鬼人御伽 序・弐
「おい」
男は自分に呼び掛けられたかどうか確かめるために辺りを見回す。自分と返事ができぬ鈴本の他には姿が見えなかったが、遠くからパトカーのサイレンが聴こえ始め、安堵の溜息を、意図せず漏らしてしまった。
自分を見下ろす男は異様な大きさだった。二メートル程なら珍しくはあるが現実にいるという認識は出来る。だがその長身でダビデ像のように隆々とした筋肉からしなる音さえ聞こえてくるような造形は、神の作品と言われても何ら不思議ではなく、相手は男ではあるが見惚れてしまう、そのような美丈夫だった。
男は自分の足に違和感を感じた。見ると膝は踏み砕かれ膝下が地面を転がっていった。叫びながら傷口を押さえるが、指の間から吹き出す噴血を抑えることは出来なかった。
「私の声が聞こえていなかったのなら仕方があるまい。無礼は据え置こう。腹わたが煮えくり返っておって自制が効かぬとは、頼光の顔を見た時分より久方ぶりだな」
そう言いながら腰を抜かしている男の頭を掴むと顔の位置まで挙げて顔をしかめた。
「出来ればおなごであれば良かったが是非も無い」
そう言うと口を開きかけたが、背後に人の気配に気付き半身だけ振り返り首を傾げる。
「その人を地面に降ろしなさい!」
警官は不審な男の傍らの死体に気付いて、拳銃のホルスターのカバーを外しグリップに指を掛けた。全裸の男は自分の出で立ちを気にもせずに振り返り警官の拳銃を見た。
「いま……何年だ」
「いいから降ろしてくれ。それから話を聞こう」
「これのことか?」
無下に地面に放り投げると、初老の作業者は地面に打ち付けられたあと微動だにしなくなる。頭部には指で穿った穴からどぷりと血が流れていた。
「貴様!」
警官は拳銃を抜くと両手でグリップを握り、正面で構える。
「それはなんだ?」
「動くな! 止まれ!」
覚束ない足取りで、ふらりとしながら近付く。
警官は空に一発放つと再び構え直す。
「警告はした! 次は撃つ! 大人しく膝をついて手を頭の後ろに組むんだ!」
「私に膝をつけと言ったか?」
警官は身震いをする。気温が下がったのかと勘違いするほどに。
ひりつく肌に鳥肌が立っているのが判った。
近づく男を見て警官は、死は見えないものじゃない、歩きさえするじゃないかと自嘲する。
トリガーを引く。目の前の男は予期していたかのように躱した。次弾を撃とうとしたが手ごたえがない。両手首が切断され、銃を握り締めたまま地面に落ち行く様をゆっくりと眺めた。
目眩がすると視界が閉ざされ、再び目に光が戻ると土と砂地の地面がすぐ目の前にあった。首が動かないので視線を動かすと首のない警官の姿が倒れるのを見た。その体が自分のものだと気づく前に警官は命を止めた。
「今宵は良い月になりそうだ。さて義覚、義賢は何処や」
月を見上げる男の口元は血で染まり、顎先から雫を垂らすと地面に華を咲かす。
名は、草薙童子。
その目覚めは厄災の目覚めでもあった。