思いながらね」
空が俺の胸に顔を埋めたまま息を殺す。
「それは、悲しくて、辛くて、な。死に逝く中で、死より怖いこと知った。己の弱さを恨んだ。浅はかさを、軽率さを、無知を。何より、覚悟の足りなさを。あの時、ああすれば、こうすれば良かった、ばっかりだったよ。今は自分の出来ることを全てやっておきたい。あの時の苦しみをもう味わいたくないんだ。だから、全部を全開でやりたい。迷惑、だな? それに」
空が俺を見上げる。
「俺はお前の為に七回生まれ変わった。千年間、ずっと会いたかったよ。そして今、こうしている。なんかもう、満足だ」
空が少し寂しそうに微笑んだ。
「先輩はいつもそう」
俺は鬼だ。
空の父親を思い出した。
由良を思い出した。
「それでも若様は言えますか?」
鈴音の声が、囁いたような気がした。
「ナナキ! 貴様は未だに世迷言を吐くかッ! 人間どもが我らに何をした! 畏れていたのは奴らではない、我らではないか! ここで! ここで、奴らを絶やさぬと我らの生きる場所、帰る場所が失せるのだぞ!」
違う。そうじゃないんだ、草薙童子。これは自然の理なんだ。我らは既に消えゆく種なのだ。枯れゆく木のようにやがて大地に還り、次の若木を育てる為だ。
「先輩?」
我に帰ると心臓が冷えた。ここが現実と理解出来るとほっと溜息をつく。俺にまたがる空の胸に手を当てる。体のやや中央、心臓の位置だ。俺を見下ろす空の髪の毛の先から雫が落ちてくる。前にもあった光景だが今回は劣情も恥もない。
ただだだ幸せだった。
「生きてる」
「当り前です。先輩が守ってくれてるんですから」
「そっか」
「そうです」
俺が微笑むと、空もそれを返す。
これがずっと続けばいい。
ずっと空の笑顔を見ながら馬鹿な話を続けるんだ。
若様!若様!
桜花の声で起こされ目を薄っすらと開ける。時計を覗き込むと十九時二十分と暗い部屋の中でデジタルの時刻が淡く輝いていた。また寝に耽ってしまったのか。自分の姿を確認するとTシャツにスウェット。いつの間にか着替えてベッドへと入り込んでいたが全く記憶がなかった。
綾姫様がいないのです! 気配も消えて、私の声にも応えてくれないのです!
「そうか。大丈夫だ。多分、苺の穏術だろう」
だろうって、何をのんびりされているのですか! それだと空様は牢獄へと閉じ込められるのと同意なんですよ! いくら若様であろうとその判断には異を唱えさせて頂きます!
桜花の取り乱し方は理解できる。前世でも赤子から見ていたのだ。現世でも常に傍にいて守っていた、言わば我が子同然の空の失踪は、母親の愛慕からくる憂事と同じだった。
桜花、落ち着きなさい。若様は覚悟をなされたのです。
「朧、それはちょっと違う。諦めたのさ」
若様! なにを情けないことを!
桜花の言葉を追うように他の鬼たちも騒ぎ出した。
「言うな。諦めたのは空を守る事じゃない。守りながら戦う事を、だ。苺が結界を作って空にしばらく中で隠れてもらい、鬼の目から逃れてもらう。そしてその間に草薙を討つ。その後に螺旋が空を結界から放つ。以上」
しばらく鬼たちは喧々囂々としていた。憎き仇とも言えよう仏門に大事な姫を預けるともなると、心根まで張り巡らされた憎しみが、簡単にそれを許さないのは分かっていた。
「昔とは違ってしまった。言っても仕方がないことだけどな」
俺の言葉で鬼たちは静まり返った。理解してくれたのだ。敵は一人ではない。多勢で来られたら俺の体一つじゃ守り切れない。以前の乱では、彼らにはまだ体があった。鬼の中でも部族を代表する者たちなのだ。一騎当千と言っても過言ではない。だが今は力を借りることが出来ても、俺の体を通じてほんの一部分の力を発揮出来るに過ぎない。
「すまない。決して、力不足という事じゃない。俺の手が届く範囲が狭すぎる。ただ、それだけなんだ」
御意に。
鬼達は、ただそれだけ言って、意識の外へと消えていった。
如何に無念なのかは痛いほど分かる。
俺だって、そうなんだ。
大言壮語を吐くこの口が疎ましい。
今頃空はどうしているだろうか。
また泣いているだろうか。




