第十九話 八岐大蛇
「咲子様、貴女様なら九頭竜と聞いて何を思い起こされますか?」
「もちろん八岐大蛇。我が家に伝わる言葉に、八岐から生え出る草薙を得て九頭竜と為す、とあるの」
「では何故、九頭竜家が九家に別れている事には?」
「それは古くから連なる家系で……別れたんじゃないのね、まさかそういう事?」
「お察しの通り。朧、桜花、螺旋、疾風、氷姫、焔、赤眼、青眼、若様で八岐大蛇。そして若様は大蛇の党首で在らされます」
母が指折りで数える。
「なるほどね。九家で一つ。その名が八岐大蛇。金童子が、何故、九頭竜が人に与するのかって言っていたのは?」
「長いお話しになります」
空がお茶を用意します、とキッチンへ向かう。それを待って各々が思いを巡らせた。
「我々、元は一つの心でした。数多なる水神達の一柱で人に恵みの雨をもたらし、河川は命を運ぶ役目として産み落とされました。ですが人には無関心で、極力人と関わり合うのは避けていたのです。尾根に身を潜め、体には苔や花を纏い、微睡の中、それは長い年月を過ごして参りました。ある日、奇稲田姫を見かけた時に人への愛情を覚えました。初めて知る感情に衝撃を受け、恐れと喜び、悲しみと絶望、それに耐えきれず心が十に引き裂かれましたが、それが功を奏し死を免れる事が出来ました」
空が俺の横に座りこちらを見て微笑んだ。俺は意味もなく頷き微笑む。
「ですが奇稲田姫を想う気持ちは失われず、人間に姫を差し出すように神託を下してしまいました。暫くは姫と生きる時間を楽しみ、十の心のうちの一つが求婚し結ばれました。だが後はご存じのとおりです。我々はスサノオに討たれ、愛する奇稲田姫を人間に奪われたのです。その怨念は我々を鬼に変えました。狂おしいほど怒り、激しい劣情、我が身を焦がす悲しみ。人を憎み、同じ位恋い焦がれ。そんな我々を伊邪那岐命様は不憫に想い、怒りを一つの心に集め、九つの心をお救い頂きました。残ったのは慈しみと悲しみ、そして愛情。それらは再び我らを人から遠ざけたのです」
「なんかロマンティックなお話しですね」
空がそう言葉を零すが、心境は穏やかではないのがわかる。この話はこれで終わらないのを俺と空は知っているからだ。
「それが長い年月の間に、恨みを滾らせ人に災いもたらす九頭竜、となったようですね」
俯いてた母が「十? 九ではなく?」と母が疑問を呈すが、答えを待つ余裕がなくなった。急に胸が苦しくなる。冷汗が止まらなくなり、動機が早まる。俯いて気取られないようにするが察した空が手を握ってきた。
「この話は此処までに致しましょう。若様、申し訳御座いません」
「俺にもわからん。きっと思い出したくないことがある」
「ひめ」と、桜花は言葉を区切り、
「空、若様をお願いします」
「はい。先輩、横になって」
空がハンドタオルを水に浸して俺の額に乗せる。
視界がぐるぐると回る。この感覚は記憶が戻る時のものだ。今は思い出したくない。出来れば忘れてしまいたい。
忘れてしま
「忘れられるものか!」
「草薙、落ち着け」
「どうして落ち着いていられようか! 妻を奪われたのだぞ! うぬらは命惜しさにスサノオに妻を差し出したのだ!」
「それは違う。姫様自ら出ていかれたのです」
「桜花は黙れ! お前がついていながら、やすやすと渡しおって」
「私が望んで見送ったとでも?」
殺気立った桜花は草薙に詰め寄った。辺りの蔦がざわめき波打って二人を取り囲む。
「よさぬか。我らが一つであったなら、こんな苦しみを受けずに済み、人との愛を知らずにすんでいれば争わずともよかったのだ」
蔦が静まると波が引くように桜花の下へと消えていく。
「だが我らは知ってしまったのだ! お前はいつもそうだ。理想を語り、夢をほざく。もうなかったことには出来ぬというのに。それに名を語らぬ愚か者よ。そんなに姫の心に名を刻まれるのが怖いか。名を口にされ、その声を思い出すのがつらいか。その捻じ曲がった愛情のせいで、お前のほうがよっぽど怒りを身に抑えるのに辛かろう。そうだろうな? 俺に取られ、人間に取られ、怒りで煮えたぎった血が己を焦がすほどにな。スサノオを殺したくてたまらないのはお前の方だろうが!」
俺の手が草薙の首元を掴み、高く持ち上げる。草薙は俺の手の拘束を振り解けず悶え苦しむ。
このままへし折れば少しは気が紛れるのだろうか。こいつの言うとおりだ。怒りは納まるどころか体中を駆け巡り、血を滾らせている。
だが。
草薙を地面に降ろすとよろけて腰を抜かした。歩み寄って手を差し出すが払いのけられてしまう。代わりにゆっくりと肩を叩いた。
「泣くな、草薙。姫は人として生きるのが一番幸せなのだ。鬼に堕ちた我らはもう、関わってはならぬ。忘れろ」
草薙はふらりと立つと、最初は小さく、そして木々の葉が震えるほど叫び始めた。
「俺は忘れぬ! 未来永劫どれだけ月が泣こうとも、陽が逃げようとも、何処までも追い詰め、この怒りの火が人の血で治まるまで奴らの血を浴びてやる!」
「草薙! 何処へ行く!」
俺の手からまた零れる。大事なものを掴めないこの手は何と役立たずか。愛する人を失い、兄弟を失い、それでも俺は人を憎めずにいる。それが奇稲田姫の願いでもあり、我々に託した意志でもあった。
残酷なことを言う。
だがそれが願いならば俺は叶える他ないのだ。
ただの植物と変わらなかった俺に心をくれた人の願いなれば。
月を背に跳躍した草薙は、三度地を蹴ったときにはすでに姿が見えなくなった。その背を追う資格はない。草薙は妻を失った。その悲しみと怒りをどう癒やせばいいというのだ。俺にはわからぬ。誰にもわからぬかもしれん。だが俺の罪は手を差し伸べる事もせず、時間に委ねようとしたことだ。
「俺が草薙を見捨てたのだ。俺は何も救えない、何も守れない、雷をやり過ごそうと子供の様に軒下に隠れているだけだ。何度、生まれ変わっても、俺は、変われない大うつけ、だ……また空を、守れない」
「先輩! 今、先輩は涼風風鈴です! 鎺大学一年生で私の大好きな風鈴先輩です! 戻ってきて!」
気付くと俺の頭は空の膝の上で胸に抱かれていた。息を忘れているのはいつもの事で、慌てて空気を求めて息を吸う。火花が散る視界の中で空と母が俺を覗き込んでいた。
「空、今何か……言ってたか? なに、か……大……事な、こと、き、きき、聞き逃したような気が、する」
「知りません! 今度は二時間も息してなかったんですよ!」
「記憶を辿りすぎて深すぎましたニャ。あれ? この体に同化しすぎましたですニャ」
「今度は人工呼吸してませんから。桜花さんですから」
「あー。やっぱり、してくれて、たのか」
「してません!」
「ふうちゃん、大丈夫、なの?」
俺は起き上がり、耐えがたい頭痛に眉をひそめる。
「若様すみませんニャ。その痛みは取り除けませぬニャ」
「桜花」
「なんですニャ?」
「朧も語尾にクマ! とかつける様になるんだろうか」
「開口一番に聞く話じゃないですニャ!」
そう言って空いた空の膝の上に戻って「疲れましたニャ」と言って丸くなってゴロゴロ言い始めた。
猫か! まぁ、猫だ。
「古い記憶程、長い時間、眠る? 死んでる? のかな。どっちか分からないけど結構しんどいな。今回は多分、古事記迄遡ってた。スサノオに倒されたんじゃない、争いを避けるため空を差し出したようだった」
ソファの上で頭を抱える。なんだこの喪失感。現実そのもの感覚だ。いや、多分そうなんだろう。スサノオに空を奪われ、話からすると空と結ばれたのは俺じゃない、草薙だ。失恋と失態と喪失がミックスされて胃の中に押し込まれた気分だ。
床の上に涙を落とす。見られないように体を折り曲げ腕で顔を隠すと、背に暖かい体温を感じた。
「先輩が言ってくれました。考えよう、って。でも今は何も考えない方いいですよね」
「そうだな、今は頭を空っぽにしたい」
「そう、いっつも何も考えず、突っ走るのがふうちゃんよ」
「まるで俺が馬鹿な奴みたいな」
「まるで、じゃない。馬鹿なのよ」
「大学もスポーツ推薦だしな」
「お陰で浮いたお金でおいしいもの食べれるし」
起き上がりながら涙を拭くと空を見た。
未来の話じゃなく過去の話だ。何があったかは重要だが、これから歩く道じゃない。それを背負って先へといこう。
「なんですか、見ないでください。恥ずかしい」
母がニヤニヤとしながら空の手を引いてキッチンへと連れ出す。
「なになに? さっきの話、ほんとにアレでいいの?」
「や、やめてください、おかあさん。絶対内緒ですよ?」
何の話か分からんが仲がいいのはいい事だ。もう嫁になって欲しい。
そう、この時代では俺の傍にいて欲しい。




