第二十六話 鈴鳴り
「何で転生していないと言い切れる?」
「この世に転生出来ないからだと思う。そうだろ、朧」
テーブルの上のぬいぐるみに生命が宿る。俺以外の人間の目が光った。人気だなあ、クマゴロウ。
「十拳剣をご存知か? お館様」
「……あ。僕のことか。なんか時代劇みたいだ。もちろん、あれから日本神話を読み直しましたよ」
「スサノオは十拳剣を使って我らを倒したとなっていますね?」
「そのように書かれていますね」
「一つであった神体を十の魂に分けた神具が十拳剣です。神体では敵わないがバラバラにすれば勝てる、そうスサノオが策を弄した結果が我らなのです。神具は神しか効果を発揮せぬもの。そう、神だから人の世に転生は出来ないのです。我々と違ってみはしらのうずのみこの精神体は人の器には入りきれないのです。いつぞやの咲子様の問いにお答えしましょう。何故、九ではなく十なのか」
「聞かせてください」
「大蛇の尾に隠された草薙の剣。我らの憎しみや恨み、苦しみ、悲しみと、あらゆる感情を一つの心にして生まれたのが草薙の剣、草薙童子です。あやつは十番目の弟で御座います」
「それではなぜ十家にならなかったの?」
母は訝しげに聞いた。
「以前、桜花が話した通りです。伊邪那岐様は九家を救うために草薙を贄とされたのです」
朧の答えに空が反応した。
「それは違います」
俯いて、話を続けるか苦悩する空。一瞬だけ俺を見て目を伏せた。
草薙の妻であった部分の記憶か。
「草薙さんは九頭竜の心、そして神器となるはずだったんです。そんな人が生贄なわけがない。スサノオ様は草薙さんを意図的に傷つけたんです。大事な部分を切り取るために」
大事な部分?
朧が困惑気味に聞き返す。それは俺も知らない話だ。十拳剣を使った時に草薙に何をした?
「慈しみ、です。他者への愛情を失ったんです。スサノオ様の考えでは、心が壊れたなら自ずと九頭竜は崩れる、と」
草薙を庇う空を見ていられなくなった。
わかっている。
これは嫉妬だ。浅ましいと思うが、この感情は俺か? ナナキか? いや決まっている、何方ともだ。
記憶の中のナナキの慟哭が聞こえた。
いや俺なのか?
抑えないとこのままでは取り返しがつかなくなる。
また俺の中で俺が生まれ、俺が消える。
「先輩?」
「大丈夫だ。俺の中の記憶が少し暴れている。ちょっと整理させてくれ」
キッチンに向かいコーヒーを淹れなおす。家族に背を向け、コーヒーの香りに集中する。
カウンターの向こうでは空と朧が軽い口論となっていた。神代の出来事の受け取り方の相違が問題らしい。
どうでもいい、過去の話だろ。落ち着くどころか苛立ちが増すばかりだ。
「ちゃんと向き合った方がいいですよ、過去にもお姉ちゃんにも。兄さん?」
苺が傍に来て肩に手を乗せた。俺は今、慰められているのか、それとも説教を受けているのか。多分、両方だろうな。年下に見透かされるとか大概だ。
「お前の言う通りだ。俺は昔強かったかもしれない。その記憶もある。でもその部分だけは未だに馴染んでいないんだ。まるで……そうだな。夢を見ているようだ。そんな夢に俺は腹を立てている。こんなんだから俺はいつまでたっても強くならない」
「兄さんは強いですよ。転生者の私に人間の部分で勝ったんです。まったく屈辱ですよ」
拗ねた表情だが、言葉に合わせた演技だ。だが偽物じゃなく、作らないと出せない表情なんだろう。人に関心がないように見えて案外、面倒見がいい。その辺は意外だな。
「向き合う、か」
「それに。お姉ちゃんをもっと理解してください。なんで兄さんの前であんな話をするのか。お姉ちゃんが辛くないわけないでしょう。ほんと、どっちが守って、守られてるんだか」
空を見た。
涙を辛うじて堪え、心配げにこちらをちらちらと見ている。
そうだな。馬鹿なのはいつも俺の方だ。何度、恥をかけば気がすむんだ。溜息をついて胸の中の苦い空気を吐き捨てる。敢えて兄と呼んだ苺の心配りに感謝だ。
俺は苺の頭をぐりぐりと撫でた。
「すまん、お前はいい妹だ」
言い終わった瞬間、こめかみを貫くような痛みを伴う高音が通り抜けた。
苺が何かを言いかけて止まった。
二人とぬいぐるみがある方向を同時に見る。
「気付いたか」
「ええ」
テーブルの上のクマゴロウの魂が抜けて、床に転がり落ちた。
「これはなんだ! 朧、いや螺旋!」
俺の声に空が母にしがみ付いて怯えた。母も今の違和感にうっすら感づいたのだろう、辺りを警戒し目配りをする。父は隠し棚から刀を二本取り出し、一本を俺に投げ渡した。
螺旋の声が響き渡る。
若様、巫覡の結界だよ!
ちりん。
薄暗い住宅街の通りに鈴が鳴った。
「鈴、音、聞こえない、のか」
ちりん。
「何処、だ?」
ちりん。
「迎えに、きたぞ」
声は、しっとりと闇に紛れていく。
あろうことか闇が動いていた。
闇が動く先々の街灯はぽつりと消えていく。
蠢く闇が消え去ると安心したかのようにまた明かりを灯して日常を取り戻す。
奏は辺りの空気の温度が下がるのを感じた。日が落ちて月が空を占めていたとしても、まだ夏の夜。鳥肌が立つほどの寒気はあろうはずがない。このシーズンは友人たちやネットで、心霊物の話がちらほら耳にする。奏はそれを怖がりはするが、日常生活に入ればすっかり忘れるたちだった。
突然、何かの破裂音が聞こえ、目の前にある住宅の玄関先のライトが消えた。
ただ古くなった電球が壊れただけじゃん、と自分に言い聞かせた。変な事を考えないように学校に提出する合宿プランの草案に集中し帰宅を急ぐ。
急に耳が痛くなった。
突き刺さる高音が鼓膜を痛めつける。
金属が引き裂かれるとこんな音ではないか。
突如、静寂が訪れた。
目の前にある自販機の光が明滅を繰り返し、小さくはじける音がしたかと思うと、それは光を失った。
頭上からも同じ音が聞こえ、闇が降りてくる。
やがて街灯はおろか、生活の証である住宅の窓の明かりが、奏を中心にして消えてった。
暗闇の波紋は勢いよく広がり、もはや視界内に存在する人工的な光は無い。
空に浮かぶ月が唯一の光となり、危うげに輝いている。
そして、こんなに赤い月を未だに見た事が無かった。
ちりん。
奏は足元から聞こえる音の元を探した。
「ひっ」と小さく叫ぶ。
足元には、のたうちまわった筆が描いたような、どろりとした漆黒の沁みが地面に張り付いていた。自分の呼吸が激しくなっていることに気付かず、冷静さも失っていく。
蠢く闇の塊の中に、すっ、と赤い一筋の線が描かれるように現れ、そして、それは開き、囁く。
おまえは、鈴音か?
奏の呼吸は止まった。心臓も止まったかのように思えた。
ちりん。
にいちゃん、迎えにき、たぞ。
ちりん。
ちりん。




