第ニ十九話 火之神楽
鬼のその巨体が俺との間合いを詰めたのは一瞬だった。
咆哮する鬼の左手を受け流すつもりが鉄の塊のような拳で掌を弾き飛ばされる。すかさず脇腹が抉られ九十キロを超えた筋肉質の俺の体が重力を感じさせる事もなく宙に跳ね上がった。鬼から蹴りが放たれ辛うじて両腕の十字ブロックで防ぐが勢いまでは殺せず後方へと飛ばされる。
態勢を整える最中、奴は跳躍して追いかけてきた。
金の目の光彩が揺らめいて接近する。反応できずに浮いた体に踵落としの衝撃が加えられ地面に叩きつけられた。
息絶え絶えに仰向けになると、月を背負った鬼の影が今まさに頭上から落ちてくる頃だった。膝で俺の頭部を狙い、右拳は力を蓄えて俺の鳩尾を狙っている。
気圧されるな。息を整えろ。己を鼓舞し、歯を食いしばる。
膝を躱し、振り下ろされる両腕に両手を絡ませ勢いを利用して地面へと体ごと叩きつけた。鬼の体が反動で宙に浮く。その僅かな隙に両足で蹴り間合いの距離を稼ぐ。
目の端で地面に倒れている奏が僅かに身じろぎをしている。安堵と意識の切り替えの為に短く息を吐く。
「徒手に特化した技、か。相撲、とは違う。面白いな」
右目の視界が赤くなっているのは血のせいだろう。口の中の血を吐き、両手を上げ構えた。
「ああ、技も人も進化する」
由良は笑い、
「変わらぬ。狼や、熊は、生きるため、本能で敵を殺す。人間は違う。己、の為に人を殺す。それはいい。それも本能。だが人間は小さな命、なんの障害にもならない小さな命を、己の命の糧にする。傲慢。そして残酷だ。昔から、変わらぬ。だから、俺は鈴音を守る」
鈴音を食べておいて何が守るよ!
螺旋が激高する。鈴音を知っているようだが、俺も多分知っている。
夢で聞いた名だ。
どっかで見たことある術式だと思ったら、あなたは由良ね。鈴音が大事な人だって言っていた名!
なんで食べた! お前も力が欲しくて鵺の、鈴音を食べたくせに!
由良の体に赤い線が走ると勢いよく血が噴き出した。螺旋の爪だ。
「ひふみよいむなやここのたり、ふるべゆらゆらとふるべ」
祓い祝詞の後、傷がすぐさま塞がり血の跡だけを残した。
鈴音? 残留思念ね。若様、鈴音を祓うから時間を頂戴。
「いや、いいんだ」
なんでさ!? このままじゃ、
「いいんだよ。螺旋」
鈴音の言葉を遮った俺に螺旋は苛立ちの感情をぶつけてきた。
知らないよ! 一人でやればいいじゃない!
ほんとじゃじゃうまだなぁ。ああ言ってはいるが昔の親友の思い出に触れて螺旋は冷静さを失っている。頭は良い子だが、やはり子供なんだ。
「親友だった子だろ。お前の手は汚さなくていい」
若様の馬鹿!
そういうと螺旋の気配が小さくなる。
「お前は、誰だ。鈴音を、知っているの、か」
「さあ、どうだろ」
由良は奏を見ると、俺に振り返って睨んできた。
「き、さま。鈴音に何をした!」
「うん?」
由良の跳躍の事前の溜もなく気が付けば一階建ての屋根位は跳び越えてきそうな高さで迫って来た。
流石に受け流せずに空からの災難を転がって避ける。鬼の右膝と右手が地面を砕き、破壊されたアスファルトが礫となって四散した。俺は立ち上がり地面にめり込んだ右手を抜こうとしている鬼の顔めがけ右足を蹴りだす。鬼は左腕で止めようとしたが、その瞬間に羅漢坊の力を借り、ガードする左腕をお構いなしに蹴り抜く。鬼の力を込めた足が腕ごと顔面を捉えた。ごきんという音と共に鬼の首が背の方に折れ曲がる。
「おまえ、鬼か?」
鬼の首が徐々に持ち上がる。
「人では、ない。なら手加減は、なしだ。霜切り、御覧いれようぞ」
手加減してこれかよ。
鬼は首をこきりと鳴らすと右手で空を切った。すると指先がなぞった後に白い紙きれのようなものが現れる。
「符に宿りし雷の理、直ちに示せ」
俺はぎくりとした。鬼の口から女の声が聞こえたせいだ。
爆音とともに光が爆ぜ、地面が吹き飛ぶ。
鬼の体の周りに雷が幾度も落ちる。
符に書かれた文字が青白く輝いたかと思うと、バチバチと爆ぜ、鬼の手を包んだ。鬼は腰の刀を抜くと雷を帯びた手が鍔元から刃先に向けて、つい、となぞっていく。
刀身は雷を帯び、刃先から小さな落雷が地面に落ちている。
俺は苦笑いをした。
雷は最低でも二百万ボルト、大きいものだと億を遥かに超える。やばいのはアンペアもだ。スタンガンは最大1アンペア。雷の最大二十万アンペアは、その20万倍と考えると笑えない。非伝導体の服でさえ突き抜けてしまう。
鬼が刀を振った。頭上を掠めた刃が俺の髪の毛を少し焦がす。
刀の光跡から雷鳴と共に雷が放たれた。
瞬間、背に痛みが走った。刃先から放たれた「雷球」がブロック塀を「溶かし」、溶けきれなかったものは弾け礫の様に俺の背を襲ってくる。
注意を削がれ鬼の動きを見逃した。鬼の右足の爪先が腹にめり込み、体が宙に浮かぶ。
まずい。
すでに鬼は納刀状態から抜刀の構えを取っていた。
「疾風!」
疾風は二人の間に風を巻き起こした。既に解き放たれた刀身は風を斬る。
コンマ1秒の遅れで良かった。それだけの時間があれば体ををずらし、居合からの軌道を避けられると思った。
刃だけならば。
雷は俺の体を疾走し、浮かんだ俺の体から地面へと落雷する。地面に落ちた後も神経細胞は焼かれ麻痺した体は動くことを拒否した。
若様!
疾風の声が聞こえたが、耳鳴りがひどく不鮮明だった。起き上がろうと地面についた手は焼け爛れ、アスファルトに張りついた皮膚が手から剥がれる。
歯痒かった。
力のない自分に。いままさに死にかけんとする自分に。
何が空を守る、だ。
何もできないじゃないか。
鬼たちの力を借りても、何も出来ていないじゃないか。
だけどなあ。
俺は立たねばならない。
立たねば空が泣く。それだけは死んでも嫌だ。
俺は少しだけ笑った。
鬼がずっと見ていた。
「お前も俺と同じ、か。大切な人、いるな。だがお前を殺さないと、鈴音が消えちまう。螺旋、ってやつが鈴音を匿ったな? 悪いが、終いだ」
鬼はゆっくりと近づいてきた。
雷のざわめき。それが段々と大きくなった。
パキンッ
割れた音がした。
俺の目の前で。
若様、見つけたよ!
螺旋の声が響く。
何を? と声に出したかったが、口がうまく回らない。顔が熱い。
半分しかない視界で目の前を見た。
空間に亀裂が入っていた。
パキッ
さらに亀裂が大きくなり、穴から熱気が噴き出している。
動かぬ彫像のように鬼は止まっていた。時間が止まっているわけでもなさそうだ。下を向いた切っ先から稲妻が僅かに動いていた。
少ししかもたないからねっ! はやく、はやく!
はやく、ってなんだ?
呼ぶの! 呼んで! 若様は忘れてない!
何も覚えてない。
俺は思い出せないんだ。辛くて思い出すのが怖いんだ。
俺は忘れてしまった。
忘れてないっ! 忘れるわけない! だって綾姫様をお守りするって誓った!
そうだ。
俺は誓った。綾姫、いや空に。
それだけは何処にも置いていかない。俺の中にあるんだ。
空と昔創った、俺の、俺たちの形。
其の名は。
「来い、火之神楽」
それはヒヒイロノカネを天津麻羅が大蛇が息吹く炎と、己が血と巫女の血で鍛えし剛刀。
割れた空間から炎が噴き出した。




