第二十八話 由良と鈴音
「あんちゃ!」
緑の下生えをばさばさと掻き分けて駆けて来る妹を抱きとめた由良は、笑って細くて軽い体を空へと持ち上げた。
「あはは。あんちゃ、おらはもう子供じゃない」
そう言いつつも鈴音は兄の頭を抱きしめた。
「お帰り、あんちゃ」
「鈴音も元気してたか?」
「ああ、この通り巫女に……と言ってもまだまだ卯月様に怒られてばっかりだ」
由良は麻織りの白と赤の巫女装束を着た鈴音を見て微笑んだ。
「似合ってるぞ」
鈴音はやんわりと地面に下ろされると大きな兄の手を引いた。
「あんちゃ、京はどうだった? 検非違使の課試はどうだった?」
由良は頭を掻き、
「課試もなんも、どこぞのおえらい人の紹介がないと無理だと云われてなぁ」
「そっか」
「あんちゃん、上手く喋れんからなあ。お前くらい賢ければ何とかなったかもなあ」
「だども、あんちゃ帰ってきてくれてうれしい。明日の晩にな、祓いを舞うんだ。卯月様がおめえしかでぎねえってさ」
それは楽しみだ、と由良は鈴音の頭を撫でた。
鈴音は目を細めて照れた。
村に入ると嫌な匂いがした。燃え盛る藁の山の上に黒ずんだ死体が縮こまって燃えている。
「流行り病、とうとう来てしまったか」
鈴音は黙って頷いた。
「だからお前が舞うんだな。ちぃさい頃から奇幻な事ばかり起こしてたからなぁ。卯月様もお前は凄い巫女になるとおしゃってた」
「おらは普通に暮らせればよがった。あんちゃとずっと」
由良は血の繋がらぬ妹に微笑むと、首を振った。
「お前は幸せになれ。楽しい事、一杯やれ」
鈴音はすこし寂しそうに微笑んで頷いた。
黄色い月を覆い隠そうと雲が走る。
夏も終わりに近づき、少し肌寒い。
明日は猪を狩ろう。皮と肉を売れば金になる。その金で今晩の祝いに鈴音に櫛でも買ってやろう。
そんな事を考えながら、焚き火に木をくべる。
梟の鳴き声が笛の音で掻き消された。
舞の始まりの合図だ。
神聖な儀式とかで人払いされ、少し離れた丘の上から見下ろしていた。
鈴音が見えた。
高台の上では小高く組まれた櫓の上で轟々と火が焚かれている。組み木が燃え盛り、火の粉が風に舞いながら天へと吸い込まれて行く。その火の周りを鈴音が舞っていた。
目を赤く縁取り、紅をさした唇は、日頃見るやんちゃな妹とは思えない程美しかった。
もう十五か。
櫛なんかじゃ見劣りするかと、少し恥ずかしくなる。
綺麗な着物はよく見栄えるだろうか。
舞う妹を見て、喜ぶ姿を思い浮かべた。まだ乳飲み子の
だった妹を狼から救って、もう十五年。大きくなったなあと微笑む。
鈴音が段々と激しく舞い、紅潮した頬を火が照らす。
舞楽を取り入れた祓いの舞いは時間と共に興奮が高まり、笛の音も緊張を増した。
炎に照らされ幾重にもできた影が鈴音を追う。焚かれた香が辺り一面に広がり、鼻腔に届く甘い芳香が眠気を誘ってきた。
鈴音の目は虚ろで、近づけば瞳が金色になっている事に気付いただろう。鈴音の長めの袖が舞いでそよぐと、吸い込まれるように火の粉も舞う。くるりと舞うと手にはめた鈴が、しゃん、と鳴る。
祝詞が調べに乗り、それに合わせて鈴と、笛が調和する。
草根の上で胡坐をかき、鈴音を見ていた由良は脇に置いていた刀を手を伸ばし無意識に探した。手応えなく、それでもしばらくはその事さえ気にならずに舞に見惚れていた。
祓いの数刻前、鎧を着る自分を鈴音は笑った。「俺も気を引き締めたい」と言ったものの、自分でも不安になる理由が分からなかった。刀を帯び、それでも不安になる。刀を抜くと剛刀名高し、「霜切り」は露に濡れ、泣いているようだった。
その事を思い出して我に返ると、刀を置いた場所を見る。だがその赤い鞘と柄は見えなかった。背後に気配を感じ振り返ると小作人の一人が刀を抱き抱え、目が合った瞬間に逃げ出した。
「刀を返せ!」
すぐさま駆け出す。
巨躯にも関わらす由良の動きは走る雲を追い越さんばかりに素早く、疾かった。
由良の長い髪を止めた髪留めがはじけとび、風になびく。
男は背に衝撃を受け、ごきん、と言う音が耳に届いた。由良は男の手から刀をもぎ取ると祭壇へと駆け出した。己の口から咆哮が放たれていることさえ気づいてはいない。
何故、祭壇から追い出されたのか。
何故、刀を盗み更に遠ざけようとしたのか。
妹を、鈴音を供物として捧げるつもりだ。
妹の名を何度も呼んだ。叫んだ。
風に溶けるが如くに疾駆する。
木々の間から祭壇の篝火が見えた。
巫覡の長である卯月が妹の背後で短刀を掲げていた。
由良は吠える。その目が濡れてはいるが涙ではない。赤い滴が眼を染め頬を伝い、地面を蹴るたびに四散した。物陰に隠れていた男が飛びかかって来たが、由良に腰から両断され絶命し、数人の覡らは降りかかる火の粉より容易く打ち払われていく。走る先に何人かの巫女がいたが、押し倒され踏み越えた刹那に肩を砕かれるもの、顎先を失ったもの、膝を砕かれて泣き叫ぶ者もいた。
最後の間合いを一息で飛ぶ。由良の刀が鈴音の頬を掠め、髪の一部を薙ぎった。
ひらひらと髪が舞い落ちる。
卯月の心臓を貫いた刀が抜かれると、その体は地面に崩れ落ちていく。見開いた眼は由良をしばし見つめていたがやがて輝きを失くした。
「鈴音!」
自分の胸に力なく倒れこんできた妹の体を抱いた。
背には短刀が刺さり、白地の衣装の赤く染まった部分が、徐々に大きくなっていく。
「すず」
背中から刺された槍の衝撃で由良の言葉が止まる。鈴音の震えた口が兄を呼んだ刹那、金色の目から涙が溢れる。
「あんちゃ、あんちゃ」
兄妹刺し貫いた槍先から血が滴り、地面に血溜まりを作っていった。
動くことも叶わぬ兄妹を、巫覡たちの容赦ない槍が次々と刺し貫き、二人の体を縫いとめた。血だまりの中に二人はゆるゆると膝を折り、地面にへたりこんだ。由良の胸に抱かれていた鈴音は荒く咳きこんで血を吐きだす。
「後は火が包んで終わりだ」
これで悪鬼を打ち滅ぼしたんだ、これで村も助かる。
そう云いながら人々は安堵の表情を浮かべ、二人を残し消えていった。
兄は妹の名を、妹は兄を呼んだ。
鈴音は息を整え、
「あんちゃ、おらの肉を食べて。今なら、あんちゃは助かる」
震えている声に由良は首を振った。
「馬鹿言うな。二人なら何も怖くない。ずっと一緒だ」
鈴音は自らの二の腕に歯を立てると、呻きながら肉を食いちぎった。そして口移しでその肉を由良に与えた。
「あんちゃ、食べる……だ。あんちゃは、生きなきゃだめだ。おらの……た、めに」
由良は冷えゆく妹の体を抱きしめる。
「あんちゃ、あんちゃ」
ちりん。
鈴音の手からはらりと落ちた鈴は血溜まりに波紋を立てた。
由良は歯を食いしばった。口の中の肉は熱く、燻る炭火、いや火の塊のようだった。肉から染み出る血が徐々に甘く思えてくる。
由良は嗚咽し、吐きだした。 だが地面から拾い上げ、また口にした。
妹の体には鬼がいた。その肉を喰らう。
動かなくなった鈴音を見る。
このままにしてはおけない。
妹の体は妹のものだ。誰にも触らせない。
ならば俺が喰ろうてやる。
由良の眼が金色に輝く。
額が熱かった。灼けるように熱かった。
体を起こし槍を引き抜く。
抜いた穴から、どろりと黒い液体が流れ出たが、すぐに穴は塞がった。
血だまりの中から鈴を拾う。
鈴音? どこだ。
由良はあたりをゆっくりと見渡した。
あんちゃは、ここにいる。
ちりん、と鈴を鳴らした。
自ら落とす涙に気付きもせずに、何度も鳴らした。
ちりん。
ちりん。
ああ、この先にだれぞいるな。
鈴音を、泣かす輩、ならば、喰ろうてやる。
ちりん。
ちりん。




